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2020年6月15日月曜日

合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))

状況の3つの意味

【合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理性原理の3つの意味
 (1)客観的状況
  (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況である。
  (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。
  (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
 (2)行為者が認識する状況
  行為者が現実に見たものとしての状況である。
 (3)行為者が認識すべき状況
  行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況である。
 (4)仮想的な合理性原理
  行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
 (5)現実的な合理性原理
  行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
 (6)規範的な合理性原理
  (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきである。
  (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3)の違いを論ずることになろう。
  (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。
  (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すなわち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
 (7)現実的な人間行動
  われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。
 「公演の前の方で、わたくしは、人は自らの(その知識と技術も含めた)客観的状況に対して適切に行動するという見解として考えられた合理性原理に関心があった。つづく部分では、人は自分が見たものとしての状況に適切な仕方で行動するという見解に関心をはらっている。いまや「合理性」には(それゆえ「合理性原理」にも)少なくも三つの意味があるように思われる。どれも客観的であるが、行為者が行為している状況の客観性にかんしては違いがある。
 (1)《現実にそうであったものとしての状況》――歴史家が再構成しようとする客観的状況。
 この客観的状況の一部は、
 (2)《行為者が現実に見たものとしての状況》。
 しかし、(1)と(2)のあいだには第三の意味がある。
 (3)《行為者が、(客観的状況のなかで)そう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況》。
 これら三つの「状況」の意味に対応して「合理性原理」にも三つの意味があることは明らかである。さらに行為を理解するうえで、とりわけ歴史家が《失敗》を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(1)の意味とほかのふたつの意味の違いが一定の役割を演じるだろうことは明らかであり、(2)と(3)の違いも似たような役割を演じるだろう。強調されなければならないことだが、(2)と(3)は今度は、客観的状況(1)(の多かれ少なかれ洗練された分析)の一部を形成しているのである。しかも、もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。(そのような衝突は、精神分析学者によって、おそらく現実原則〔現実生活に適応するために、快楽などの原始的な本能的欲求を一時的、または永久に断念する自我の働き〕の失敗として記述されるだろうと思う。)(3)は、あるがままの状況のある側面を見るさいの難しさに対する評価を含んでいるかもしれない。
 この論文にかんしては、これらの定式化を使って、(1)と(3)については早い方の節で、そして(2)については終りの方の節で論じたと言われるかもしれない。わたくしの見解では、われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する――ことばをかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第8章 モデル、道具、真理,第13節「不合理な」行為,注19,pp.308-310,未来社(1998),ポパー哲学研究会,蔭山泰之(訳))
(索引:状況)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月11日木曜日

推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤りは不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カール・ポパー(1902-1994))

知にかかわる倫理

【推論知には権威が存在せず,確証理論も例外ではない.誤りは不可避で,学びの契機であり,自己批判と知的誠実さ,他者批判の必要性と尊重,寛容の原理が要請される.批判は真理のため,人でなく理論に関し理由と論拠によってなされる.(カール・ポパー(1902-1994))】

知にかかわる倫理
 知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、政治家などにとっての倫理である。
(1)推論知の本質
 (a)客観的な推論知において権威は存在しない
  われわれの客観的な推論知は、いつでもひとりの人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえいかなる権威も存在しない。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 (b)確証された理論も例外ではない
  もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。
(2)誤りの不可避性
 (a)誤りを避けることは不可能
  すべての誤りを避けること、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、不可能である。
 (b)誤りを避けることの困難性
  もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。
(3)誤りの本質の理解
 (a)誤りに対する態度の変更
  それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない。われわれの実際上の倫理改革が始まるのはここにおいてである。
 (b)誤りから学ぶという原則
  新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさに自らの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 (c)誤りを分析すること
  それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
(4)自己批判と知的誠実さ
 それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
(5)価値あるものとしての他者の批判
 (a)他者による批判の必要性
  われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし他者による批判が必要なことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 (b)自分とは似ていない他者の価値、寛容の原理
  誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする、また彼らはわれわれを必要とするということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 (c)他者から指摘された誤りへの感謝
  われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。
(6)合理的な批判の原則
 (a)理由や論拠を伴った具体的な批判
  合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。
 (b)批判は、真理のため
  それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。
 (c)人の批判ではなく内容の批判
  このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。

 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VII,VIII,pp.317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年5月21日木曜日

社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論

【社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))】

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論  (1)社会の陰謀理論
  戦争や貧困や失業は、悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、次の点で注意が必要である。
  (a)社会現象の科学的な解明を阻害する
   社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが、理論的社会科学の課題である。ところが、陰謀理論はこのような解明の前に止まってしまい、科学的な解明を妨げてしまう。
  (b)陰謀家の陰謀を呼び込んでしまう効果
   過去、すべての陰謀家は、無批判に社会の陰謀理論を信じた。すなわち、社会が陰謀によって動かせるという理論は、現実の陰謀を勇気づけてしまうという効果がある。
  (c)例として、陰謀理論によって喚起された恐怖が戦争の原因
   例として、近代のたいていの戦争は、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、であった。
 (2)人の意見は利害関心に規定されるとする理論
  人の意見は常にその利害関心によって規定されるという先入見は、次の点で注意が必要である。
  (a)何が真理かという問いが、君の利害関心は何かに置き換わる
  「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。
  (b)寛大さが失われる
   しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
  (c)異なる意見から学ぶことがなくなる
  こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心が萎縮してしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。

