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2024年4月23日火曜日

19.このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)

このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「だが、観察とも照察とも決定的におもむきを異にしている知覚というものがある。
 観察者と照察者とは、彼らがひとつの眼目、まさに、われわれの眼前に生きている人間を知覚しようという意向を有している点で共通している。

さらにこの両者にとって相手の人間は、観察し照察する彼ら自身からも、彼らの個人的生活からも切り離された一個の対象であり、まさにそれゆえにこそ《正当》に知覚され得るのだ。

したがって彼らがそうして経験するものとは、観察者においては諸特徴の総和であり、照察者においてはひとつの存在(Existenz)であるというようにことなってはいても、それによって彼らに行為が要求されることも、運命がもたらされることもなく、むしろすべてのことは、切り離された知覚能力(Ästhesie)の場においておこなわれるのである。

 だが、私の個人生活がある敏感な状態におかれている時に、ひとりの人間が私のまえに現われ、彼のところから私にむかって何かが、私がまったく客体的に把握できぬ何かが、《何かを語る》ような場合、事情は別である。

この場合、その人間がどういう人間だとか、彼のうちにどのようなことが起こっているとか、そういうことが私に語られるのではけっしてない。

いや、何かが《私にむかって》語られ、語りかけられ、何かが私自身の生のうちへと語りかけられるのだ。

それは、その人間に関する何か、たとえば、彼が私を必要としているというようなことでもあり得るし、一方また、この私に関する何かでもあり得よう。 

しかしその人間自身が、私とかかりあうことによってこのような語りかけにたずさわるのではない。彼はそもそも私とかかりあってはいない、彼はたぶん私の存在にすらまったく気づいてはいないわけである。

つまり、そのことを私に語るのは彼なのではなく、ただ何かによってこちらへと《語られる》ことがあるだけなのだ。

それゆえあの孤独な男がベンチのうえで、隣の男に自分の秘密を無言のままに打ち明けたこととは、話がまた別なのである。

 この場合、《語る》、《語られる》という言葉を比喩として理解するなら、事は理解されない。《これには何も語りかけてくるものがない》という慣用句は、比喩としてはもう擦りきれている。

しかし、私が指し示している語りかけは、事実として存在する言語なのだ。言語という家のなかには多くの部屋があり、そしてこの場合の言語とは、内面の言語という部屋のうちのひとつなのである。

 このように語りかけられることを感受するという行為は、照察や観察のそれとはまったくことなっている。私は、そのひとのところから、そのひとを通して何かが私に語られたところの人間を、描写したり、物語ったり、記述したりすることはできない。

もし私がそうしようとこころみるならば、あの語りかけは止んでしまうだろう。この人間は私の対象物ではない。私は彼に関わりを持つにいたったのである。たぶん、私は彼との関係を通して何かをはたさなければならない。

だがたぶん、私はただ何かを会得することができるだけであって、そして肝心なのはただ、私がその語りかけを《引き受ける》ことなのである。

この場合、私がほかならぬその人間にむかって直ちに応答するようなこともあり得よう。あるいはまた、その語りかけが、長いあいだにおよぶ一種の多様な連動作用を有していて、私がその語りかけにたいしてどこか別の所で、いつか別の時に、だれか別の人間にむかって応答することもあり得よう、……いかなる言語によってであるかはいざ知らず。

そして今は、私がその応答を引き受けるということだけが大事なのだ。いずれにしてもしかし、私にむかってひとつの言葉が、ひとつの応答を求めるひとつの言葉が生じたわけである。

 このような種類の知覚を私は感得(Innewerden)と名づけることにしよう。

 私が感得するのは人間であるとは限らない。それは動物でも、植物でも、石でもあり得るのだ。時に応じてそれらを通して何かが私に語りかけられるところの現象の系列から根本的に締め出されているような、いかなる種類の現象も、出来事も存在しないのである。

いかなるものも、言葉の容器たることを拒むことはできない。対話的なものの可能性とは、感得の可能限度なのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話




照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 照察者(Betrachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)


「照察者(Betrachter)は、そもそも緊張していない。彼は対象を自由に見ることができるような姿勢をとり、自分のまえに示されるだろうものを虚心に待つ。

ただ最初のうちだけは、彼の心にも意図がはたらいているかも知れないが、そのあとのことはすべて無意的におこなわれるのだ。

彼はせかせかと記録したりはしない。彼は伸びやかにふるまい、何かを忘れることなどはすこしもおそれない(《忘れるのはよいことだ》と彼は言う)。彼は自分の記憶に責務を課したりはしない。

