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2020年7月25日土曜日

これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学(第2版)、デカルト哲学再評価の必要性について

これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学(第2版)

【これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学(第2版)、デカルト哲学再評価の必要性について】

《概要》
 今さらデカルトから始める必要があるのかと疑問に思う人は、恐らく、(a)何かしら「最新」の哲学が、デカルトを超えて存在しており、そんな古い考えは必要ないと考えているか、(b)デカルトも様々な哲学の「学派」の一つに過ぎないと考えているか、(c)あるいはまた、様々な科学があれば、私たちは哲学なしにでもやっていけると考えているのだと思う。
 私の主張は、これらのいずれもが誤っているというものである。
 (a)デカルトは、確かに、これ以上は遡れない基礎としての、ひとつの真理をつかんでいる。最新の哲学といえども、この真理を度外視することはできない。
 (b)そもそも今までの哲学が、様々な学派があるかのように展開してきたのには、理由がある。それは、この宇宙の構造が、あたかも私一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのような、非対称的な構造をしていることに由来する。今、この序文を読んでいる「あなた」にとっても、あなた一人のみが特別に全宇宙に向き合っているかのように、この宇宙は存在している。このことは、最も驚嘆すべきとも言い得る、この宇宙の基本的な構造である。なぜ、哲学が混乱するのか。概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))ここから、あらゆる誤った混乱と、真理の一面のみを捉え他の側面を無視した様々な「学派」が生まれた。しかし、私たちが求めているのは、ただ一つの真理である。
 (c)哲学は、私たちが到達し得るような知識の全体的な見通しと、その限界への洞察を与えてくれる。また、個別科学の基礎的な概念の分析と基礎づけ、有効な方法論の確立のための洞察を与えてくれる。方法が確立されているように見える自然科学の分野においてさえ、科学の基礎を問うような限界的で難しい問題の考察には、デカルトまで遡るような確固とした足場が必要となるのである。

《改訂履歴》
2019/05/02 第1版 これ以上遡れない諸科学の基礎としての自我心理学
2020/07/25 第2版


《目次》
(1)なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 (1.1)偽なるものに同意しない力
 (1.2)これ以上遡れない哲学の基礎
 (1.3)今までの哲学の誤りの原因
(2)私は存在する
 (2.1)このすべてが私である
 (2.2)無意識は存在するのか
 (2.3)明晰かつ判明な現前
 (2.4)すべては私に関する事実でもある
(3)私でないものが、存在する
 (3.1)私でないものが存在するすることの証明
 (3.2)補足説明
 (3.3)存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在
(4)精神と身体
 (4.1)精神と身体の関係
 (4.2)精神と身体の合一の意味
 (4.3)能動と受動の概念
 (4.4)補足説明
(5)私(精神)のなかに見出されるもの
 (5.1)意志のすべてが精神の能動である
  (5.1.1)精神そのもののうちに終結する精神の能動
   (5.1.1.1)「見る」とか「触れる」等の認知
   (5.1.1.2)記憶の「想起」
   (5.1.1.3)「想像する」とか「表象する」こと
   (5.1.1.4)「理解する」こと(純粋悟性)
  (5.1.2)身体において終結する精神の能動(運動、行動)
 (5.2)あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である
  (5.2.1)身体を原因とする知覚
   (5.2.1.1)外部感覚
   (5.2.1.2)共通感覚、想像力、記憶
   (5.2.1.3)自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
   (5.2.1.4)身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   (5.2.1.5)精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
  (5.2.2)精神を原因とする知覚
  (5.2.3)身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (5.2.3.1)精神に関係づけられていること
   (5.2.3.2)精神の受動性



(1)なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 (1.1)偽なるものに同意しない力
   もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。(ルネ・デカルト(1596-1650))

(出典:wikipedia

 (1.2)これ以上遡れない哲学の基礎
  (a) 私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (b) 私は、私の推論の基礎として、何ものもそれ以上に識られているものはありえない程に、私に識られているところの私自身の存在を、使用することを選んだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (c) 真理探究の方法を見出すためには、この方法を探究するための他の方法の探究が必要だというように、限りなく遡る探究はあり得ない。こうした方法では、およそどんな認識にも到達しないであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia

 (1.3)今までの哲学の誤りの原因
  (a) 哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (b) 概念をよく区別し、それが属しているものにのみ帰属させること。ある困難な問題を、それに属していない概念によって説明しようとするとき、われわれは必ず間違う。(ルネ・デカルト(1596-1650))

(2)私は存在する
 (2.1)このすべてが私である
   疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものが、確かに存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 (2.2)無意識は存在するのか
  (a) 精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))
アントワーヌ・アルノー(1612-1694)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

  (b) およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

  (c)現在の脳科学における無意識の概念の一例
   哲学の体系としての記述順序からは、科学基礎論と個別の科学の記述が先にあるべきである。しかし、特に微妙な諸問題を除いて、科学の方法については、概ね合意が存在するため、ここではデカルトの「私」を超える概念ではあるが、全体の議論を分かり易くするために、現在の脳科学における無意識の概念の一例を記載する。このような方法は、以下の記述でも採用することがある。
   その際、精神(私)の内側からのデカルトの概念と、かなり先で明らかにされる科学による概念とを、慎重に区別しながら進むことが重要である。デカルトの概念は、現象学としては完全に厳密なものである。この現象としての精神を、現在の脳科学はどこまで解明しているのか。また逆に、デカルトの概念の中に、未だ科学によって解明されるべきものとしての重要な現象がないかどうか、この両面の観点が必要である。

   (i)アクセス可能な前意識
    既にコード化が完了し、注意によってアクセスされれば意識化される「前意識」と呼ばれる無意識状態が存在する。前意識は、朽ちていく前の短時間ならアクセス可能で、意識化されたとき、過去の事象を振り返って経験させる。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
   (ii)識閾下の状態
    注意により意識化できる前意識とは異なり、意識化できない「識閾下の状態」が存在する。視覚では50ms内外に閾値が存在し、意識の境界は比較的明確である。識閾下では検出可能な脳活動が生じるが、グローバル・イグニションには至らない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
   (iii)複雑な発火パターンへの希釈という現象
    脳内では感覚データ通りコード化されているにもかかわらず、このコードが無意識に留まり、コンパクトで明確な再コード化がなされず、異なる知覚が意識される場合がある。複雑な発火パターンへの希釈という現象である。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
   (iv)潜在的な結合
    識閾下での認知処理、前意識、意識、自発的行動の全ては、機能と一体化した潜在的な神経結合により遂行され、同時に、潜在的な結合へと再組織化、記憶化される。記憶の一部は、記憶時と似た発火パターンが再構築され、想起される。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))
   (v)切り離されたパターンの無意識
    前意識、識閾下の状態とは異なる、前頭前皮質や頭頂皮質のグローバル・ワークスペース・システムからは「切り離されたパターン」の無意識が存在する。脳幹に限定される呼吸をコントロールする発火パターンなどである。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))


《概念図》

  環境
┌──│───────────────┐
│  │    潜在的な結合(無意識)│─┐
│┌─│───┐           │ │
││ │識閾下│           │ │
││ │の状態│           │ │
││ ↓   │           │ │
││感覚データ←機能と一体化した記憶 │ │
││記憶←──────記憶      │ │
││ │   │           │ │
││ ↓   │           │ │
││識閾下での←機能と一体化した記憶 │ │
││認知処理 →記憶化        │ │
││ │   │           │ │
││ ↓   │           │ │
││前意識  ←機能と一体化した記憶 │ │
││ │   →記憶化        │ │
││ ↓   │           │ │
││意識   ←機能と一体化した記憶 │ │
││自発的行動→記憶化        │ │
│└─────┘           │ │
└────────↑↓──↑↓──↑↓┘ │
 │       一体化した相互作用   │
 │                   │
 │切り離されたパターンの無意識     │
 └───────────────────┘


