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2018年12月3日月曜日

(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))

公理主義

【(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))】

(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

 「あなたはこう書いておられます。「私が公理と呼ぶのは・・・命題のことです。公理が真であることから、公理は互いに矛盾しないということが帰結します。」他ならぬこの命題を御手紙で拝見するのは、私には大変興味深いことでした。と申しますのも、私はこのような事柄について考え、著述をし、講演するときには、常に正反対のことを言っているからです。つまり、私が言っているのは、もし任意に措定された公理が帰結のすべてを加えても互いに矛盾しないとすれば、こうした公理は真であり、公理によって定義されたものは存在するのだということです。それが私にとって真理と存在の規準なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66、フレーゲ著作集6、p.71、三平正明)
 「3行で点の定義を与えようとするのは、私見によれば不可能なことです。なぜなら、むしろ、公理の構成全体というものが初めて完全な定義を与えるからです。どの公理もやはり定義に対して何がしかの貢献をし、それゆえ新しい公理はどれも概念を変化させます。ユークリッド、非ユークリッド、アルキメデス、非アルキメデス幾何学における「点」は、その都度何か別のものとなります。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 66-67、フレーゲ著作集6、p.72、三平正明)
 「あともう一つの意義だけに触れなければなりません。あなたはこう言っておられます。例えば「点」、「間」といった私の概念は、一意的に確定されていない。例えば二〇頁では、「間」は異なった仕方で把握され、そしてそこでは点は数の対である。―――実際そうなのでして、やはり自明なことですが、いかなる理論も必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式でしかなく、そして基本要素は任意の仕方で考えることができます。私の言う点で、何らかの物の体系、例えば愛、法則、煙突掃除夫・・・から成る体系のことを考え、そして次に私の公理全体をこうした物の間の関係として想定さえすれば、私の挙げる命題、例えばピタゴラスの定理はこうした物についても成り立ちます。換言すれば、いかなる理論も常に、基本要素から成る無限に多くの体系に対して適用できます。実際、ただ一対一変換を適用して、こう約定すればよいからです。変換された物に対する公理はそれに対応して同じものでなければならない、と。実際また、こうした事情は度々利用されています。例えば双対原理などで用いられますし、私も独立性証明で用いました。電気理論のすべての言明は、要求した公理が満たされさえすれば、磁気、電気・・・といった概念の代りに置かれる、他のいかなる物の体系についても当然成り立ちます。しかし、言及された事情は決して理論の欠陥ではありえませんし、またいずれにせよ不可避なのです。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡四 67、フレーゲ著作集6、pp.72-73、三平正明)
 「私の見解はこういうことに他なりません。概念というものは、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定しうる。私は、こうした関係を特定の言明で定式化したものを公理と呼び、こうして公理が(必要なら概念に対する命名を付け加えて)概念の定義だと考えるようになります。私は、この見方を決して退屈しのぎに考え出したわけではなく、論理的推論と理論の論理的構成とにおける厳密性の要求によって、この見方を取らざるをえないということが分かったのです。私は、数学と自然科学においては、一層微妙な事柄はこのようにしてのみ確実に取り扱えるのであり、さもなければただ循環するだけだと確信しております。」
(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡八(葉書) 一九〇〇年九月二二日 79、フレーゲ著作集6、p.89、三平正明)
(索引:公理系,公理主義,公理)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ダフィット・ヒルベルト(1862-1943)
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2018年5月7日月曜日

4.帰納法:感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

帰納法と中間的公理

【帰納法:感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 感覚や実験により事物の本性に迫り、低次の命題から高次の命題へ、飛躍することなく段階的に探求してゆく。どの段階においても、命題は概念的なものではなく、よく限定されている。感覚および個々的なものから、直ちに最も一般的なものに向かって飛んで行ってはならない。人間的な事がらや、運命にかかわるような真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、空想的な一般的公理ではない。

 「それゆえに我々は通俗的および推量的な技術に対する裁判権は、(この部分に我々は全く係わらないのだから)推論式やこの種のよく知られかつ持てはやされた論証形式に任せるけれども、しかし事物の本性に対してはどこでも、低次の命題にも高次の命題にも帰納法を用いる。というのも「帰納法」とは次のような論証形式と考える、すなわち感覚を保ち(物の)本性に迫り、そして実地を目指しかつほとんどそれに携わるものだからである。

 したがって論証の順序もまた全く逆になる。というのは、今までは事は次のように運ばれるのを常とした、すなわち感覚および個々的なものから、直ちに最も一般的なものに向かって飛んでゆく、いわばそれを廻って論争が転回する不動の柱に向かってのごとく。それから他のものが中間者を通って派生せしめられる。

たしかに近道ではあるが、急坂で自然には達しない道であり、ただ論争に対しては下り坂で適当した道である。

ところが我々のほうに従えば、命題は飛躍することなく次々に引き出され、したがってやっと後になって最も一般的なものに達する。

しかしこの最も一般的なものも、概念的なものになってしまうのではなく、よく限定されたものであって、自然が事象的に自分により明らかなものとして認め、かつ事物の核心に存するようなものなのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』著作配分、p.39、[桂寿一・1978])

 「最も低い命題はむき出しの経験とあまり距ってはいないが、かの最高の最も一般的な(我々の持っている)公理なるものは、概念的であり抽象的であって、実質的なものをもたない。