彼は、保持するにあたいするものを保持してくれる記憶の有機的なはたらきを信頼しているのだ。

彼は観察者のように草を緑色飼料として刈りいれたりはしない、彼は草の向きを変えて陽光を受けさせてやるのだ。

《特徴》には彼は注意をはらわない(《特徴は眼をあざむく》と彼は言う)。対象にそなわっているもののうち、彼にとって大事なのは、《特質》でも《外容》でもないところのものである(《興味をひくものは重要ではない》と彼は言う)。あらゆる偉大な芸術家は照察者であった。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.199-200、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)

観察者(Beobachter)(マルティン・ブーバー(1878-1965)




 「われわれの眼前に生きているひとりの人間(私が念頭においているのは、学問の対象としての人間ではない。私はここでは学問については語らない)をわれわれが知覚する方法は、三つに区別される。

さてこの場合、われわれの知覚の対象である人間が、われわれのこと、われわれが彼のそばにいることを、知っている必要はいささかもない。彼がわれわれの知覚行為に何らかの関わりを有しているかどうか、何らかの挙止によって応ずるかどうかということもまた、どちらでもよいのである。

 観察者(Beobachter)は、被観察者を記憶に刻印し、《記録》すべく、このうえなく緊張している。

彼は相手を探知し、記述する。彼はしかも、あたうる限り多くの《特徴》(Züge)を記述しようとやっきになっている。彼はさまざまな特徴を、それらのうちの何ひとつとして取り逃すまいとして待ち伏せるのである。

対象はここではさまざまな特徴によって成り立っているにすぎず、あらゆる特徴について、その背後にひそんでいるものが知られてしまうのだ。

人間的事象の表出方式なるものについての知識が、新しく現れてくるさまざまな個人的な表出変差を絶えず直ぐさま抱合してゆき、相変わらず役立つわけである。

顔はここではたんなる表情にほかならず、行動はたんなる表出様態にほかならないのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『対話』記述(集録本『我と汝・対話』)pp.198-199、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月15日月曜日

18. われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)

 われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


「われわれが啓示と呼ぶところのものの永遠的な原現象(Urphänomen)、《今》と《ここ》におけるその永遠的な根本現象とは何であろうか? 

それは、あの至高の出会いの時間から出てくるとき、人間はその出会いのなかへはいっていったときの彼とはことなっているということである。

そのような出会いの瞬間とは、敏感な魂のうちで昂揚し完成するひとつの《体験》なのではない。そのときには、人間との関わりにおいて何ごとかが生ずるのだ。それは時としては微風のようなものとして、時としては格闘のようなものとして生ずるが、いずれにしても何ごとかが生ずるのである。

そして純粋なる関係という本質的行為から歩み出る人間の存在のなかには、ひとつの《より以上》(ein Mehr)が、ひとつの新たに発生したものがもたらされているが、それは彼がこれまでは知らなかったもの、またそれがどこから起こったかをあとからただしく言いあらわせないものである。

世界の現象の位置づけを好むような科学的操作は、無欠な因果律をうち立てようとするその権限を行使して、こうした新たなことの由来をも、何らかの因果的構図のなかへ組みいれてしまうことであろう。

だが、現実的なものの現実的な考察を重んずるわれわれには、潜在意識だの、その他の心的からくりによる説明は受けつけられない。

われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。

聖書には語られている、《神を待ち望む者らは、新たなる力によって生かされるであろう》と。またこのような現実を伝えることにかけてやはり誠実であるニーチェは語っている、《人は受け取る、だが誰によってあたえられるかは問わない》と。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.146-147、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月8日月曜日

17. 神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「《宗教的な》人間とは、単独者として、唯一者として、孤立者として神の前に歩んでゆく者だというようなことが語られている。

なぜなら彼は、この世界の義務と負い目になおも服しているような《倫理的》(sittlich)な人間の段階をも通りこえてしまっているからである、と。

倫理的な人間はまだ、行為者としての自分の行為にたいする責任という重荷を明らかに背負っているが、それは彼が存在と当為のあいだの緊張によって全く規定されているからで、だから彼はこの両者のあいだの埋められぬ深淵のなかへグロテスクにも絶望的な犠牲心から、自分の心の切れはしを次々に投げいれる、……