 (2.3)明晰かつ判明な現前
   この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 (2.4)すべては私に関する事実でもある
  (a) いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは同時に、「私自身」が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (b)ニーチェは、この真理を極めて印象的に表現している。
    この自然情景、激動する海のこの感情、崇高な線、この確固として明確に見ること一般、その他、私たちが事物に授けた一切の美と崇高は、実際には己が創造したものであり、原始的人類から相続している遺産である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

(3)私でないものが、存在する
 (3.1)私でないものが存在するすることの証明
   私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 (3.2)補足説明
〈このすべて〉Aが、〈わたし〉Aである。
〈わたし〉Aは、存在する。
〈わたし〉Aは、〈精神〉Aである。
〈この蜜蝋〉は〈わたし〉のなかにある〈観念〉であり、〈わたし〉のなかに存在する。〈この蜜蝋〉が〈観念〉としてではなく、〈本当に存在するもの〉であるためには、〈この蜜蝋〉を存在せしめている〈原因〉があり、この〈原因〉から〈この蜜蝋〉が〈本当に存在するもの〉であることが、理解できるようになっているはずだ。このとき、この〈原因〉も〈この蜜蝋〉も、〈わたし〉のなかに〈観念〉の連鎖として存在すれば十分だと考えることはできないのであって、何か〈本当に存在するもの〉としての〈原因〉から理解できるようになっているはずだ。このような理解に達してはじめて、〈わたし〉のなかにある〈この蜜蝋〉は、〈本当に存在するもの〉ではあるが、〈存在するとおりのもの〉ではなく、ある映像のようなものであることが知られるのである。
 さきに私が、すべてを疑い、それでも〈わたし〉が確かに存在することを知ったのと同じように、〈本当に存在するもの〉が〈現象するとおりのもの〉として〈わたし〉のうちにあるのならば、私自身がその〈観念〉の〈原因〉である。しかし、〈この蜜蝋〉は、〈現象するとおりのもの〉としては〈わたし〉のうちに存在せず、何か私とは別の〈本当に存在するもの〉を〈原因〉としてしか、〈本当に存在するもの〉であることが理解できないとすれば、私自身が〈この蜜蝋〉の〈原因〉ではなく、この〈原因〉であるところの、私とは別の〈本当に存在するもの〉が、確かに存在するということが帰結するのである。

[説明図]

〈わたし〉としての〈このすべて〉は、〈現象するとおりのもの〉で〈本当に存在するもの〉。
この場合は、私自身が〈原因〉である。

〈原因〉……〈観念〉なら、私自身が〈原因〉である。
 ↓
〈観念〉
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉かどうか不明
 例:〈この蜜蝋〉

〈原因〉……私には〈現象するとおりのもの〉として知られない。
 ↓    私以外のものが〈現象するとおりのもの〉として知る。
〈観念〉  〈本当に存在するもの〉の、私以外の〈原因〉がある。
 ↓
〈現象するとおりのもの〉でない〈観念〉……〈本当に存在するもの〉
 例:〈この蜜蝋〉


 (3.3)存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在
私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))


(4)精神と身体
 (4.1)精神と身体の関係
   心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 (4.2)精神と身体の合一の意味
   心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

 (4.3)能動と受動の概念
  (a) 新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (b)精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (c) 意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 (4.4)補足説明
 〈このすべて〉Xが、〈わたし〉Xである。
 〈わたし〉Xは、存在する。
 〈わたし〉Xは、〈精神〉Xである。

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  〈精神の受動〉P ⊆ X
  〈精神の能動〉A ⊆ X
  〈精神の受動〉P ∪ 〈精神の能動〉A = X
  〈精神の受動〉P ∩ 〈精神の能動〉A = φ

 いまここでの身体という概念は、わたしが〈精神の受動〉Pとして知ることの原因として考えられるもので、それの働きが原因となって、〈わたし〉Xにおいて感覚を結果させているものである。そして、〈精神の受動〉Pのすべてが、何らかの身体の能動を原因としているという仮説は、精神と身体が合一しているという仮説の別の表現であり、また精神自らの動き〈精神の能動〉A以外の、およそ精神が受け取るものは、すべて身体を通じてであり、その他の方法を通ずることはないという仮説の、別の表現でもある。
 ところで、意志のすべてが〈精神の能動〉Aであるが、意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚も存在し、これも知覚であるということから、〈精神の受動〉Pの部分である。そこで、これを〈精神の受動(意志)〉と〈精神の受動(意志以外)〉に分けて表現すれば、

