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2022年1月7日金曜日

自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務は連帯責務である

自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)役割上の責務、連帯責務、共同責務
 ある種の生物学的ないし社会的集団のメンバーに対して、社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人たちの責任がこれにあたる。
(b)連帯責務は選択や同意によらない
 大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられている。
(c)互恵的でない場合の解除が可能
 他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を、集団の他のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服することを停止することもありうると考えている。
(d)政治的責務が選択や同意によらない連帯責務と考えることへの反発
 (i)連帯責務が情緒的な絆に依存しているという誤解
  共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。
 (ii)国家規模の連帯責務という理念の全体主義的なイメージへの反発
  大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には、国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。


 「自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものをある人間が単に受け取っ ただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはありえない、という主張は本当に正しい だろうか。もし我々が、宣伝カーに乗った哲学者のような赤の他人によって我々に利益が押し つけられる場合を考えるならば、この主張は正しいと思われるだろう。ところが、我々が役割 上の責務としばしば呼ばれているような義務――私はこの義務を総称して連帯 (associative)責務ないし共同(communal)責務と呼ぶことにする――を念頭に置くとき は、我々の信念は全く異なったものになる。私が言っているのは、ある種の生物学的ないし社 会的集団のメンバーに対して社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人た ちの責任がこれにあたる。大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられているが、他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を集団の他 のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服すること を停止することもありうると考えている。連帯的な責任についてのこのような共通の想定は、 政治的責務もこの種の責任の一つに数えられるかもしれないことを示唆しており、もしそうで あるならば、フェア・プレイによる論証に向けられた二つの反論はもはや正鵠を射たものとは 言えなくなるだろう。しかし、概して哲学者たちはこの可能性を無視してきており、私の考え ではこれには二つの理由がある。第一に、共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。第二に、大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,共同体の責務,未来社 (1995),pp.308-310,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務の基礎

政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)政治的正当性の基礎は同胞関係にある
 (a)政治的正当性、すなわち政治共同体がそのメンバーたちを共同体の集団的決定を理由に責務に服しているものとして取り扱う権利の最善なる擁護は、同胞関係や共同社会、そしてこれらに随伴する様々な責務の、より肥沃な地盤に見出されねばならない。
 (b)見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか正義の義務とかフェア・プレイの責務といったものではない。

(2)政治的責務は連帯責務である
 政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。
(3) 様々な同胞的共同体
 (a)我々に知られている様々な同胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。
 (b)移住の自由の意義
  移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。



「ついに我々は、我々の仮説を直接的に考察することができるようになった。つまり、政治 的正当性――政治共同体がそのメンバーたちを、共同体の集団的決定を理由に責務に服している ものとして取り扱う権利――の最善なる擁護は、見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか 正義の義務とかフェア・プレイの責務といった堅い地盤――哲学者たちは、このような地盤に政 治的正当性の最善の根拠を見い出そうと望んできた――の上ではなく、同胞関係や共同社会、そ してこれらに随伴する様々な責務のより肥沃な地盤に見出されねばならない。政治的責務とい うものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたにすぎない。我々に知られている様々な同 胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。そして、移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。かくして、事実上の裸の政治共同体のメ ンバーである人々は、同胞関係の責務に必須な他の条件――これらの条件は、政治共同体に当て はまるように適切に再定義される――が充足されている場合には、政治的責務に服することにな る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,同胞関係と政治共同 体,未来社(1995),pp.322-324,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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