《宗教的な人間》はしかし、そうした緊張を脱して、世界と神とのあいだの緊張のなかへふみこんでいる、というわけである。」(中略)  

「だがこれは、神が世界を仮象たるために、そして人間を酩酊者たるために創造したと思い誤っているものである。

たしかに神の顔前に歩みよる者は、犠牲や負い目を通りこえてはいる、――しかしそれは、彼が世界から遠ざかったからではなくて、彼が世界に真に近づいたからである。

われわれが世界に義務と負い目を感ずるのは、世界が疎遠なものである限りにおいてであって、親密なものである世界にはわれわれは、ただ愛によってのぞむのだ。

神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。そのとき世界と神とのあいだにはもはや緊張は存在せず、ただ《唯一》の現実だけが存在するのだ。

といっても、このとき人間は責任から解除されているわけではない。ただ彼は、限定された、おのれの効果を気がかりに追跡するような責任がもたらす苦痛を、無限なる責任というものの振動力と取り替え、またそれを、感取し得ぬ世界現象全体にたいする愛にみちた責任の力と取り替え、神の顔前において世界のなかへ深く引きいれられるということと取り替えてしまったのである。

たしかに彼は、倫理的判断なるものを永遠に廃棄してしまったのだ。

このとき彼にとって《悪しき人間》とは、より深くそのひとにたいする責任が彼に託されているところの人間、よりいっそう愛を受けることを必要としているところの人間にほかならない。

だが、彼は彼の自発性の深みにおいて、正しき行為への決断を死にいたるまでなし続けねばならないであろう。正しき行為にたいする、ゆとりのあるたえず新たな決断を。

ここでは行為は無意味なのではない。それは求められ、使命としてあたえられ、役立てられ、創造のわざにその一部分としてつらなっている。だが、こうした行為はもはや世界にたいする義務として課されているのではなく、世界との触れあいから、あたかも無為であるかのように生じてくるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.143-146、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








2024年3月31日日曜日

16. 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。(マルティン・ブーバー(1878-1965)





「神との関係における本質的な要素は感情であると見なされがちで、それは、依存感情(Abhängigkeitsgefühl)と名づけられたり、最近ではより正確に、被造物感情(Kreaturgefühl)と名づけられたりしている。

が、このような要素の摘出・定立が正当であるだけに、それを不均衡に強調すればするほど、完全なる関係というものの本質は誤解されてしまうのである。

 愛についてすでに私が語ったことは、この場合には一層よくあてはまる。すなわち感情とはただ関係的事実に、しかも心のうちにではなく、《我》と《汝》とのあいだに生ずる関係の事実に付随するにすぎない。

感情はいかに重要なものとして理解されていようとも、心の力学の支配下におかれているのであって、そこではひとつの感情は他の感情によって追い越されたり、凌駕されたり、消去されたりするのである。感情は――関係とは異なって――ひとつの階列のうちにおかれているのである。

だが、あらゆる感情は何よりも先ず、一種の両極的な緊張の内部に位置していて、その色調や意味をみずからのうちからのみではなく、自己の対極からも引き出すのだ。あらゆる感情はそれぞれ対立するものによって限定されているわけである。

したがって、絶対的関係という、あの、あらゆる相対的関係を自己の現実性のうちに包括していて、それらと同様な部分的な出来事ではなく、それらを完成し合一する全体であるものでさえ、心理学の手にかかると相対化されて、一種の孤立的に摘出され限定された感情に還元されてしまうのである。

 心情という次元からみるなら、完全なる関係というものは、ただ両極的に、反対の一致(coincidentia oppositorum)として、すなわち対立しあう感情の一致としてのみとらえられる。

たしかに、その一方の極はしばしば――人間の宗教的な根本態度によって下方に押しかくされて――反省的意識の表層からは消え去り、そしてただ、このうえなく純粋で、何ものにも惑わされぬ静観の深みにおいてのみ想起され得るのだが。

 そうだ、純粋なる関係のなかできみは、他のいかなる関係のなかでも感ずることができぬように、きみがまったく依存しているのを感じていた、――しかもきみは、他のいかなる時と所においてもあり得ぬように、きみがまったく自由であるのを感じていたはずだ。