 〈このすべて〉Xのある部分は、〈精神の受動(意志以外)〉Pと呼ばれる。
 〈精神の受動(意志以外)〉Pは、すべて身体における能動である。
 〈精神の受動(意志以外)〉P以外の〈精神〉Xの部分は、精神自らの動き〈精神の能動〉Aである。
  ところで実は、〈精神の能動〉A = 〈精神の受動(意志)〉Aであるから、
  〈精神の受動(意志以外)〉P ⊆ X
  〈精神の受動(意志)〉A ⊆ X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∪ 〈精神の受動(意志)〉A = X
  〈精神の受動(意志以外)〉P ∩ 〈精神の受動(意志)〉A = φ

 〈このすべて〉Xが、〈精神の受動〉Xである。
 〈このすべて〉Xは、すべて身体における能動である。
 このように、〈精神〉と身体のもともとの概念は、すべてが〈精神の受動〉であることを含んでいるが、このすべての受動のなかに、確かに〈意志〉の現象が事実として存在している。この事実に基づき、この〈意志〉という現象を概念で表現したものが、〈精神の受動(意志)〉、〈精神の能動〉Aなのである。


(5)私(精神)のなかに見出されるもの
 (5.1)意志のすべてが精神の能動である
  (5.1.1)精神そのもののうちに終結する精神の能動

   (a) 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   (b) 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

   (5.1.1.1)「見る」とか「触れる」等の認知
    認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。

《概念図》
    ┌(受動)──┐ ┌記憶──────┐
 外界─→外部感覚  ├→┤形象の観念   │
    │共通感覚  │ │        │
    │ 肢体の感覚│ │肢体感覚の観念 │
    │ 内臓感覚 │ │内臓感覚の観念 │
    │ 幻覚・夢想│ │幻覚・夢想の観念│
    └───┬──┘ └───┬────┘
        │        ↓
        │      想像力(能動)
        │        ↓
        │    ┌観念─┴────┐
        │    │形象の観念   │
        │    │肢体感覚の観念 │
        │    │内臓感覚の観念 │
        │    │幻覚・夢想の観念│
        │    └───┬────┘
        └───────┐│
                ↓↓
               認識力(能動)
                ↓↓
             ┌観念┴┴────┐
             │認知      │
             │ 理解したという│
             │ 何らかの心的な│
             │ 状態     │
             └────────┘

   (5.1.1.2)記憶の「想起
    認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。

《概念図》
    ┌(受動)──┐ ┌記憶──────┐
 外界─→外部感覚  ├→┤形象の観念   │
    │共通感覚  │ │        │
    │ 肢体の感覚│ │肢体感覚の観念 │
    │ 内臓感覚 │ │内臓感覚の観念 │
    │ 幻覚・夢想│ │幻覚・夢想の観念│
    └──────┘ └───┬────┘
                 ↓
               想像力(能動)
                 ↓
             ┌観念─┴────┐
             │形象の観念   │
             │肢体感覚の観念 │
             │内臓感覚の観念 │
             │幻覚・夢想の観念│
             └───┬────┘
                 ↓
               認識力(能動)
                 ↓
             ┌観念─┴────┐
             │記憶の想起   │
             │ 理解したという│
             │ 何らかの心的な│
             │ 状態     │
             └────────┘
   (5.1.1.3)「想像する」とか「表象する」こと
    認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
    (a)(例)存在しない何かを想像する。
      存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (b)(例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
      悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

   (5.1.1.4)「理解する」こと(純粋悟性
    認識力が、独りで働くこと。
    (a)(例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
    (b)想像力、感覚、記憶と悟性
      悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (c)観念を表現する物自体(モデル)、物のある省略された形(記号)
      悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (d)記号による解法
      問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

