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2023年5月29日月曜日

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲームは生活様式の一部

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)記号、語句、文を使ったあらゆる活動を含む。
(b)もちろん、数学のあらゆる分野も、言語ゲームの一種である。
(c)命令、記述、構成、報告、推測、仮説、検証、表や図による表現、物語の創作、演劇、輪唱する、謎をとく、冗談、噂、算術、翻訳、乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。


「二三 
 しかし、文章にはどのくらい種類があるのか。陳述文、疑問文、それに命令文といった種類だろうか。―――そのような種類なら無数にある。すなわち、われわれが「記号」「語句」「文章」と呼んでいるものすべての使いかたには、無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、固定したものでも一遍に与えられるものでもなく、新しいタイプの言語、新しい言語ゲームが、いわば発生し、他のものがすたれ、忘れられていく、と言うことができよう。(この点の《おおよその映像》を、数学の諸変化が与えてくれよう。) 
 「言語《ゲーム》」ということばは、ここでは、言語を《話す》ということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない。
  言語ゲームの多様性を次のような諸例、その他に即して思い描いてみよ。
命令する、そして、命令にしたがって行為する――― 
ある対象を熟視し、あるいは計量したとおりに、記述する―――
 ある対象をある記述(素描)によって構成する―――
 ある出来事を報告する―――
 その出来事について推測を行なう―――
 ある仮説を立て、検証する――― 
ある実験の諸結果を表や図によって表現する―――
 物語を創作し、読む―――
 劇を演ずる――― 
輪唱する―――
 謎をとく―――
 冗談を言い、噂をする―――
 算術の応用問題を解く――― 
ある言語を他の言語へ翻訳する―――
 乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。 ―――
 言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味ぶかいことである。(さらにまた『論理哲学論考』の著者が述べていることとも。)」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学探究』二三、全集8、p.215、藤本隆志)

2023年5月28日日曜日

言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲーム( language game )

 言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考とは本質的には記号を操作することだと言うとき、君の最初の質問は、「では記号とは何か」であるかもしれない。―――この質問に何らかの一般的な答をする代りに、「記号を操作する」と言いうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉[という記号]を操作する簡単な一例をみてみよう。私が誰かに「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される、八百屋は「リンゴ」という語をいろんな棚の貼札とくらべる。彼はそれが貼札の一つと一致するのを見つけ、一から始めてその紙片に書かれた数まで数える、そして数を一つ数える毎に一個の果物を棚から取って袋に入れる。―――これは言葉が使われる一つの仕方である。以後たびたび私が言語ゲーム( language game )と呼ぶものに君の注意をひくことになろう。それらは、我々の高度に複雑化した日常言語の記号を使う仕方よりも単純な、記号を使う仕方である。言語ゲームは、子供が言葉を使い始めるときの言語の形態である。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。我々が真偽の問題、[すなわち]命題と事実との一致不一致の問題、肯定、仮定、問の本性の問題、を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの[問題での]思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現われるからである。言語のかような単純な形態を観察するときには、通常の言語使用を蔽っているかにみえるあの心的な[ものの]霧は消失する。明確に区分された、くもりのない働きや反応が見られる。それにもかかわらず、それらの単純な過程の中に、もっと複雑な[通常の]言語形態に連続している言語形態をみてとれる。この原初的形態に漸次新しい形態を付け加えてゆけば、複雑な形態を作り上げられることがわかる。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.45、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]



考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表現する過程

 考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「そこでの私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければ《ならぬ》と考える誘惑を取除くことであった。 
 諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代りに思想の表現を置き換えてみること。この置き換えで厄介なところ、同時にまたそれがこの置き換えの狙いでもあるが、それは信念や思想その他の表現は或る文(センテンス)に過ぎないということである。―――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる。そこで、この記号系を我々が述べる文のすべてに対するいわば恒久的な背景だと考え、紙の上に書かれ声に出された文こそ独立してはいるものの、心の考える働きの中には記号系が全部ひっくるめて存在している、と思いたくなるのだ。この心の働きは、記号のどんな手動操作にもできないことを奇跡的な方法でやってのけるように見える。しかし、何らかの意味で全記号系が同時に現在していなければならなぬという考えの誘惑が消えた時には、もはや表現と並んでそれらとは別な奇妙な心の働きの存在を《想定する》意味もなくなる。しかしこれはもちろん、特有の意識の働きが思想の表現には一切伴わない!ことを示したというのではない。ただ、前者が後者に伴わねば《ならぬ》、ともはや言わないだけなのである。
  「しかし、思想の表現は常に偽でもありうる。或ることを言い別のことを意味できるからである。」だが、或ることを言い別のことを意味する時におこる、場合場合で違うさまざまなことを考えてみ給え。―――次の実験をしてみ給え。「この部屋は暑い」という文を口にしながら「寒い」を意味してみる。そして何をやっているかを精しく観察してみ給え。
  こういう生き物を想像するのはたやすい。その生き物はプライベートな思考を「傍白」の形でする、そして嘘をつくには一つのことを正面きって話しついでその逆のことを傍白する。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.83-84、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