きみはそのとき自己を被造的な――しかも同時に創造的な生命として感じていた。きみにはそのときもはや、他方によって制限されたそのどちらか一方ではなくて、両方が無制限に、両方が相い共に存在していたのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.107-108、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年3月24日日曜日

15.理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)

 理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)



「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。

国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。

しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。

諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。

決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。

社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。

これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。

なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。

精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。

その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

我と汝/対話






2024年3月17日日曜日

14. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「組織が公的生活を生み出すものでないことは、ますます多くのひとびとが、しかもますます募る苦悩をもって感じ取っている。

これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。

感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。

そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれることがない。なぜなら、絶望もまたひとつの感情、興味ぶかい対象だからである。 

 組織が公的生活を生み出すものでないということに苦しむひとびとは、ひとつの解決手段を思いついた、……すなわち、それを他ならぬ感情によって、ゆるめたり、溶かすなり、うち破るなりせねばならないというのだ。組織のなかへ《感情の自由》をみちびきいれることによって、まさに感情の面からそれを革新せねばならないというわけである。

たとえば、国家が自動機械じみたものに化されてしまって、たがいに心の触れあいのない市民をただともかく繋ぎあわせているにすぎず、彼らのあいだに何らの共同的なつながりをもうち立てたり推し進めたりしていないからには、このような国家は愛の共同体(Liebengemeinde)によって取りかえられるべきだというのが、このひとびとの考えなのだ。

そして愛の共同体とは、民衆が自由な、熱烈な感情にうながされて集いあい、たがいに生活を共にしようと欲するときにこそ成り立つというのである。

だが、事実はそうではない。真の共同体(Gemeinde)とは、ひとびとがたがいにあたたかな感情をもちあうことによって成り立つのではない(むろんこのことなしには成り立たないとはいえ)。

真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立するのである。


この後者は前者から生ずるのであるが、しかしこれが前者とともにのみ存在したためしはまだない。共同体は生ける相互関係をもとにして築きあげられる、しかし、その建築師はあの生きて働きかけてくる中心なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.60-61、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話







2024年2月3日土曜日

13.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)


組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)




「経験と利用の機能の向上は、たいていの場合、人間の関係能力の低下と引きかえに起こる。

 精神を自分のための享受手段に仕立てあげてしまった人間……このような人間は、自分のまわりに生きている存在といったいどのように関わりあうのであろうか?

 このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまうのである。 

 組織とは《外部》のことであって、ここでは
ひとは、ありとあらゆる目的事にかかずりあっている。労働し、取り引きし、影響をおよぼし、企業し、競争し、編成し、経営し、執務し、説教することによって。この《外部》とはいちおう秩序づけられた、また、いささか調和もとれている機構であって、そこではさまざまな要件が、人智と構成人員との多様な参与によって推進されているのである。 

 感情とは、ひとがそこで自分だけの生活をいとなみ、組織の束縛からはなれて休養するところの《内部》のことである。ここでは情緒のスペクトルが興味ぶかく眺める眼のまえで揺れ動き、愛好や、憎悪や、快楽や、そして、それがひどすぎるものでなければ、悲しみすらも享受されるのだ。ここではひとはくつろいで、そして揺り椅子のなかで身を伸ばすのである。 

 組織は厄介の多い集会場であり、感情は変化にみちた古城の私室である。 

 むろんこの両者の境界はたえずおびやかされている。なぜなら、気まぐれな感情は時としては、いかに即物的な組織のなかへも闖入するからだ。しかし、いささかそのつもりになれば、この境界はふたたびきちんと画されるのである。

 いわゆる個人生活の諸領域の内部でこのような境界を確実に画することは、もっとも困難である。たとえば結婚生活においては、これはそう簡単にはおこなわれないことがある。だが、ここにもやはりその種の境界は存在しているのだ。

いわゆる公的生活の諸領域においては、その種の境界はきっぱりと画されている、たとえば、諸政党や、あるいはまた、超党派性を標榜する諸団体の年間の明け暮れや《活動》をながめてみるがよい、ここでは天を衝くばかりのはげしいやりとりが交わされる会合と、そして――機械的に一様な、といってもあるいは有機的にだらけた、といっても同じことだが――地を這うような実務とが、見事に分離しているのである。