 「戦争や貧困や失業は悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、常識の一部であるが、批判的ではない。わたくしは、常識の一部となっているこの批判的でない理論を、社会の陰謀理論〔社会は陰謀によって動かせるという理論〕と名づけた。(より一般的に、宇宙の陰謀理論も考えることができる。電光を投げつけるゼウスを考えてみよ。)この理論は、広く行きわたっている。それは、罪をあがなう子羊を探し求めて、迫害と恐ろしい苦悩を引き起こした。
 社会の陰謀理論の重大な特性は、それが現実の陰謀を勇気づけてしまうという点にある。しかしながら批判的に調べてみると、陰謀はほとんどその目的を達成していないことがわかる。陰謀理論を主張したレーニンは、陰謀家であった。ムッソリーニやヒトラーもそうであった。しかしムッソリーニやヒトラーの目的がイタリアやドイツで達成されなかったように、レーニンの目的もロシアでは達成されなかった。
 彼らすべてが陰謀家になったのは、無批判に社会の陰謀理論を信じたからである。
 社会の陰謀理論の欠点を明らかにすることは、哲学に対して、控えめではあるが、おそらく決して些細ではない貢献をおこなうことになる。そればかりでなく、その貢献は、人間の行動の意図されなかった帰結が社会に対してもつ大きな意味の発見につながるであろうし、社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが理論的社会科学の課題であるとする見解を促進することになろう。
 戦争の問題を取り上げてみよう。バートランド・ラッセルほどの批判的な哲学者でさえ、戦争は心理的な動機――人間の攻撃性――によって説明されなければならないと信じていた。攻撃性が存在することは否定しないが、ラッセルが、近代のたいていの戦争は、攻撃性そのものによってよりもむしろ、《攻撃に対する恐れ》によって勃発したという点を見過ごしていたことには驚きを覚える。それは、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、なのである。」(中略)
 「哲学的な先入見のもうひとつの例は、人の意見は常にその利害関心(Interesse)によって規定されるという先入見である。この理論は(理性は情念の奴隷であり、またそうであるべきであるというヒュームの学説の退化した形態であると診断することができるだろうが)、原則として自分自身には適応されないのである(われわれの理性にかんして謙虚さと懐疑を教えたヒュームは、彼自身の理性を含めてこれを適用したのだが)。むしろそれは、ふつうはほかの人に、とくにわれわれと意見を異にする人たちに対してのみ適用される。しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
 しかし、こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心(Interesse)が萎縮してしまう。「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。われわれの共通の合理性にもとづく、国家を超えた人間理性の統一が壊れてしまうのである。
 これと似たような哲学的先入見に、現代では異常に影響力の強いテーゼがある。この有害な理論によれば、根本〔前提〕についての合理的かつ批判的な議論は不可能であるとされる。ここから、以前に論評された理論と同じように、望ましくないニヒリスティックな帰結が生じてこよう。この理論は、多くの人によって主張されている。それを批判することは、多くの職業的哲学者にとっての主要な領域のひとつとなっている、認識論という哲学の領域に属する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから――これやあれ、さまざまなものから摘みとられた,第13章 わたくしは哲学をどのように見ているか(フリッツ・ヴァイスマンと最初の月旅行者からとられた,pp.284-286,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:陰謀理論,戦争,貧困,失業,利害関心)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年5月13日水曜日

自由で批判的で公開的な討論とは異なる,世論という社会現象は,ときに過ち,操作され演出され計画され,自由の脅威ともなる。だが,しばしば政府より賢明であり,正義と道徳的価値を言い当てる。ただし条件がある。(カール・ポパー(1902-1994))

世論

【自由で批判的で公開的な討論とは異なる,世論という社会現象は,ときに過ち,操作され演出され計画され,自由の脅威ともなる。だが,しばしば政府より賢明であり,正義と道徳的価値を言い当てる。ただし条件がある。(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)自由で批判的で公開的な討論
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている自由で批判的で公開的な討論からは区別される。
(2)一つの社会現象としての世論
 (a)自由で批判的で公開的な討論によって、世論はたしかに影響される。
 (b)しかし、討論の成果として、世論が出現してくるわけではない。
 (c)また、討論によって世論を押さえつけられるものでもない。
(3)世論の否定的な側面
 (3.1)世論が真理と誤謬の裁判官ではない
  世論が、神の声として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあってはならない。
 (3.2)世論は操作され、演出され、計画される
  残念なことに世論は操作され、演出され、また計画される。
 (3.3)世論が自由にとっての脅威となることもある
  強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、世論は、自由にとっての脅威となる。世論は趣味の問題の裁判官としては、危険なものなのである。
(4)世論の否定的な側面の克服
 (4.1)自由主義の伝統の強化
  これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対抗し得る。また、この自由主義を守るということにおいて、すべての人は共同することができる。
 (4.2)世論の積極的な側面
  (a)世論はしばしば政府より賢明
   世論は、確かに、政府などよりはしばしば啓発されていて賢明である。
  (b)世論は、正義と道徳的価値を言い当てる
   また世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官でもある。

