2018年12月7日金曜日

19.すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為の無意識的な意図、言表された意図

【すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.5.1)(3.5.2)追加記載。

(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3.2)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
 (3.3)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
 (3.4)これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
 (3.5)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
  (3.5.1)すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。
  (3.5.2)ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。

 「或る行為の価値を、その行為が行なわれるための動機であった意図にしたがって測定する者は、《意識的な意図》をそのさい考えている。

だが、すべての行為には多くの無意識的な意図性があるのだ。

そして、「意志」や「目的」として前景のうちへと入り込んでくるものは、《多種多様に》解釈可能であって、それ自体一つの徴候にすぎない。

「言表された、また言表されうる意図というもの」は、一つの解釈、《偽》でありうる一つの解釈であり、かつまた、一つの恣意的な単純化や偽造等々なのだ。


 行為の一つの可能的な結果としての《「快」を打算すること》と、拘束され堰き止められた力の発現としての、なんらかの活動自身と結びついた快、これら二つの快を区別するだけでもう、なんという骨折りが必要とされたことか! これはお笑いぐさだ! 

これは、生の快適さと―――道徳的な陶酔や自己崇拝としての《浄福》とが取り違えられるのと同様だ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 六九三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.338、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為、意図)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

無限

【「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「かくして「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定なのである。

無限な可能性は、それ自身、《言語の無限な可能性》として現われるのである。それは、無限についての言明は意味を持っている、といった事の中に現われるのではない。何故なら、そのような言明は存在しないのであるから。

無限な可能性は無限なるものの可能性を意味してはいない。「無限」という語は、可能性を特徴づけるのであり、現実性を特徴づけるのではないのである。

 線分の無限分割可能性は、或る純粋に論理的なるものである。《この》可能性が経験から発生し得ないことは、全く明らかではないか。

 空間と時間の無限分割可能性、連続性―――これら全ては仮説ではない。それらは、記述の可能な形式についての洞察なのである。

 我々は経験から、空間と時間は或る不連続な構造を持っている、と教えられることはあり得ないのか。もし我々が棒を次々と分割して行き、物理的な理由で限界にぶつかるとすれば、このことは、ある命題によって記述せられる経験的事実である。

しかしこの場合、その命題の否定命題もまた意味を持たねばならない。そしてこの事は、更に進んだ分割についての可能的経験もまた我々は記述できねばならないのだ、という事を意味している。

事実、分子の仮説は、もしそれが意味を有するならば、この更に進んだ分割の可能性を前提しているのである。ここにおいて人は、空間の無限分割可能性は事実に関わることではないのだ、という事を知るのである。

我々がここで必要とする可能性は、《論理的》可能性、即ち記述の可能性なのであり、そしてそれは事実的経験に関わる必要がないのである。

 明らかに我々はここにおいては、仮説を問題にしているのではなく、仮説の設定を可能にするところのものを問題にしているのである。

 もちろん我々は、分割可能性に論理的限界を引くことは出来る。しかしそれは、我々は我々の表現の構文法を変えるのだ、という事を意味するのである。もちろんこの事は、我々は、或る経験を前もって排除するという事ではなく、その経験をその記号法によって表現することを断念するという事なのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』付録A 無限について、全集5、pp.331-332、黒崎宏)
(索引:無限)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

何によって無限が認識されるか

【何によって「無限」が認識されるのか。それは、感覚や表象、一定の記号体系からは得られない。線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、その源泉である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)無限の認識は、感覚、表象、記号からは得られない。
 (1.1)感覚知覚からも、無限なものは何も得られない。
 (1.2)無限は、表象できない。
 (1.3)数を、一定の記号体系そのものとみなすならば、やはり無限が理解できない。
(2)それにもかかわらず、形式的算術の記号体系の内容、意義としての数や無限が存在するように思われる。我々の、この無限の理解は、何によってもたらされるのかが問題である。
(3)例えば、線分や円周には無数の点があり、ある点を通る直線が無数にあるなど、幾何学的な認識が、無限の認識の源泉である。

 「幾何学的な認識の源泉から、言葉の本来のそして最も強い意味での無限が得られる。ここでわれわれは日常の言語使用から眼を転じるべきである。日常の言語使用においては、「無限に大きい」と「無限に多い」は「きわめて大きい」や「きわめて多い」以上のいかなることも語らないからである。どの(直)線分にも、どの円周にも無限に多くの点があり、どの点にもそれを通る無限に多くの直線がある。われわれがこれらを全体として個々独立に表象できないということはどうでもよい。ある人はより多くを表象でき、またある人はより少なくしか表象できないかもしれないが、われわれはここで心理学や表象や主観的なものの領域にいるわけではなく、むしろ客観的なものの領域、真なるものの領域に立っているのである。ここで、幾何学と哲学は最も近づいている。」(中略)「これらの学問は、双方にとって損害をもたらすほど互いに疎遠であり続けてきた。そうであるから、結局のところ形式的算術、数は数記号にほかならないという見解、が支配的になってきたのである。おそらくその時代はいまだ過ぎ去ってはいないであろう。そのような見解に人々はどうやって到ったのか。数を学問的に取り扱おうとするならば、数として何を理解するかを言う義務を誰でも感じる。この概念的な課題に向かうと誰もが自分の無力さを認識し、即座に数のかわりに数記号を説明する。なぜなら、これらのものは、石や植物、星が見えるように、もちろんあなたの目に見えるからである。あなたはたしかに、石が存在することを疑わない。同じようにあなたは、数が存在することを疑うことはできない。あなたは、数が何ものかを意味する、あるいは数がある内容をもつ、という考えを拒みさえすればよい。そうしないと、われわれは実際その内容を示さなければならず、それは信じられないような困難に導くからである。これらの困難を避けるということがまさしく、形式的算術の強みにほかならない。数が一定の記号の内容や意義ではないということをいくら明確に強調しても強調しすぎということはないのは、そのためである。むしろ、これらの数記号それ自体がまさしく数であり、いかなる内容も意義もまったくもたないのである。哲学的理解のいかなる痕跡も見いだせない者だけがそのように語れる。そのとき、数命題は何も語ることはできないし、数はまったく何の役にも立たず、無価値なものとなる。
 感覚知覚からはいかなる無限なものも得られない、ということは明らかである。また、われわれの目録にどれほど多くの星を取り込むことができるにせよ、それは決して無限に多くではありえないし、大洋の浜辺にある砂粒についても同様である。それゆえ、われわれがどこで無限を正当に承認するにせよ、その承認を感覚知覚から得ようとはしてこなかった。これを得るためには、特別な認識の源泉が必要とされるのであり、幾何学的な認識の源泉はそのようなものの一つなのである。
 空間的なものと並んで、さらに時間的なものが承認されなくてはならない。これにもまた、一つの認識源泉が対応し、この源泉からもわれわれは無限を引き出す。両方向に無限の時間は、両方向に無限な直線に似ている。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学と数学的自然科学の認識源泉[一九二四/二五]』292-294、フレーゲ著作集5、pp.306-308、金子洋之)
(索引: 無限)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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