  (5.1.2)身体において終結する精神の能動(運動、行動)
   (a) 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   (b) 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))


 (5.2)あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である
  (5.2.1)身体を原因とする知覚
   (5.2.1.1)外部感覚
    (a) 対象に注意を向けるのは能動であるにしても、外部感覚は精神の受動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (b)〈特殊感覚〉視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡覚

   (5.2.1.2)共通感覚、想像力、記憶
    (a) 共通感覚について。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (b) 外部感覚だけでなく、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚もまた、記憶され、想像力の対象となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (c)「これらの形象[事物の性質をも表す]のうち、観念は...外部感覚の器官や脳の内表面に刻み込まれる形象ではなく、〈想像力と共通感覚の座〉である腺Hの表而に、精気によって描かれる形象だけである。...私が‘想像したり感じたり’といっているのに注意していただきたい。...私は、〈観念〉の名のもとに、精気が腺Hから出るときに受ける刻印すべてを広く含めたいからである。...この刻印は、対象の現前に依存するときはすべて共通感覚に帰せられるが、あとで述べるように多くの他の原因によってもできるのであって、そのときは想像力に帰せられねばならない。」(出典:デカルトの身体的記憶と想像力(谷川多佳子,1990))
《概念図》
    ┌(受動)──┐ ┌記憶──────┐
 外界─→外部感覚  ├→┤形象の観念   │
    │共通感覚  │ │        │
    │ 肢体の感覚│ │肢体感覚の観念 │
    │ 内臓感覚 │ │内臓感覚の観念 │
    │ 幻覚・夢想│ │幻覚・夢想の観念│
    └──────┘ └───┬────┘
                 ↓
               想像力(能動)
         ┌───────┘
         ↓
    ┌観念──┴───┐
    │形象の観念   │
    │肢体感覚の観念 │
    │内臓感覚の観念 │
    │幻覚・夢想の観念│
    └────┬───┘
         ↓
    ┌(受動)┴─┐
    │共通感覚  │
    │ 肢体の感覚│
    │ 内臓感覚 │
    │ 幻覚・夢想│
    └──────┘

   (5.2.1.3)自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
    ・ 精神の受動のひとつ、身体ないしその一部に関係づける知覚として、飢え、渇き、その他の自然的欲求、自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    ・〈表在性感覚〉皮膚の触覚、圧覚、痛覚、温覚
    ・〈深部感覚〉筋、腱、骨膜、関節の感覚

   (5.2.1.4)身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
    ・〈内臓感覚〉空腹感、満腹感、口渇感、悪心、尿意、便意、内臓痛など

   (5.2.1.5)精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想(広い意味では、情念の一種)
    ・ 精神の受動のひとつ、身体によって起こる知覚として、意志によらない想像がある。夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想も、これである。これらは、飢え、渇き、痛みとは異なり、精神に関連づけられており、これらが情念である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

  (5.2.2)精神を原因とする知覚
   ・ 意志についての知覚、意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚は、知覚ということからは精神の受動であるが、精神から見れば能動である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   (5.2.2.1) 意志についての知覚
   (5.2.2.2) 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚

  (5.2.3) 身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を原因とする、精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (5.2.3.1)精神に関係づけられていること
    (a) 精神の受動のひとつ、精神だけに関係づけられる知覚として、喜び、怒り、その他同種の感覚がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (b)身体と思考の結びつき
      ある身体行動とある思考が結びつくと、両者のいずれかが現われれば必ずもう一方も現われるようになる。この結びつきは、各人によって異なり、各人ごとに異なる情念の原因である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (c)精神に関係づけられているとは、受動された感覚を能動的に認知する精神の能力、また、意志による能動作用に関係づけられているのが、情念の本質であるということである。
   (5.2.3.2)精神の受動性
    (a)精神の受動なので、意志によって直接制御できない
      意志の作用によって直接、情念を制御することはできない。持とうと意志する情念に習慣的に結びついているものを表象したり、斥けようと意志する情念と相容れないものを表象することで、間接的に制御することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (b)精神の受動、すなわち身体の能動である
      情念はほぼすべて、心臓や血液全体など身体のなんらかの興奮の生起をともなっており、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。これは感覚対象が感覚を現前させつづけるのと同じである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    (c)思考の持続効果
      情念は、精神のなかに思考を強化し持続させる作用が効用をもたらし、また時に、それは害を及ぼす。(ルネ・デカルト(1596-1650))