 「まとめておきましょう。
 「世論」と呼ばれている、かのいくぶん曖昧でまさに把握し難いものは、たしかに政府などよりはしばしば啓発されていて賢明でもありますが、強固な自由主義の伝統による束縛を受けないならば、自由にとっての脅威を意味します。世論が、神の声(vox dei)として、真理と誤謬についての裁判官として、承認されることはあってはなりませんが、世論は、往々にして、正義と他の道徳的価値にかんする啓発された裁判官です。(イギリス植民地における奴隷の解放)。世論は趣味の問題の裁判官としては危険なものです。残念なことに世論は「操作」され、「演出」され、また「計画」されるものです。これらすべての脅威に対してわれわれは、自由主義の伝統を強化することによってのみ対抗しうるのであり、またこうした意図のもとで各人は共同することができます。
 世論は、正義の問題や他の道徳的テーマについての討論を含めて、学問において生じている(あるいは生じるべき)自由で批判的で公開的な討論からは区別されるべきものです。こうした討論によって世論はたしかに影響されますが、世論は討論の成果として出現してくるのでもなければ、討論によって押さえつけられるものでもありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,8 まとめ,p.252,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,世論)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年5月5日火曜日

国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))

自由主義の諸原則

【国家は、諸個人の権利保護のための必要悪である。民主主義の本質は、流血なしの政府交代であり、害悪が最小の制度ではあるが、悪用もできる。制度は、善き伝統と市民に支えられ、改善されていく。(カール・ポパー(1902-1994))】
自由主義の諸原則
(1)必要悪としての国家
 (a)人は人に対して狼であるか? 故に国家が必要であるか?
 (b)人は人に対して天使であるとしても、国家は必要である。
  依然として弱者と強者とが存在する。弱者が、強者の善良さに恩義をこうむりながら生きる。これを認めない場合は、国家の必要性が承認される。
 (c)国家は絶えざる脅威であり、たとえ必要悪であるとはいえ、悪であることに変わりはない。
  国家が自らの課題を果すためには、権力を持たねばならないが、その権力の濫用から生じる危険を完全に取り除くことはできない。また、権利の保護に対する代価が高すぎる場合もあろう。
(2)民主主義の本質は流血なしに政府を交換できること
 民主主義においては、政府は流血なしに倒されうる。専制政治においてはそうではない。
(3)何事かをなし得るのは市民
 民主主義は枠組みであり、何事かをなし得るのは市民である。
(4)民主主義は、最も害が少ない
 (a)多数派はいつでも正しいとは限らない。
 (b)民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知る限りでもっとも害が少ない。
 (4.1)開かれた社会の必要性
  闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

(5)制度は善用も悪用もできる
 (a)制度は、いつでも両価的である。善用もできれば、悪用もできる。
 (b)制度を支える良い伝統が必要である。伝統は、制度と個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要である。
(6)制度を支える伝統の力
 (a)法はただ一般的な原理を書き記しているのみであり、その解釈や司法過程は、伝統的な正義や原則によって支えられ、発展させられる。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則についても当てはまる。
 (b)個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ、そして可能なかぎり少なくされる。
(7)自由主義の諸原則は、改善のための原則
 (a)自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則である。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。
 (b)言葉を換えるならば、自由主義とは、専制政治への対抗という点を除けば、革命的であるというよりは、むしろ進化を目ざす信条である。
(8)伝統としての道徳的枠組み
 伝統のうちでも、もっとも重要なものは、制度化された法的枠組みに呼応する道徳的枠組みを形成している伝統である。この伝統により、道徳的感情が育成されている。