22.思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは表現する行為そのもの

 思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。
(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。
(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。
(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。
(e)今度は、考えることなしに言ってみる。


「次の実験をしてみ給え。或る文、例えば、「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。つぎに、同じことを考え、今意味したことをもう一度意味してみる、しかし今度は何も言わない(声にもださず、内語もしない)。つまり、明日は雨だろうと考えることが明日は雨だろうと言うことに伴う[それとは別の]ことならば、始めのことだけをやって二番目の行動を差控えてみよ、ということである。―――考えることと話すこととが歌の歌詞とメロディの関係にあるならば、丁度歌詞抜きで節だけを歌えるように、話すことをしないで考えることだけをやれよう。
  だが少なくとも、考えること抜きで話すことはできはすまいか。もちろんできる―――しかし、君が考えることなく話す場合、どんな種類のことを君はしているのかよくみてみ給え。まっさきに注目してほしいのは、「話し且つその中味を意味する」と呼びたい過程と、考えなしに話すと呼びたい過程とを区別するものは必ずしも、《話している時点で》起きることではない、ということである。この二つを区別するものが、話しの以前と以後に起きることである場合も十分にありうる。
  私が今慎重に、考えることなしに話すことをやってみるとしよう―――実際私はどういうことをするだろう。例えば、或る本から一つの文を読み上げる、だが自動的に読もうとする、すなわち、他の場合なら読むことで生まれてくるイメージや感情と一緒にその文を読まないように極力つとめる。その一つの方法は、朗読している間何か他のことに注意を集中する、例えば、朗読の間皮膚を強くつねることであろう。―――次のように言おう。考えることなしに文を話すとは、話にスイッチを入れ、話に伴うものごとの方のスイッチを切ることである。では、考えてほしい。その文を言うことなしに考えることはこのスイッチを逆にすることであろうか(前には切ったスイッチを入れ、入れたものを切る)、と。つまり、その文を言うことなしに考えるとは、今度は単に、言葉に伴ったものごとの方を留めて言葉の方を取り除くことか、と。或る文の思想をその文なしで考えようと実際に試みて、そしてこれが現に起きることかどうかをみてみ給え。 
 要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放される。また、もはや既成の表現形式には妨げられることなく、思考の経験とは単に言表の経験である場合も《ありうるし》、言表の経験プラスそれに伴う他の経験からなっている場合もあることを認めることができる。(また次の場合を検討するのも有益である。掛算が文の一部である場合。例えば、掛算 7 × 5 = 35 を言うと共にそれを考える、今度は考えることなしに言ってみる、これらがどういったものであるか考えて見給え。)語の文法を吟味することで、偏りのない眼で事実を見ることを妨げていたその表現の固定化したしきたりが弱められる。我々の探究はこの偏りを取り去ろうとしてきたのである。この偏りが、我々の言語に埋めこまれている或る挿し画に事実の方が合わねば《ならぬ》という考えを強いるのである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.84-86、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




2023年5月27日土曜日

21.思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは記号操作

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。
  更にもし、思考がおこなわれる場合を云々するなら、その場所は書いている紙、喋っている口だと言う権利がある。ここでもし、頭や脳を思想の場所だと言うとすれば、それは「思考の場所」という表現を違った意味で使っているのである。頭を思考の場所と呼ぶ理由は何であるか検討してみよう。そういう表現の形を批判したり適切でないことを示すのがその意図ではない。なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである。例えば、その文法が、「口で考える」また、「紙上の鉛筆で考える」という表現とどういう関係にあるかをみることである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.30、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