 だが、組織の場における分離された《それ》は、一種のゴーレムであり、感情の場における分離された《我》は、飛びさまよう一種の魂の鳥である。 

この両者とも、真の人間というものを知らないのだ。前者はただ規範を、後者はただ《対象物》を知っているにすぎず、いずれも人格たる人間を、共同性を知らない。いずれも現在を知らないのである。
 
組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》(das Nochnichtsein)を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。組織は公的生活を生み出さず、感情は個人生活を生み出さないのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.58-60、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








2020年5月19日火曜日

12.幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

関係への努力という根源的欲求

【幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「関係への努力という根源的欲求は、もっと幼い、もっともおぼろげな生成段階においてもすでにあらわれる。

まだ個別のものが知覚され得る以前に、幼児の視力に乏しいまなざしは、模糊たる空間のなかへ注がれ、ある定かならぬものに向けられる。そして乳を欲しがっていないようなときには、やわらかな両手を、見たところはあてもなく空中にさし出し、ある定かならぬものをさがし求め、つかみ取ろうとする。

これを動物的と言いたければ、そう言うがよい、しかし、それでは何も理解したことにならない。

なぜなら、まさに幼児のこのまなざしは、長い練習のあげくに、ひとたびじっと赤い絨毯のアラベスクのうえにとどまると、赤という色の魂がそのまなざしの前にすがたをひらくまでは、もうそこからそらされないだろうからだ。

また、幼児のこの手の動きは、毛のふさふさとした玩具の熊に触れることによって、自己の感覚形式を明確に獲得し、ひとつの完全な体をそなえたものをいとおしく、忘れがたく感知するようになるだろうからだ。

これらはいずれも対象物の経験というようなことではなくて、ひとつの――むろんただ《夢想》のうちにおいてだが――生きてはたらきかけてくる相手との触れあいなのである。

(ここで《夢想》というのはしかし、決して《万物霊有化》(Allbeseelung)ではなく、万象を自己の《汝》としようとする衝動、万象との関係をもとめる衝動であり、この衝動は、実際に生きてはたらきかけてくる相手が面前にはなく、ただその模写や象徴物しかない場合には、みずからの充溢によって、その生きたはたらきかけの欠如を補ってしまうのだ。)

いまはまだ、ちいさな、不明瞭な声が、意味をなさぬままに、根気よく無のなかへと響いている。だが、まさにその声がいつの日か、ふいに対話へと変わっていることであろう。いったい何との? 恐らくはぐらぐらと沸きたっている湯わかしとの。だが、やはりその声は対話となっているのだ。

反射行為といわれている数かずの運動は、実は人格という世界が構築されるときの、しっかりとした漆喰鏝なのである。

幼児は決して、最初にある対象を知覚し、それから自己をその対象と関係させたりするのではない。最初にあるのは、関係への努力だ、向かいあう存在がそのなかへ引きいれられる、あのふっくらとした手だ。

そして第二に起こるのが、向かいあう存在との関係、《汝を言うこと》(Dusagen)の言葉なき前形態なのだ。

《汝》が《もの》となることなどは、しかし、もっと後になってからの所産で、――《我》の成立にしてもそうであるように――根源的関係体験の分裂、つまり、結合しあっていた相手との分離から生ずるのである。

はじめには関係があるのだ。存在のカテゴリーとして、準備として、把握の形式として、魂の鋳型として。はじめには関係のアプリオリが、《生得の汝》(das eingeborene Du)があるのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.37-39、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係への努力)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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2020年5月5日火曜日

11.生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我の意識の起源

【生存と認識にとって最重要なものが、身体との関係事象として最初に現われる。次に対象が出現するが、道具や玩具の事物に向き合うのは全体としての身体である。最後に、関係事象から我が客体化され分離する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

我の意識の起源
(1)関係事象、作用しかけてくるもの
  向かいあう存在がありありと体感され、ただ全身で受けとめられる関係事象が、最初に存在する。次に、関係における作用の担い手が対象化される。神秘的威力を持った、月、太陽、野獣、酋長、シャーマン、死者たち。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (a)生存本能にとってもっとも重要なもの、認識本能にとってもっとも顕著なものである、作用しかけてくるものが、最も強く前面に現われ、独立する。
 (b)生殖によって自己を保存しようとするのは、我ではなくて、我というものをまだ知らぬ身体である。
(2)対象の出現
 (a)重要ではないものは、後方に退き、徐々に対象化され、そして少しずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。
 (b)道具や玩具などの事物をつくろうとし、その創始者であろうとするのも、我ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体である。
(3)互いに作用しつつある我と汝の関係事象から我が客体化され分離する
 我は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、我に作用しつつある汝、汝に作用しつつある我という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この作用しつつあるという分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。