 「2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ
1 《国家は必要悪です》。国家の権力は必要な範囲をこえて拡大されるべきではありません。この原則は「自由主義のカミソリ」と呼べるでしょう。(こう呼ぶのは、形而上学的実体は必要以上に増やされてはならないという有名な原則を述べているオッカム〔中世の哲学者〕のカミソリにならってのことです。)
 この悪――国家――の必要性を示すためには、《人は人に対して狼である》(Homo homini lupus)というホッブズの見解に訴える必要はありません。それどころか、《人は人に対して猫である》(Homo homini felis)、あるいは実に《人は人に対して天使である》(Homo homini angelus)――換言すれば、まったくの柔和さ、あるいはおそらく、天使のようなまったき善良さがあれば、どんな人であれ他人を害することはないという見解を受けいれたときでも、この国家の必然性を示すことはできるのです。つまり、そのような世界においても、依然として弱者と強者とが存在するでしょう。そして弱者は、強者によって許容してもらう《権利をもたない》のです。弱者は、ですから、彼ら自身を許容してくれる強者の善良さに恩義をこうむることになります。さて、こうした状態を不満足なものと考え、何ぴとも生きる《権利》をもつべきであり、そして強者の力から保護されるべきであると《要求》する者は、(強者であれ、弱者であれ)、万人の権利を保護する国家の必要性を承認することになります。
 しかしながら、国家が絶えざる脅威であり、そしてそのかぎりで、たとえ必要悪であるとはいえ、悪にかわりないことを示すことは困難ではありません。なぜなら、国家はその課題を果たすべきであるならば、個々のどんな市民よりも、あるいはどんな市民団体よりも、より多くの権力をもたねばならないからです。そうした権力の濫用から生じる危険を決して完全に取り除くことはできません。それどころか、われわれはいつでも国家によって権利を保護してもらうことに対して代価を払わねばならない、しかも税金というかたちにおいてばかりでなく、われわれが耐えねばならない品位の低下というかたちにおいても(「当局の高慢さ」)、と思われるのです。しかし、これらすべては程度問題です。要は、権利の保護に対してあまりにも高い代価を払う必要はないということです。
2 民主主義と専制政治(Despotie)との差は、《民主主義においては政府は流血なしに倒されうるが、専制政治においてはそうではない》という点にあります。
3 《民主主義は、市民にいかなる恩恵を示すこともできませんし(またそうすべきでもありません)》。事実として、「民主主義」そのものは、まったくもって何もできないのでして、何ごとかをなしうるのは、民主主義的国家(もちろん政府を含めて)の市民のみです。民主主義は、その内部で国民が行為しうるような枠組み以外の何ものでもありません。
4 《われわれが民主主義者であるのは、多数がいつでも正しいからではなく、民主主義の諸制度が、民主主義の伝統に根ざしている場合には、われわれの知るかぎりでもっとも害が少ないからです》。多数(「世論」)が専制政治を決定したときでも、民主主義者は、そのことをもって、自らの確信を放棄する必要はありません。もっとも、自国における民主主義の伝統が十分強固でなかったことを知らされることにはなりますが。
5 《伝統のなかに根づいていないならば、制度だけでは十分ではないのです》。制度というものは――強い伝統の助けがないならば――意図されていた目的とはしばしばまったく対立するような目的のために機能しうるという意味で、いつでも「両価的」です。たとえば、議会内の野党は――大雑把に言って――多数派が納税者のお金を盗むのを妨げるべきです。しかし、わたくしは、この制度の両価性を説明する、ヨーロッパ東南部の国での小さなスキャンダルを思い出します。それは、多額の賄賂がまさに多数党と野党とのあいだで分配された事例でした。
 《伝統は、〔一方における〕制度と〔他方における〕個人の意図や価値観を結びつける一種の連結環を作り出すために必要です》。
6 自由な「ユートピア」――つまり、伝統なき博士(tabula rasa)の上に合理的な仕方で設計された国家――などというものは、まったく不可能です。なぜなら、自由主義の原則は、《個人の自由に加えられる制約は、それが社会的な共同生活によって不可避である場合、可能なかぎり等しく課せられ》(カント)、そして可能なかぎり少なくされることを要求するからです。しかしながら、われわれはこうしたアプリオリな原則を実際にはどう適用できるのでしょうか。われわれはピアニストの練習を妨げるべきでしょうか。それともその隣人が静かな午後を楽しむことを妨げるべきでしょうか。こうした問題の一切は、すでにある伝統や習慣を引き合いに出して――伝統的な正義の感情、つまりイギリスでは慣習法と呼ばれているものを引き合いに出すことによって――そして、公正な裁判官が正しいと認めるところにしたがって、解決されることになるでしょう。《というのも、あらゆる法はただ一般的な原理を書き記しているのみであって、適用されるためには解釈されなければならないからです。しかしながら、解釈はふたたび日常的実践から得られるようなある種の原則を必要とするのであって、そうした原則は生きている伝統によってのみ発展させられます。これは、自由主義のもっとも抽象的で一般的な原則について、とくにあてはまることです》。
7 《自由主義の諸原則は、現行の諸制度を評価し、必要とあれば、制限を加えたり改変できるようにするための補助的な原則であると述べることができるでしょう。自由主義の諸原則が、現行の諸制度にとって代わることはできません。言葉を換えるならば、自由主義とは(専制政治への対抗という点を除けば)革命的である(revolutionär)というよりは、むしろ進化を目ざす(evolutionär)信条です》。
8 《伝統のうちでも、もっとも重要なものとして数え上げられねばならないのは、社会の(制度化された「法的枠組み」に呼応する)道徳的枠組みを形成している伝統、つまり、正しさや礼儀正しさについての伝統的感覚を体現している伝統、また、そうした伝統によって達成された道徳的感情の度合です》。こうした道徳的枠組みは、必要とあれば、衝突する利害を、正義にかなった仕方で、そして公正に調停するための土台です。こうした道徳的枠組みは、もちろん変わらないわけではありませんが、比較的ゆっくりと変わるものです。《こうした枠組み、こうした伝統の破壊ほど危険なことはありません》。(ナチズムは、そうした破壊を意図的に目ざしていたのです。)そうした破壊がなされるならば、結局のところ、冷笑的なニヒリズム――あらゆる人間的な価値に対する蔑視とそれらの解体――がひき起こされるにちがいありません。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第11章 自由主義の原則に照らしてみた世論,2 自由主義の諸原則、一群のテーゼ,pp.242-246,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:自由主義,民主主義,権利,伝統)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年5月1日金曜日

恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))

合理的討論の原則

【恐らく、私たちは共に部分的に間違っている。私たちは、真理に接近するために討論するのであって、相手を打ち負かすためではない。だから、合意できなくとも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶだろう。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理的討論の原則は、認識論的な原則であると同時に、本来、倫理的な原則でもある。
(1)可謬性の原則
 私は、あなたから学ぼうとしている。私が間違っていて、恐らくあなたが正しいのであろう。しかし、私たちの両方がともに間違っているのかもしれない。
(2)合理的討論の原則
 私たちは、批判可能な特定の問題を論じているのであって、相手の人格を攻撃しようとしているのではない。問題を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲している。
(3)真理への接近の原則
 私たちは何故、討論するのか。真理に接近するためである。だから仮に、合意に達することができないときでも、互いによりよい理解には達し、多くを学ぶことができるに違いない。
 「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI,pp.316,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:可謬性の原則,合理的討論の原則,真理への接近の原則)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月19日日曜日

闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))

知による自己解放

【闘う勇気を支える真理を探究し、誤謬から解放されるためには、自身の理念を闘う理念と同様に、批判的に考察できることが必要だ。これは、自他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能である。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「啓蒙主義もロマン派も、世界史のうちに、とりわけ、闘いあう理念の歴史、信仰闘争の歴史を見ています。この点ではわれわれは一致しています。しかし、啓蒙主義をロマン派から分かつものは、これらの理念に対する態度です。ロマン派が尊重するのは、信仰の真理内容がたとえどのようなものであろうとも信仰そのものであり、信仰の強さと深さです。ここにロマン派が、啓蒙主義を軽蔑するもっとも深い根拠があると言ってよいでしょう。なぜなら、啓蒙主義は信仰そのものには――倫理における場合を除いて――不信をもって対立するからです。啓蒙主義は、信仰を単に容認するだけでなく、高く評価もしますが、啓蒙主義が評価するものは、何と言っても、信仰そのものではなく真理です。絶対的真理のようなものが存在すること、われわれはこの真理に近づくことができるということ、これが、ロマン派の歴史的相対主義とは対立する啓蒙哲学の根本的確信です。
 しかし、真理に近づくことは容易ではありません。ただひとつの道、つまり、われわれの誤りを通っていく道があるのみです。われわれの犯した誤りからのみわれわれは学ぶことができるのです。そして他人の誤りを真理への歩みと評価する用意のある者、自分自身の誤りを《さがして》、それから解放されようとする者だけが学ぶのであると言えましょう。
 知による自己解放の理念は、たとえば自然支配の理念と同じものではありません。それはむしろ、誤りからの、誤った信仰からの《精神的》自己解放の理念です。それは、自分自身の理念を批判することによる精神的自己解放の理念です。
 啓蒙主義が狂信とファナティックな信仰を断罪したのは、単に有用性の根拠からでもなく、また、政治や実際生活においてはもっと冷静な醒めた態度による方がより前進できると期待したからでもありません。狂信的信仰に対する断罪は、むしろ、われわれの誤りを批判することによる真理探究という理念から帰結してくることがらなのです。そして、そのような自己批判および自己解放は、多元主義的雰囲気のなかでのみ、つまり、われわれの誤りと他の多くの誤りが寛容される開かれた社会においてのみ可能なのです。
 ですから、啓蒙主義の主張した知による自己解放の理念は、われわれをわれわれの理念と同一視する代わりに、われわれはわれわれ自身の理念から身を引き離すことを学ばねばならないという理念をはじめから含んでいます。理念のもつ精神的威力が認識されるならば、誤った理念のもつ精神上の圧倒的影響力から自己を解放するという課題が生じてきます。真理を探究し誤謬から解放されるために、われわれは、われわれ自身の理念を、われわれが闘う理念と同様に、批判的に考察できるよう自らを教育しなければなりません。
 これは決して相対主義への譲歩ではありません。なぜなら、誤謬の観念は真理の観念を前提するからです。他の人が正しく、そしておそらくはわれわれが間違ったのだと認めることは、肝要なのは立場のみであるとか、相対主義者の言うように、誰もが自分の立場からすれば正しく、他の立場からは正しくないのだということを意味するものではありません。西欧の民主主義において多くの人は、自らがしばしば誤っており、相手の方が正しいことを学んできました。しかし、この重要な教訓を吸収した人々のうち、余りにも多くの人々が相対主義に落ち込んでしまいました。自由で多元主義的な社会を創ろう――知による自己解放のための枠組みとして――というわれわれの大きな歴史的課題において、こんにちわれわれにもっとも必要なのは、相対主義者あるいは懐疑論者にならずに、またわれわれの確信のために闘う勇気と決心を失わずに、自分たちの理念に批判的に向かいあうことを可能にするような態度に向けて、われわれ自身を教育することです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.233-235,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:知による自己解放,開かれた社会,寛容,誤謬からの解放)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))