20.記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の意味とは何か

 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。  (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 
 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号がそれだけでは死んでいると言うのであれば、それに描かれたイメージをつけ加えたところでそれらが一緒になったものが生きる道理はない。
 ―――事実、君が心的イメージを例えば描かれたイメージで置換えて見たとたん、またそれによってイメージが神秘的性格を失ったとたん、そのイメージは文にいかなるものであれ命を附与するとは思えなくなるのである。(実のところ、君が自分の目的に必要としたのはまさにこの心的イメージの神秘的性格だったのである。)
  我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と《並んで存在》しているもののように考えて探すのだ、と。(この誤りのもとの一つはまたしても、「名詞に対応する物」を求める、ということである。)
 記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することである。 
 文は言語体系の部分としてのみ命をもつ、とも言えよう。だのに人は、文に命を与えるものはその文に随伴する、神秘的な領域にある何かであると想像する誘惑に負けるのである。しかし、たとえ文に随伴するものがありとしても、すべてそれは我々にとってまた一つの記号にすぎぬであろう。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.27-28、大森荘蔵)

19.思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考過程を可視化する

 思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。[違いは]目で見る[赤紙の]像(イメージ)の方がずっと生き生きしていようだけのことである。色名が色斑と対応付けられている紙をいつもポケットに持ち歩いている男を想像してほしい。君は、そんな色サンプルの表を持ちまわるのはさぞ面倒だろう、連想機構こそその代りにいつも我々が使っているものだ、と言うかもしれない。しかしそういうのは見当違いだ、また、それは真実でない場合すら多くある。例えば、君が「プルシャン ブルー」という特定の色合いの青を塗るように命じられたとしたら、表を使って「プルシャン ブルー」の語から或る色サンプルに導かれ、それを君の色見本にする、ということをやらなければならない場合もあるだろう。
  我々の目的にとっては、想像の過程をすべて、物を目で見る過程、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えるのは一向に差支えない、また、内語を声を出して喋ることや書くことで置き換えるのも。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.26、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




18.何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

線で描かれた絵

 何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))



「一二五 こんな種類の判じ絵のことを考えてみよう。そこで見いだすべきなのは、何か《一つの》特定の対象なのではない。そうではなくて、最初に見たときはその全体が、何のことかわからない線のもつれとみえるのだが、しばらく探っているうちに、例えば一つの風景画として現われてくるのである。―――この解がえられる前と後とで、この画像の眺めの相違はどこにあるのか。その二つの場合においてわれわれが画像を違ったふうに見ることは明らかである。しかし、解がえられた後で、今はこの画像はわれわれにあることを語るが、以前には何も語りはしなかった、と言いうるのは、どの範囲でのことか。
 この問を次のように立てることもできる。解が見いだされたということの一般的な特徴は何か。
 その判じ絵が解かれたときには、私はそのなかのある線を強くなぞり、いわば明暗の度合いを導入することによって、その解がわかるようにする、と、こう考えたい。では君は、君が描き入れた像を何故に解とよぶのか。
(a)それは一群の空間的諸対象を明らかにあらわしているから。
(b)それはある規則的な形の物体をあらわしているから。
(c)それは左右対称の形状だから。
(d)それは私に装飾的な印象をあたえる形状だから。
(e)それは私にとって既知のものと思われる物体をあらわしているから。
(f)いろんな解の目録があり、この形状(ないしこの物体)がそこに載っているから。
(g)それは私がよく知っている種類の対象をあらわしているから。すなわち、その対象は一瞬にして私に熟知のものだという印象をあたえる。私は一瞬のうちにあらゆる可能な連想をそれに結びつける。私はその対象が何というものか知っている。私はそれをしばしば見かけたことを知っている。私はそれが何のために使われるかを知っている、等々。
(h)それは私にとって既知のものと思われる顔をあらわしているから。
(i)それは私がそれとして認知する顔をあらわしているから。(α)それは私の友人某氏の顔である。(β)それは私がしばしば肖像で見たことのある顔である、等々。
(j)それは私がかつて見たことがあるのを覚えている対象をあらわしているから。
(k)それは私が(どこで見たかはわからないが)よく知っている装飾模様だから。
(l)それは、私がよく知っており、その名も、どこで前に見たかもわかっている装飾模様だから。
(m)それは私の部屋の調度をあらわしているから。
(n)私は本能的にこの線をなぞり、それで安定した感じをもつから。
(o)私はこの対象について話してきかされたことがあるのを覚えているから。
(p)私はその対象をよく知っているように思われるから。すなわち、ある言葉がそれの名前としてただちに私の心に浮んでくる。(ただしその言葉は既存の言語のどれにも属してはいない。)私は心のなかで言う、「そうだとも。それは甲であって、いくども乙で見たものだ。人はそれで丙を丁して、戊にするのだ」と。こうしたことは例えば夢のなかでおこる。等々。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』一二五、全集3、pp.240-242、山本信)
(索引:)