《概念図:情動、情念》
    ┌(受動)──┐ ┌記憶──────┐
 外界─→外部感覚  ├→┤形象の観念   │
    │共通感覚  │ │        │
    │ 肢体の感覚│ │肢体感覚の観念 │
    │ 内臓感覚 │ │内臓感覚の観念 │
  ┌─┤ 幻覚・夢想│ │幻覚・夢想の観念│
  │ └───┬──┘ └───┬────┘
  │     │        ↓
  │     │      想像力(能動)
  │     │        ↓
  │     │    ┌観念─┴────┐
  │     │    │形象の観念   │
  │     │    │肢体感覚の観念 │
  │     │    │内臓感覚の観念 │
  │     │    │幻覚・夢想の観念│
  │     │    └───┬────┘
  │     └───────┐│
  │             ↓↓
  │            認識力(能動)
  │             ↓↓
  │ ┌(受動)──┐ ┌観念┴┴(能動)┐
  │ │精神の能動の←─┤認知      │
  │ │知覚    │ │記憶の想起   │
  └─→身体を原因と│ │想像      │
    │する知覚  │ │理解      │
    │      │ │ 理解したという│
    │喜び、悲しみ│ │ 何らかの心的な│
    │などの情念 │ │ 状態     │
    └──────┘ └────────┘

《概念図:全体のまとめ》
┌─────────────身体(外界)─┐
│┌精神─────────┐       │
││┌─────(受動)┐│       │
│││外部感覚     ←─(身体←外界)│
│││共通感覚     ←─(身体)   │
│││ 肢体の感覚   ←─(身体←外界)│
│││ 内臓感覚    ←─(身体)   │
│││ 幻覚、夢想←─(受動)────記憶│
│││想像された観念←想像力(能動)─記憶│
│││情念・情動(受動)←─┐←────┐│
││└────┬────┘││     ││
││     ↓     ││     ││
││┌認知──┴(能動)┐││     ││
│││外部感覚の認知  ├─┘     ││
│││共通感覚の認知  ←─機能と一体化││
│││ 肢体の感覚   ││ した記憶 ││
│││ 内臓感覚    ─→記憶化   ││
│││ 幻覚・夢想   ││(身体の受動)││
│││想像された観念  ││      ││
│││情念・情動(認知)││      ││
││└────┬────┘│      ││
││     ↓     │      ││
││┌意志──┴(能動)┐│      ││
│││想起       ├───────┘│
│││想像、予測、構想 ←─機能と一体化 │
│││理解、理論    ││ した記憶  │
│││計画、行動    ─→記憶化    │
││└─────────┘│(身体の受動) │
│└───────────┘       │
└────────────────────┘




(出典:wikipedia
ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年5月2日水曜日

真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学と未来への希望

【真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
(1) 今後発見されるはずの真理の大部分は、ある特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められるようなものだ。
(2) このような特殊な経験を行う能力と、これらの経験を利用して哲学の探究を行う能力の両方が必要だが、これは簡単なことではないだろう。
(3) また、過去行われてきた哲学は欠陥が多く、優れた人たちは哲学に対して悪い考えを抱き、哲学にあまり大きな期待を抱いていないように思われる。
(4) しかし、真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、十分に認識することができれば、多くの優れた人たちが、かように有益な研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。
 「また、これらの原理から導き出し得るあらゆる真理を、かように導出してしまうまでには、幾世紀もが流れるかもしれないことも、私は充分に心得ています。なぜならば、今後発見されるはずの真理の大部分は、或る特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められねばならず、そしてこれをうまく利用することのできる同じ人が、そうした経験を行う能力を有つということは、困難であろうからであります。さらにまた、大部分の知能のすぐれた人たちは、彼らが現在まで行われてきた哲学のうちに認めた欠陥の故に、哲学全体に対して悪い考えを抱き、よりよい哲学を求めることに、専念できないだろうからであります。しかしながら結局、これら(私の)原理と、他の人々のあらゆる原理との間に見出される差異、ならびに前者から導き出される諸真理の堂々たる系列とが、これら真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、彼らに認識せしめるならば、私はあえて信ずるのですが、かように有益な研究に従事しようと試みない人、或いは少なくとも、成果をあげてこれに従事するものに好意を示し、その全能力をあげて援助することを望まない人はないでありましょう。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを云々。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、p.29、[桂寿一・1964])
(索引:哲学、特殊な経験、実験)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