倫理的目標の有効性とその条件

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。倫理的目標は、公共的な悪と闘って、多くの成果を上げてきた。ただし、自らの政治目標を狂信せず、多様な異論を尊重することの重要性を学んでいる場合だけである。(カール・ポパー(1902-1994))】

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))

参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

 「狂信とその行き過ぎを避けることはそもそも可能なのでしょうか。歴史は、あらゆる倫理的な目標設定が無益であることを教えてはいないでしょうか。というのも、まさに、そうした目標が歴史的役割を演ずることができるとしたら、狂信的な信仰によって担われる場合のみであるからではないでしょうか。またあらゆる革命の歴史は、倫理的な理念への熱狂的な信仰が、その理念を絶えず反対のものに転倒させることを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰が、自由の名において牢獄の扉を解き放つのは、またすぐに新しい犠牲者の背後で扉を閉ざすためであるということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰がすべての人の平等を布告したにもかかわらず、それは、ただちに、かつての特権階級の子孫を三代四代以上にわたって追求するためであったということを教えてはいないでしょうか。〔あらゆる革命の歴史は〕狂信的信仰は、人間の友愛を布告し、同時にいつでも兄弟の牧者として登場するにもかかわらず、それが犯した殺人行為は兄弟殺しであったことが明らかになるということを教えてはいないでしょうか。歴史は、すべての倫理的理念が有害であり、そして最上の理念はしばしばもっとも有害であることを教えてはいないでしょうか。そして、世界を改善しようという啓蒙主義の理念は、フランス革命およびロシア革命によって、犯罪的ナンセンスであったことを十分に明らかにしたのではないでしょうか。
 こうした問いに対するわたくしの答えは、わたくしの第三の主張に含まれています。その主張の趣旨は、西ヨーロッパおよびアメリカの歴史から、われわれは、歴史に倫理的な意味を与えること、あるいは目標を設定することは決して無益なわけではないことを学びうるということです。もちろん、そうであるからといって、われわれの倫理的目標が完全に実現されたとか、実現されうると主張されるべきではありません。わたくしの主張ははるかにつつましいものです。わたくしはただ、倫理的な規制原理によって鼓舞された社会批判は、多くの場所で成功を収めたこと、それは公共の生活における最大の悪と闘って成果をあげえたことを主張しているにすぎません。
 これがわたくしの第三の主張です。これは、あらゆる悲観的な歴史観の反駁であるという意味で楽観的なものです。なぜなら、われわれ自身が歴史にひとつの倫理的目標をたてるとか、倫理的意味を与えることができるとすれば、すべての循環理論および没落理論は明らかに反駁されるからです。
 しかし、この可能性は、まったくのところ特定の諸条件と結びついているように見えます。社会批判が成功によって飾られたのは、異なった意見を尊重し、自らの政治目標については控え目で醒めていることを学んでいたところ、すなわち、地上に天国を実現しようという試みはあまりにも容易に地上を人間にとっての地獄に変えてしまうことを学んでいたところにおいてだけでした。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.230-231,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:倫理的目標,狂信的な信仰)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

狂信的な信仰の害悪

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))】
参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「さて、〔歴史に〕意味を与えるという理念の第二のより重要な意味の検討に移りたいと思います。〔歴史に〕意味を与えるとは、われわれが、自らの個人的な生にばかりではなく、われわれの政治的生に、つまり、政治的に考える人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。とりわけ、歴史の無意味な悲劇を耐え難いものと感じ、またそこに未来の歴史をより有意味なものにするために最善をつくせという要求を見る人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。しかし、この課題は難しいものです。というのも、善き意志と善き信仰が悲劇的にわれわれを惑わすことがあるだけに、ことに難しいのです。そして、わたくしはこの講演のなかで、啓蒙の理念を弁護しているので、まず啓蒙や合理主義の理念もまた実に怖るべき結果を導いたことを指摘しておく義務があると感じています。
 カントはフランス革命を歓迎しましたが、そのカントに、自由、平等、友愛の名のもとで、もっとも嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを、つまり、かつて十字軍の時代、魔女焚殺の時代、三十年戦争の時代に、キリスト教の名のもとで行なわれたのと同様の嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを教えたのは、ロベスピエールの恐怖政治でした。しかし、カントはフランス革命の恐怖の歴史からひとつの教訓を引き出しました。その教訓は何度繰り返されても十分ということはないものです。つまり、狂信的な信仰は常に禍であり、多元論的な社会秩序の目標とは一致しがたいものであるということ、われわれの義務は、どのようなかたちの狂信にも――その目標が倫理的に異論のないものであっても、ことにまたその目標がわれわれの目標であっても――抵抗することであるという教訓です。
 狂信のもつ危険、そして狂信に対しては常に対抗すべきであるという義務は、おそらくわれわれが歴史から引き出すことのできるもっとも重要な教訓のひとつでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.228-229,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:狂信的な信仰,意志,信仰,啓蒙,合理主義,多元的な社会秩序)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月9日木曜日