ウィトゲンシュタイン全集(3) 哲学的文法 1 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




2020年5月19日火曜日

17.言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言葉の使用

【言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「三六 ひとつの語が実際にどう使われているかを観察すると、ゆらぎが見られる。
 われわれはこのゆらいでいるものに対し、それを観察しながら、より固定したものを設定する。ちょうど、像としてそれ自身は絶えず変化している風景について、静止した写像を描くように。
 われわれは言語を、明確な規則にしたがったゲームという《観点から》考察する。われわれは言語をそのようなゲームとくらべ、それと照合する。
 自分なりの目的のために、ある語の使用を一定の規則のもとにおこうとすることは、ゆらぎのあるその語の使い方に対し、それの一つの特徴的な様相を規則にまとめて、一つの別の使い方を並べて立てることなのである。
 そこで例えば、(倫理的な意味における)「よい」という語の使い方は、非常に多くの、たがいに同類関係のあるゲームから合成されている、と言ってよかろう。

それらはそれぞれこの語の使用の、いわば切り子面のようなものである。そしてここで《一つの》概念をなりたたせているものは、まさにそれら切り子面のあいだの連関、それらの同類関係にほかならない。

 しかしその際、物理学において副次的な影響を無視することによって自然現象の記述が単純化されるような、そうしたことが行なわれているわけではない。論理学は理想化された現実を描出するとか、厳密にはただ理想的言語にとってのみ妥当する、などと言ってはいけない。

なぜといって、この理想なるものの概念をわれわれはどこから手に入れるというのか。せいぜいのところ、いわゆる日常言語との対比において「理想的言語を《構成する》」とは言ってよかろう。

しかし、理想的言語についてのみ妥当するような何かを、われわれは《言う》のではない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』三六、全集3、pp.96-97、山本信)
(索引:言葉の使用)

ウィトゲンシュタイン全集 3 哲学的文法 1


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2020年5月5日火曜日

16.ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

一般的なるものへの渇望

【ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

一般的なるものへの渇望
(1)共通的な特徴や性質があるとは限らない
 (a)ある一般名詞があり、この言葉が指し示す対象の集合があるとする。
 (b)全ての対象は似てはいるかもしれないが、共通な特徴や性質があるとは限らない。
 (c)共通的な特徴や性質が必ず存在し、それが言葉の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
(2)視覚的なイメージがあるとは限らない
 (a)様々な個々の「葉」が存在する。
 (b)様々な「葉」に共通な、ある特徴や性質がある。
 (c)共通な特徴や性質だけを含んだ、視覚的イメージのようなものは、存在するとは限らない。
 (d)この共通的なイメージが存在し、それが「葉」の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
 (e)言葉の意味が、何らかの心的機構の状態ではあるとしても、それが視覚的イメージのような心的状態だと考えるのは、誤りである。
(3)哲学は、純粋に記述的なもの
 (a)科学においては、自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させる。
 (b)数学においては、異なる主題群を一つの一般化で統一する。
 (c)哲学の方法を、科学や数学の方法と同じであると考えることが、形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。
 (d)何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは、哲学の仕事ではない。哲学は事実として純粋に記述的なものである。

 「この一般的なるものの渇望は、それぞれ或る哲学的混乱と結びついている思考傾向が幾つか合わさったものである。

その思考傾向には次のようなものがある―――
 (a)普通、或る一般名詞に包摂される対象のすべてに共通した何かを探す傾向。―――例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない、この共通な性質こそ一般名詞「ゲーム」をさまざまなゲームに適用する根拠である、と我々は考えやすい。

しかしそうではなく、さまざまなゲームは一つの《家族》を形成しているのであり、その家族のメンバー達に家族的類似性( family likeness )があるのである。

家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。

そしてこれらの類似性はダブっている。一般概念とはその個々の事例すべてに共通な性質だという考えは、言語構造についての他の素朴で単純すぎる考えとつながっている。

この考えは[例えば]《性質》はその性質を持っている物の《成分》だという考えと同じ類のものである。その考えでは、例えば美は、アルコールがビールやワインの成分であるように、美しい物の成分であり、したがって、何であれ美しい物で混ぜものにされさえしなければ、我々は純粋無垢の美をもちえたことになる。