崇敬とは何か

【崇敬とは、愛や献身とは異なり、善または悪をなしうる驚くべき大きな自由原因に対し、その対象から好意を得ようと努め何らかの不安を持って、その対象に服従しようとする、精神の傾向だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 善だけが期待される自由原因に対しては、愛と献身の気持ちを持つ。一方、悪だけが期待される自由原因に対しては、憎しみを抱く。これに対して、善悪のいずれかをなすかはわからないが、私たちに善または悪をなしうると判断される、自由原因に対しては、崇敬あるいは軽蔑を感じる。崇敬とは、敬う対象を重視するだけでなく、その対象から好意を得ようと努めなんらかの不安をもってその対象に服従しようとする、精神の傾向だ。
 「崇敬あるいは敬意とは、敬う対象を重視するだけでなく、その対象から好意を得ようと努めなんらかの不安をもってその対象に服従しようとする、精神の傾向だ。その結果、わたしたちが崇敬の念を抱くのは、善悪のいずれかをなすかはわからないが、わたしたちに善または悪をなしうると判断される、自由原因(人間や神)に対してだけである。というのも、善だけが期待される自由原因に対しては、たんなる崇敬よりも愛と献身の気持ちを持つのであり、悪だけが期待される自由原因に対しては、憎しみを抱くし、また、この善や悪の原因が自由だと判断されるのでなければ、わたしたちは、その好意を得ようと努めて、それに服従することもないから。たとえば、異教徒たちが、森や泉や山に対して崇敬の念をささげたとき、彼らが敬っていたのは、それら死せる物そのものではなくて、それらを司ると考えられていた神々なのであった。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一六二、pp.143-144、[谷川多佳子・2008])
(索引:崇敬)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

崇敬と軽蔑

【〈崇敬〉と〈軽蔑〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「なお、わたしたちが重視または軽視する他の対象が、善または悪をなしうる自由な原因とみなされるとき、重視から崇敬が生じ、たんなる軽視から軽蔑が生じる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五五、p.54、[谷川多佳子・2008])
(索引:崇敬、軽蔑)

情念論 (岩波文庫)



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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

重視と軽視

【〈重視〉と〈軽視〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「わたしたちが驚くのが、対象の大きさによるか小ささによるかに応じて、驚きに、重視または軽視が結びつく。こうしてわたしたちは、自分を重視、あるいは軽視しうる。そこから、大度と高慢、謙虚と卑屈の情念、つづいて習性が生じる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五四、p.54、[谷川多佳子・2008])
(索引:重視、軽視、大度、高慢、謙虚、卑屈)

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(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

不決断と良心の悔恨

【〈不決断〉が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから〈良心の悔恨〉が生まれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「さらに、不決断が取り除かれないうちに何かの行動を決した場合、そこから良心〔内心〕の悔恨が生まれる。この悔恨は、これまでの情念のように未来にはかかわらない。現在や過去にかかわる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六〇、p.56、[谷川多佳子・2008])
 「さてこの情念の効用は、自分の疑っていることが善いか悪いかを吟味させることだ。また、それが善いと確信できない間は、それを二度としないようにさせることだ。しかし、この情念は悪を前提とするから、この情念を感じる機会をもたないのが最善だろう。そしてこの情念は、不決断を免れる手段と同じ手段で、予防することができる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七七、p.154、[谷川多佳子・2008])
(索引:良心の悔恨)