 「記憶は訓練されることによって、さまざまな重大な関係事件や根元的な震撼などを分類しはじめるが、そのときもっとも強度に前面にあらわれ、きわだち、ひとり立ちするのは、生存本能にとってもっとも重要なものや、認識本能にとってもっとも顕著なもの、ほかでもなくあの《作用しかけてくるもの》である。

一方、さまざまな体験のうちでも、たいして重要ではないもの、共通の事件ではなかったもの、次々と交代する《汝》は、後方にしりぞき、記憶のなかに離ればなれに残り、徐々に対象化し、そしてすこしずつ相い集まってきわめて徐々に群や類をなしてゆく。

そして第三のものとして、分離された場合には怖るべきものとなり、死者や月よりも時としては妖怪めいて、しかし次第にまがうことなく明らかに現れてくるのだ、もうひとつのものが、《つねに同一である》伴侶が、――《我》が。

 《自己》保存本能や、その他の諸本能の原初的な活動には、《我の意識》は付随していない。

本能がまだ自然のままに活動している段階では、生殖によって自己を保存しようとするのは《我》ではなくて、《我》というものをまだ知らぬ身体である。

そこでは道具や玩具などの事物をつくろうとし、その《創始者》(Urheber)であろうとするのも《我》ではなくて、まだ分たれぬ全体としての身体なのである。

また原始的な認識機能のなかには《われ識る、ゆえにわれあり》(Cognosco ergo sum)はいかに素朴なかたちにおいても見出されない。

およそ経験主体に関する擬人化はいかに子供っぽいかたちでもここには見出されない。

《我》は原初的体感の分裂によって浮びあがり、また、《我に作用しつつある汝》(Ich-wirkend-Du)、《汝に作用しつつある我》(Du-wirkend-Ich)という生命にみちた始原語の分裂によって、つまり、この《作用しつつある》という分詞が名詞化され、客体化されてから、はじめて単独な要素として浮びあがってくるのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.30-31、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2020年4月30日木曜日

10.実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

真実の現在

【実在的なるもの、真実の現在は、現前しているもの、出会い、関係が存在する限りにおいてのみ存在する。人間は、自分が経験し利用している事物にのみ満足している限りは、過去のうちに生きている。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「現在、といってもそれは、たんに思惟のうちでそのときどきに措定される《これまでに経過した》時間の末端を、つまり、見せかけのうえでだけ固定された時の経過を表示するひとつの《点》のようなものではない。

真実の、そして充実した現在は、現前しているものが、出会いが、関係が存在するかぎりにおいてのみ存在するのだ。《汝》が現前するという、そのことによってのみ現在は生ずるのである。

 根元語・《我-それ》における《我》、すなわちひとつの《汝》に対して生身の存在として向いあってはいない《我》、多様な内容(Inhalten)によって取りかこまれている《我》には過去があるだけで、現在はない。
言いかえれば、人間は自分が経験し利用している事物にのみ満足しているかぎりは、過去のうちに生きているのであって、彼の瞬間は現在なき瞬間なのだ。

彼は対象物以外の何ものをも有していない。対象物なるものはしかし、既往(Gewesensein)のうちに存在しているのだ。

 現在とは、一時的なもの、滑り去ってゆくものではなく、《現前的に待っているもの》にして《現前的に存続しているもの》である。

対象物とはしかし、持続ではなく、静止であり、停止(Innehalten)であり、中断、硬直、分立であり、関係の欠如、現在の欠如である。

 実在的なるもの(Wesenheiten)は現在のうちで生きられるが、対象的なるもの(Gegenständlichkeiten)は過去のうちで生きられるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.19-20、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:真実の現在,現前,出会い,関係)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2019年4月5日金曜日

9.あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

出会い

【あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。関係は、印象、想像物、情緒ではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