 (b)また、我々の普通の表現形式に根ざした或る傾向がある。一般名詞、例えば「葉」という名詞を学び知った人なら、それにともなって[必ず]個々の葉の像とは別な、何か葉の一般像なるものを獲得している、と考える傾向である。

その人は「葉」という語の意味を学ぶときいろいろな葉を見せられるが、個々の葉を見せるのは単に、「彼の中に」或る種の一般的イメージと思われる観念を産みだすための一法だった、と。

我々は、[今や]彼はこれら個々の葉すべてに共通なものを見てとっている、と言うのだ。もしそれが、彼は尋ねられればそれらの葉に共通な或る特徴や性質をあげる、という意味なのならば誤りではない。

しかし、我々は、葉の一般観念とは何か視覚的イメージのようなもの、だがただすべての葉に共通なものだけを含んでいるもの、と考えがちなのである。(ゴールトンの重ね写真。)  

この考えは再び、語の意味とはイメージあるいは語に対応する事物であるという考えとつながっている。(簡単にいえば、語をすべて固有名のように考え、ついでその名の担い手を名の意味に取り違えることである。

 (c)また再び、「葉」「植物」等々の一般観念を把握するときに何がおきているのかについての我々の考えは、仮説的な[生理学的]心的機構の状態の意味での心的状態と、意識の状態(歯痛等)の意味での心的状態との混同に結びついている。

 (d)一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。

哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。ここで私は言いたい。

それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として[もともと]「純粋に記述的」《である》のだ。

(「感覚与件( sense data )は存在するか」といった問を考えて見給え。そして、その問に決着をつける方法は何であるか、と問うて見給え。内観?)」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.46-47、大森荘蔵)
(索引:一般的なるものへの渇望,哲学,数学,科学)

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年12月10日月曜日

15.ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の解釈と意図

【ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】 

(a)
 a b
(b)
 L R
(c)
 ← →
(d)
 意図とは、思考における記号の用い手の意図である。意図とは、最終的な解釈を与えることである。
 L:左へ行け
 R:右へ行け
(e)
 意図:これは道標である
  ←   解釈:左へ行け
  →   解釈:右へ行け
 意図:これは道路標識である
  →   解釈:この道路は一方通行である
(f)
 何らかの意図
  ある文 →   ある解釈
 ここで我々は、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。

(g)
 何らかの意図
  ある絵 →  ある解釈
 意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。
 意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。






 「二二九 だが、ある《解釈》は記号によって与えられる。この解釈は別の(異なった意味を与える)解釈との対比において成立している。―――したがって、われわれが「どの文もさらに解釈の必要がある」と言おうとするとき、それは、どんな文も添書きなしでは理解されない、という意味なのである。

 二三〇 それは、
骰子遊びにおいて、ある振りがどれほどの値打ちをもっているかが別の振りによって決まる場合によく似ている。

 二三一 「意図」という言葉によって、わたくしはここで、思考における記号の用い手を意味する。意図するとは、解釈すること、最終的な解釈を与えることであるように思われる。

すなわち、さらにその上に次々と記号や像を与えないでそれ以上もう解釈できない別の何かを与えることであるように思われる。しかし、到達するのは心理的な終点であって、論理的な終点ではない。

 ある記号言語、すなわち〈抽象的な〉記号言語を考えて見よ。わたくしが言っているのは次のような言語、すなわちわれわれが聞きなれたものではなく、そこでわれわれは安住できないような、いわばそこで《ものを考えない》ような言語である。

そしてこの言語は、いわば曖昧なところのない像言語、すなわち遠近法にかなった仕方で描かれた様々な絵からできている言語に翻訳することによって解釈される、と考えてみよう。

書き言葉については様々の《解釈》を考える方が、普通の仕方で描かれた絵についてそれを考えるよりもはるかに容易であるということは明白である。ここでわれわれはまた、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。

 二三二 ここで、われわれは記号言語の内には住まず、描かれた絵の内に住んだのだ、とも言えるかもしれない。

 二三三 「意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。

外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。」―――これは、いわば次のようなことである。

われわれははじめ、ある絵を、われわれがその絵の内に住んでおり、その中の諸々の対象は現実の対象のようにわれわれを取り囲んでいるかのように眺める、ついで、そこから身を引き、絵の外に立ち、額縁を眺める、するとその絵は一つの描かれた平面になる。