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 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
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 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

恐怖の治療法

【恐怖の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「恐怖あるいは怯えについてはいかなる場合も、賞むべきでも、有用でもありえないと思える。したがって、それは、ある一つの特殊情念なのではなく、ただ、臆病、驚愕、不安の過剰であり、こうした過剰はつねに欠陥なのだ。これは、大胆が、勇気の過剰で、目指す目的さえ善ければつねに善いのと似ている。また、恐怖の主要原因は、不意を突かれることだから、それを免れる最良の策は、予め熟慮をこらし、恐怖を生む不安のあらゆる結果に備えることである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七六、p.153、[谷川多佳子・2008])
(索引:恐怖、恐怖の治療法)

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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

臆病の効用

【臆病の効用、および臆病の治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「臆病も次の場合はなんらかの効用を持つと思われる。すなわち、骨折りが無益と判断される相当に確かな理由があって、それがこの情念を生んだ場合、この臆病の情念は、本当らしく見える理由によって促されてするような骨折りから、わたしたちを免れさせてくれる。臆病の情念は、精神をこれらの骨折りから免れさせてくれるばかりでなく、精気の運動を遅くしてその力を浪費しないようにすることで、身体にも役立っている。しかしふつうは、有用な行動から意志をそらせてしまうので、この情念はとても有害である。そしてこの情念は、希望と欲望をあまり持たないことからのみ起こるのだから、矯正するには、希望と欲望の二つの情念を自分のうちに増大させるだけでよい。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七五、pp.152-153、[谷川多佳子・2008])
(索引:臆病、臆病の効用、臆病の治療法)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))

不決断の効用

【不決断の効用、および過剰な不決断に対する治療法。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「不決断も一種の不安であり、精神がなしうる多くの行動〔能動〕のあいだで、精神をいわばどっちつかずの状態に引き留める。その結果、精神にいかなる行為も実行させないことになる。こうして、決心するまえに選択する時間を精神が持つことになる。確かにこの点で、不決断の情念には善き効用がある。けれども、それが必要以上に長びいて、行動するために必要な時間を思案に費やさせることになると、はなはだ悪しきものになる。」(中略)「これでは過剰な不決断であり、よく行為しようとする欲望が大きすぎること、知性が弱く明晰判明な観念を持たずに多くの漠然たる観念しか持っていないことから生じている。ゆえに、この過剰に対する治療法は以下のとおりである。現前するすべてのものについて確実で決然たる判断をする習慣をつけ、さらに、最善と判断することを行なえば、たとえその判断が大きく間違う可能性があっても、とにかく自分の義務を果たしている、と思う習慣をつけること。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一七〇、pp.148-149、[谷川多佳子・2008])
(索引:不決断、不決断の効用、不決断の治療法)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

勇気と臆病

【わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉、実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉〈臆病〉〈恐怖〉の情念が生じる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたちに依存する行為の手段選択の困難から〈不決断〉の情念が生じ、この情念は意思決定において熟考を促す。わたしたちに依存する行為の実現における困難さに対して、実現しようとする確固とした意志の強さに応じて、次の情動が生じる。勇気の過剰としての〈大胆〉〈勇気〉〈対抗心〉、勇気の反対である〈臆病〉、過剰な臆病は〈恐怖〉となる。
 「わたしたちの期待するものの成り行きが、わたしたちにまったく依存しなくても、このような希望や不安を持ちうる。しかしそれが、わたしたちに依存すると示されると、それを得るための手段選択、その実現において、いくらかの困難がありうる。前者の手段選択の困難から不決断は生じるが、わたしたちの熟考のうえ決意するよう促す。後者の実現困難には、勇気あるいは大胆が対置され、対抗心はその一種だ。また臆病は勇気の反対であり、恐怖や激しい恐れは大胆の反対である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五九、p.56、[谷川多佳子・2008])
(索引:不決断、大胆、勇気、対抗心、臆病、恐怖)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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