あらゆる真に生きられる現実は、出会いである。
 (a)関係の成立:我-汝の関係が成立しているとき、私という存在の全体が、確かに汝の存在の全体を捉えており、また同時に、私の全てが汝に捉えられている。
 (b)捉えられた汝は、印象のように部分的な対象ではない。汝の存在の全体が捉えられている。
 (c)捉えられた汝は、私の恣意的な想像物ではない。私という存在の全体が、汝を捉えている。
 (d)私に引き起こされた情緒によって、汝に捉えられているのではない。
 (e)関係の受動性:関係は、探し求めても、見い出されない。私が汝と出会うのは、汝が私に向い寄って来るからである。
 (f)関係の能動性:汝との直接的な関係のなかへ歩み入るのは、私の存在の全体をかけた行為である。

 「私が《汝》と出会うのは恩寵によってである、――探しもとめることによっては《汝》は見いだされない。

しかし私が《汝》にむかってあの根元語を語りかけることは、私の存在そのものの行為、私の本質的行為である。

 私が《汝》と出会うのは、《汝》が私に向いよってくるからである。だが、《汝》との直接的な関係のなかへ歩みいるのはこの私の行為である。

このように、関係とは《選ばれること》であると同時に《選ぶこと》であり、受動(Passion)であると同時に能動(Aktion)である。

なぜなら、およそ存在の全体をかけた能動的行為においては、あらゆる部分的行為は止揚され、したがって――たんに部分的行為の限界に根ざしているにすぎぬ――あらゆる行為感覚も止揚されてしまうので、その行為の能動性は受動に似たものになってしまうからである。

 根元語・《我-汝》は、ただ存在の全体でもってのみ語られ得る。

私の存在が集一し溶解してひとつの全的存在となることは、決して私のわざによることではないが、私なくしては決して起こり得ない。

私は《汝》との関わりにおいて《我》となり、《我》となることによって私は、《汝》を語るのである。あらゆる真に生きられる現実は出会いである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.17-18、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:出会い,印象,想像,情緒,関係,関係の受動性,関係の能動性)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年11月27日火曜日

8.9.世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

我と汝、我とそれ、彼、彼女

【世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。我-汝。あるいは、我-それ、我-彼、我-彼女。人間は、自然、人間、精神的実在と我-汝の関係を成立させることで、真の存在に触れ、向き合い、応答する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

(1)世界は、人間にとって、人間の二重の態度に応じて二重である。
 (1.1)我-汝
 (1.2)我-それ、我-彼、我-彼女
(2)それに応じて、人間の我もまた二重である。
  2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
(3)関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。
 (3.1)自然との交わりにおける生。
  もろもろの被造物は、われわれに向いあって活動している。
  (3.1.1) 一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
  (3.1.2) 猫の眼を見つめているとき、猫との「関係」が実現していると思われる瞬間が存在する。その時、猫の眼は、精神の一触を受けて、生成の不安のなかに閉じこめられている存在の秘密を語っているかのように感じられる。(マルティン・ブーバー(1878-1965))
 (3.2)人間との交わりにおける生。
  ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは汝を与え、また受けとることができる。
 (3.3)精神的実在との交わりにおける生。
  われわれは、汝という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、形成し、思考し、行為することによって応答する。
  (3.3.1) 人間は、自らと向かいあうことで、あの《汝》と出会い、生きた言葉の語りかけを聞く。そして、その語りかけに対して、みずからが作品となり、生命をもって答える。これが、恣意によることのない行為である。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

 「世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。

 人間の態度は、人間が語り得る根元語(Grundwort)が二つであることに応じて二重である。

 この根元語とは、単一語ではなくて対偶語(Wortpaar)である。

 根元語のうちのひとつは対偶語・《我-汝》(Ich-Du)である。

 もうひとつの根元語は対偶語・《我-それ》(Ich-Es)であり、この場合には、《それ》を《彼》(Er)あるいは《彼女》(Sie)のいずれかで置きかえても、その意味するところには変りない。

 このような根元語が二つあるからには、人間の《我》もまた二重である。
 なぜなら、根元語・《我-汝》における《我》は、根元語・《我-それ》における《我》とはことなっているからである。」


(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)p.5、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))

 「関係の世界がそのなかでうち立てられる領域は、三つある。

 第一は、自然との交わりにおける生。ここでは関係はまだ暗闇のなかに揺れ動いていて、言語の地平以下のところにある。もろもろの被造物はわれわれに向いあって活動しているが、われわれのところに達することはできない。そしてわれわれがかれらに《汝》を言っても、それは言語の敷居のところで止まってしまう。