このように、われわれが意図をもつと、その意図の像はわれわれを取り囲み、われわれはその内に住まう。しかし、その意図から抜け出ると、それは画布の上の単なる斑点になり、生命がなくなり、われわれの関心の対象でもなくなる。

意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。

暗い映画館の中に座って、映画の内に浸っている、と想像してみよう。さて館内が点燈されたが、映画は銀幕上でまだ続けられている。しかし、われわれは突然その外に立ち、映画を銀幕上の光と影からなる諸々の斑点の動きとして見る。

 (夢の中で、はじめはある物語を読んでいて、その内に自分自身がその物語の登場人物になる、ということが時折生じる。また夢から醒めた後で、あたかもその夢から抜け出て、今その夢を自分の眼前にある一つの見知らぬ像として見る、といったことが時折生じる。)

したがって、「本の中で暮らす」ということもまたある意味をもっているのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『断片』二二九~二三四、全集9、pp.248-250、菅豊彦)
(索引:記号の解釈,意図)

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年12月7日金曜日

「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

無限

【「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「かくして「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定なのである。

無限な可能性は、それ自身、《言語の無限な可能性》として現われるのである。それは、無限についての言明は意味を持っている、といった事の中に現われるのではない。何故なら、そのような言明は存在しないのであるから。

無限な可能性は無限なるものの可能性を意味してはいない。「無限」という語は、可能性を特徴づけるのであり、現実性を特徴づけるのではないのである。

 線分の無限分割可能性は、或る純粋に論理的なるものである。《この》可能性が経験から発生し得ないことは、全く明らかではないか。

 空間と時間の無限分割可能性、連続性―――これら全ては仮説ではない。それらは、記述の可能な形式についての洞察なのである。

 我々は経験から、空間と時間は或る不連続な構造を持っている、と教えられることはあり得ないのか。もし我々が棒を次々と分割して行き、物理的な理由で限界にぶつかるとすれば、このことは、ある命題によって記述せられる経験的事実である。

しかしこの場合、その命題の否定命題もまた意味を持たねばならない。そしてこの事は、更に進んだ分割についての可能的経験もまた我々は記述できねばならないのだ、という事を意味している。

事実、分子の仮説は、もしそれが意味を有するならば、この更に進んだ分割の可能性を前提しているのである。ここにおいて人は、空間の無限分割可能性は事実に関わることではないのだ、という事を知るのである。

我々がここで必要とする可能性は、《論理的》可能性、即ち記述の可能性なのであり、そしてそれは事実的経験に関わる必要がないのである。

 明らかに我々はここにおいては、仮説を問題にしているのではなく、仮説の設定を可能にするところのものを問題にしているのである。

 もちろん我々は、分割可能性に論理的限界を引くことは出来る。しかしそれは、我々は我々の表現の構文法を変えるのだ、という事を意味するのである。もちろんこの事は、我々は、或る経験を前もって排除するという事ではなく、その経験をその記号法によって表現することを断念するという事なのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』付録A 無限について、全集5、pp.331-332、黒崎宏)
(索引:無限)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年12月5日水曜日

14.数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

存在証明

【数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「「いかなる存在証明も、存在を証明しようとするものの構成を含まなければならない。」実は、「私は、かかる構成を含んでいない証明を、存在証明とは呼びたくない」と言えるだけなのに。

この誤りは、ひとが存在という明晰な《概念》をもつかのように詐称することから生じる。

 ひとはあるもの―――存在―――を証明することができると信じる。その結果彼は、《証明とは独立に》、その存在を確信してしまう。

(たがいに独立した―――したがって定理からさえも独立した―――証明という観念!)

実際に存在とは、われわれが「存在証明」と呼ぶもので証明したそのものにほかならない。直感主義者をはじめとする人びとがそれについて語るとき、彼らは「この事態―――存在―――をわれわれはただこの仕方でのみ証明することができる、しかしその仕方ではできない」と言っているのだ。

そして彼らは、《自分たちが》存在と呼ぶものをそのさい定義したにすぎない、ということに気がつかない。

「一人の男が部屋の中にいる、ということは、もっぱら部屋の中を覗きこむことによって証明される。しかしドアのところで聞き耳を立ててもそれは証明されない」という言い方をひとはする。しかしいま論じている事柄は、まさにそういうものではないのだ。

 われわれは、存在証明にかんする自分たちの概念と切り離して、存在の概念をもつことはない。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法2』五 数学の証明 二四、全集4、pp.196-197、坂井秀寿)
(索引:存在証明)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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