実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))

量子論で、実験の概念が変わったか

【実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ハイゼンベルクも同様だ。「……科学の伝統的な要請によれば、……この世界を主観と客観(観測者と観測されるもの)に分けることができる。……この仮定は、原子物理学では許されない。つまり、観測者と対象の相互作用は、観測されている系に制御不可能な大きな変化を引き起こす。これは、原子レベルの過程に特有の不連続な変化のためである。」したがって、ハイゼンベルクは、「この世界の主観的な面と客観的な面を区別することが困難だというこの基本的な議論は、認識論にとってきわめて重要であるから、いま、これを振り返ってみるのは有益である」と主張する。
 こうしたこととは反対に、わたくしは、物理学者は実際上、1925年以前と根本的に同じやり方で測定し、実験しているのだと指摘したい。重大な違いがあるとすれば、「客観性」の度合いも増したが、それと同じくらいに測定の間接性の度合いも増したということくらいである。3、40年まえであれば、シンチレーションの計測などを「記録」するのに、物理学者は顕微鏡を通して見ていたが、いまでは写真乾板や自動計測器があり、「記録」はそれらがやっている。そして、写真フィルムや計数管の読みは(あらゆる実験、観察が理論に照らして解釈されなければならないように)解釈を必要とするものの、われわれが理論的に解釈したからといって、それらが物理的に「干渉され」たり、「影響を受け」たりすることなどあるわけがない。たしかに、実験的テストの多くは、いまでは大部分が統計的な性格のものだが、だからといって実験の「客観性」が劣るわけではない。それらの統計的な性格(それらは計数管やコンピュータによって自動的に処理されることが多い)は、観測者や主観や意識などの物理学への侵入などと言われているものとはなんの関係もない。対照的に、実験の処方や設定は、これまでいつでも、われわれの知識が変化することと大いに関係があったし、また、いまでもそうである。つまりそれは、《理論に依存する》のである。
 《理論》は、実験を設定し、その結果を解釈するさいの案内役となるが、もちろん、われわれが考案したものである。それは、われわれの「意識」が考案した産物である。けれどもこのことは、科学におけるその理論の位置づけとはなんの関係もない。理論の位置づけは、その単純性、対称性、説明力、そして批判的討論や決定的な実験的テストに理論がいかに耐えているかということに依存する。またそれが真理であるか(実在との一致)、あるいは真理にどれだけ近いかに依存する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序章「観測者」なき量子力学,1 量子論と「観測者」の役割,pp.54-55,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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36.私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))

実在の一つのとらえ方

【私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 (6.2)観察と実験の役割
  観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
  私たちが、実在から得ることができる唯一の情報は、理論が「真でない」ことを示す観察と実験の結果である。実在とは、私たちの考えが間違っていることを教えてくれる何ものかである。
 「このように理論とは、われわれ自身の発明であり、アイデアなのである。この点は、観念論的認識論者にはよくわかっていた。だが、そのなかには、実在と衝突するほど大胆な理論もある。それらは、テスト可能な科学理論である。じっさいに衝突すると、そこには実在があるのだとわかる。それは、われわれの考えがまちがっていると教えてくれるなにかである。これこそ、実在論者が正しい理由なのである。
 (なお、この種の情報、つまり実在による理論の却下とは、わたくしの見るところでは、実在から得ることができる唯一の情報である。これ以外はみな、われわれのつくりものである。こう考えれば、理論はすべて人間の見方によって色づけされているのに、なぜ研究が進むにつれてだんだん歪みが少なくなっていくのかがわかる。)」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序 1982年 量子論の実在論的で常識的な解釈について,pp.6-7,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:実在,真でないこと,観察と実験)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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35.波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))

将来の運命

【波のうねりにも似た、偶然的で、予見されなかった危機、1回きりの独特な出来事の長い連鎖が、歴史である。ある世代が獲得した地盤が、次の世代に失われることもある。将来の運命は、私たち自身にかかっている。(カール・ポパー(1902-1994))】