 第二は、人間との交わりにおける生。ここでは関係は開かれていて、言語という形体を取っている。われわれは《汝》をあたえ、また受けとることができる。

 第三は精神的実在(geistige Wesenheiten)との交わりにおける生。ここでは関係は雲のなかにつつまれていながら、しかし自己を開示しつつあり、無言でありながら、しかし言語を生み出しつつある。われわれはここでは《汝》という呼びかけを聴きとることはないのに、しかもそう呼びかけられているのを感じ、そして、応答するのだ、――形成し、思考し、行為することによって。

すなわち、われわれは口でもって《汝》を言うことはできぬが、われわれの存在そのものでもってあの根元語を語るのである。

 だが、いかにしてわれわれは、言語の外にあるものを根元語の世界のなかへみちびきいれることができるのであろうか?

 これらのいかなる領域にあっても、われわれのまえに現在となって生じてくるあらゆるものをとおして、われわれは永遠の《汝》の辺縁を望み見るのだ。

あらゆるものからわれわれは永遠の《汝》のそよぎを聴きとり、われわれの言うあらゆる《汝》のなかからわれわれは永遠の《汝》に呼びかけるのだ、――いかなる領域にあっても、そのそれぞれにふさわしい仕方でもって。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.10-11、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:我と汝,我とそれ,我と彼,我と彼女)

我と汝/対話



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マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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2018年9月23日日曜日

7. 2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

2種類の《我》:個我と人格

【2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

2種類の《我》
(1)個我
 (1.1)相手を《それ》として捉える《我》は、自分自身も《それ》として捉え、相手と自己とを経験し、利用する対象として意識する。
 (1.2)その結果、「私とは、このような人である」と、個我は言う。個我は、その我が物を拠り所とする。我が流儀、我が民族、我が創造、我が天分など。
 (1.3)《汝自身を知れ》は、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。自己認識とは、自分のために自ら仕立てあげた虚構、自己幻像であり、個我は、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得し、自己の特殊性を享受する。
 (1.4)その結果、個我は、自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまう。
(2)人格
 (2.1)相手に《汝》として出会う《我》は、自分自身を、《汝》との関係における全体的な主体として意識する。
 (2.2)その結果、「私は、存在する」と、人格は言う。人格は、自己がいかなる存在であるかを直視する。
 (2.3)《汝自身を知れ》は、人格にとっては《汝を存在として知れ》ということを意味する。人格は、自己の存在の特殊性、別異性を放棄してしまうわけではない。それは必要で重要である。しかし、個我とは異なり、この特殊性を拠り所として人格が存在しているのではない。
 (2.4)その結果、人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として意識し、そして、共に存在しているからこそ存在していることを知る。

 「根元語・《我-それ》における《我》は個我(Eigenwesen)として発現し、自己を(経験と利用との)主体として意識する。


 根元語・《我-汝》における《我》は人格(Person)として発現し、自己を(隷属的な属格を持たぬ)主体性として意識する。」(中略)

 「人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として、そして、だからこそ存在しているものとして意識する。

個我は自己を、《かく在り-それ以外の仕方では存在していないもの》(ein so-und-nicht-anders-seiendes)として意識する。

人格は言う、《我は在る》と。しかし個我は言う、《我はかく在る》と。

《汝自身を知れ》は人格にとっては、《汝を存在として知れ》ということを意味し、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。

個我は自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまうのである。

 といっても、人格は自己の存在の特殊性を、別異性を《放棄》してしまうのだなどというわけではない。人格にとっては、この特殊性はただ、人格がそれを拠り所とする視点ではないだけである、……それはただそこにあるもの、ただ存在を縁取っている必要にして重要な枠にほかならない。

個我はそれに反して、自己の特殊性を享受する。いやむしろ個我は多くの場合、自己が特殊であるという、自分のためにみずから仕立てあげた虚構を享受するのである。なぜなら、自己認識とは個我にとって実はたいていの場合、ひとつのもっともらしい、そして自分自身をもますます徹底して欺くに足るほどの自己幻像を作り出すことを意味し、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得することを意味しているからである。

が、自己がいかなる存在であるかを真に認識するなら、個我は自己破壊か――さもなくば再生へとみちびかれることになるであろう。

 人格は自己の本体を直視する。
個我はその《わが物》(Mein)とかかりあう、――わが流儀、わが民族、わが創造、わが天分などと。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.84-87、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:個我,人格)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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