次の命題への補足追加。

歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なもの
歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的なものである。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))
歴史に意味を与えるのは、私たち自身である
歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「偉大なイギリスの歴史家H・A・L・フィッシャーほどこの点を明晰に定式化した人はいません。彼はヒストリシズム〔歴史法則主義〕的な発展理論といわゆる歴史の発展法則をしりぞけましたが、同時に倫理的、経済的、政治的進歩の立場から歴史を評価しました。フィッシャーは次のように書きました。「わたくしよりも賢く教養ある人々は歴史のなかにひとつの意味、ひとつのリズム、ひとつの法則的な経過を見出した……しかしわたくしに見えるのはただ次から次に起こる予見されなかった危機、波のうねりにも似て次々に起こる危機であり、出来事の長い連鎖だけである。それらの出来事は、みなまったく独得であり、したがって一般化を許さず、歴史研究者に《ただひとつの》規則、すなわち、一般化とは対極にある偶然的なものや予見されなかったものを見失わないようにするがよい、という規則を勧告する。」したがって、フィッシャーは固有の発展傾向はないと言っているわけですが、しかしつづけて次のようにも言っています。「しかし、わたくしの立場は、シニカルな、あるいはペシミスティックなものと考えられてはならない。反対にわたくしの主張は、進歩の事実を歴史のページのなかに明晰判明に読むことができるということである。とはいえ、進歩は自然の法則ではない。ある世代が得た地盤は次に世代によって再び失われることもある。」したがって、政治的権力をめぐる闘争と混乱という無意味にして残酷な変動のなかにも、進歩は存在するわけです。しかし、その進歩をさらに確実にするような歴史の発展法則は存在しません。ですから、この進歩の将来の運命――したがってわれわれの運命――は、われわれ自身にかかっています。
 わたくしがここでフィッシャーを引用したのは、彼が正しいと信じるからばかりではありません。とりわけ、フィッシャーの考え――歴史はわれわれにかかっているという考え――が、歴史は、それに内在する機械的、弁証法的、あるいは有機的な法則をもっているという考え、言ってみれば、われわれは、歴史という人形劇のなかの人形にすぎない、あるいは、たとえば善の力、悪の力、あるいはプロレタリアの力と資本主義の力のような超人間的な歴史的諸力の対立抗争にもてあそばれる一個のボールにすぎないという考えよりも、いかに人間にふさわしく有意味なものであるかを指摘したかったからです。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.227-228,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,将来の運命,偶然)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2020年4月8日水曜日

34.歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史の意味とは何か

【歴史の中に発見されるという「意味」は恣意的、偶然的、非科学的である。私たち自身が与える倫理的理念、目標設定によって初めて、歴史の「進歩」や「退歩」、いかに誤り、大きな犠牲を払って来たかなど、歴史に意味を読み込むことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「わたくしが主張しているのは、ただ、彼らが理解可能なことを言っているかぎりでは、間違ったことを言っていることが実に多いということ、またシュペングラー流の大胆な歴史予言の基礎として役立ちうるような科学的あるいは歴史的あるいは哲学的方法は存在しないということだけです。つまり、そうした歴史的予言が当たったとしても、それはまったく偶然の幸運にすぎません。そうした予言は、恣意的で、偶然的で、非科学的です。ところが、当然のことですが、強力な宣伝効果はもつことができるのです。十分に多数の人が西欧の没落を信じるようになりさえすれば、西欧は確実に没落することでしょう。つまり、そうした宣伝がなかったら西欧が隆盛を持続したであろうといった時でさえ、やはり没落することでしょう。なぜなら、理念は山を移すことができるからです。誤った理念でさえそうすることができるのです。しかし幸いなことには、誤った理念に対して真なる理念で闘うことも往々にして可能です。
 わたくしは以下において、まったくもって楽観的な思想をいくつか述べようと思っていますので、ここでは、その楽観主義が、未来についての楽観的な予言ととりちがえられることのないように警告しておきたいと思います。
 未来が何をもたらすかをわたくしは知りません。また、それを知っていると信じる人々をわたくしは信じはしません。わたくしの楽観主義は、過去および現在から学びうるものにのみかかわります。そしてわれわれが学ぶこととは、善きものも悪しきものも含めて、多くのものが可能であったし可能であるということであり、われわれは希望を捨てる理由をもってはいない――またよりよい世界のために働くことをやめる理由をもっていないということです。
 さて、歴史の意味にかんするわたくしの第一の否定的なテーゼにはらまれていたテーマを去って、より重要な肯定的なテーゼに立ち入ることにしましょう。
 わたくしの第二の主張は、《われわれ自身が》政治の歴史に意味を《与え》たり目標を《たてる》ことができるということ、しかも人間にふさわしい意味を与えたり、人間にふさわしい目標をたてることができるということでした。
 歴史に意味を与えるということについては、二つのまったく異なった意味で語ることができます。重要で基本的なのは、われわれの倫理的理念による《目標設定》という意味です。「意味を与える」という言葉の第二のあまり基本的でない意味で、カント派のテオドール・レッシングは歴史を「無意味なものへの意味付与」と表現しました。わたくしにとって正しいと思えるかぎりでのレッシングの主張はこうです。われわれが、たとえば、歴史の歩みのなかで、われわれの理念やまたとくにわれわれの倫理的理念――たとえば自由の理念や知による自己解放の理念――は、どのような状態にあるかという問いを発して歴史の研究に臨むならば、われわれはそれ自体としては意味をもたない歴史に意味を読み込もうと試みることはできる。われわれが「進歩」という言葉を、自然の法則としての進歩という意味で使用しないように注意しさえするならば、われわれはどのように進歩しまた退歩してきたか、また、われわれの進歩をいかに高価にあがなわねばならなかったかと問うことによって、伝承されてきた歴史からひとつの意味を手に入れることはできるとも言えます。ここにはまた、われわれの多くの悲劇的な誤り――目標設定における誤りや手段の選択における誤り――の歴史も属しています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.225-227,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:歴史の意味,倫理的理念,目標設定,歴史の進歩,歴史の退歩)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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