しかるに、人間的な事がらや運命が懸けられているかの真実で実質的な生きた公理は、中間的公理であり、さらにこられの上に最後に、かの最も一般的なもの、すなわち抽象的ではなく、これら中間的なものによって、正しく限定されているような公理があるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一〇四、pp.162-163、[桂寿一・1978])

(索引:帰納法、公理、中間的公理)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2018年1月14日日曜日

幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

幾何学の公理

【幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 幾何学の公理は、規約であり、扮装を着けた定義に過ぎない。我々は、それらの公理が矛盾を導かない限り、それを自由に選択することができる。仮に、これらの公理が、カント Kant のいったように先天的総合判断であるのなら、公理は非常に強い力で我々を束縛するはずだから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできないに違いない。ロバチェフスキーの幾何学など、ユークリッド幾何学以外の数ある幾何学が可能であるが、そのいずれが実験的真理であるかということは、数学ではなく物理学の問題である。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。したがって、もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を実験的に検証できるかもしれない。もしそうなれば、逆にユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないということになる。
 「数学者の大多数はロバチェフスキーの幾何学を単なる論理上の遊戯としか見なさない。しかしながら数学者のうちにはもっとはるかに進んでいる人々もある。数ある幾何学が可能である以上、真の幾何学は我々の幾何学であるというのは確かだろうか。経験はもちろん三角形の内角の和は二直角に等しいと我々に教えてはいる。しかしそれはなぜかといえば我々が余り小さい三角形しか取り扱わないからである。ロバチェフスキーによれば、内角の和と二直角との差は三角形の面積に比例する。もし我々がもっと大きい三角形を取り扱うか、または我々の測定がもっと精密になったとしたらば、その差を感じ得るようにならないだろうか。そうなればユークリッド幾何学は暫定的な幾何学に過ぎないであろう。
 この説を論議するには、我々はまず幾何学の公理の本性がどんなものかを考えなければならない。
 これらの公理はカント Kant のいったように先天的総合判断であろうか。
 そうだとすると、これらの公理は非常に強い力で我々を束縛するから、我々はこれに反する命題を考えることも、またそういう命題に基づいて理論的な建築を作りあげることもできない。非ユークリッド幾何学というようなものは存在しないはずである。」(中略)
 「それでは幾何学の公理は実験的な真理であると結論すべきであろうか。しかし人は理想的な直線や円などについて実験することはない。ただ物質的な対象について実験し得るに過ぎない。」(中略)
 「だから幾何学の公理は先天的総合判断でもないし、実験的事実でもない。
 それは規約である。我々の選択はあらゆる可能な規約のうちから実験的事実に導かれて行ったのである。しかし選択にはなお自由の余地があって、矛盾は全然避けるという必要はあるが、それ以外には制限はない。公理の採用を決定した実験的法則が近似的なものに過ぎなくても、なお公理は依然として厳密に真であるということを失わないというのはこういうわけである。
 いいかえれば幾何学の公理(私は算術の公理については述べない)は扮装を着けた定義に過ぎない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第3章、pp.74-76、河野伊三郎(訳))
(索引:)

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アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

無限とは何か?

【数学において「無限」の推論を支える公理は、経験により検証可能なものではない。そうかと言って、恣意的な規約とも思えず、自明なものとして服従を強制されているかのようである。(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の定理に「無限」がかかわってくるときに、数学的帰納法(もしくは、これと同等の、正の整数のどんな集合のうちにも、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在という公理。)が必要になる。この数学的帰納法による証明は、我々が実際に無限の推論を展開できるわけではないという意味で、経験から真であることが知られるわけではない。またそれが、無限にかかわる限り、争うことのできない自明なものとして服従を強制されているように思われることから、任意に採否が決められる「規約」とも思えない。
 「もしある定理が1なる数について真であって、この定理が n なる数につき真であるかぎり、 n + 1 なる数についても真であることを証明したならば、この定理は正の整数すべてについて真であるとする「出直し法」による推理の根拠となる判断は別の形に直すことができる。たとえば相異なる正の整数の無限集合のうちには、集合中のほかのどれよりも小さい一数がいつでも存在するといえる。一つの命題から別の命題に容易に移れるところをみると、出直し法による推理の正当なことを証明したという幻想を抱く人もあるかもしれない。しかしいつでも途中で障害にあう、いつでも証明し得ない公理に到達する。そうしてこれは根本においては、証明すべき命題を別の言葉に翻訳したものにほかならない。
 だから出直し法による推理の規則は矛盾律に引き直し得ないというその結論からまぬかれることはできない。
 そのうえこの規則は経験から来たのでもない。経験が我々に教え得るのは、ある規則が例えば十までの数についてとか、百までの数についてとか真であるということで、経験は際限のない数の系列に追いつくことはできない。できるのは、ただこの系列のうちの、長くても短くてもとにかく必ず限られた一部分に過ぎない。
 ところでそれだけの話だとすれば、矛盾律だけで十分である。これによると我々はいつでも欲しいだけの三段論法を展開することができる。ところがただ一つの公式に無限のものを含ませる場合、ただ無限に対する場合だけこの原理は効果を失い、またその場合には経験も同様に無効になる。分析的な証明によっても、経験によっても捕えられないこの規則は先天的総合判断の真の典型である。しかもこれを幾何学の要請のあるもののように、一つの規約と認めようとするわけにもいかない。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、6、pp.34-35、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、先天的総合判断、無限、数学的帰納法、出直し法)


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問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学の豊かさの由来

【問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の豊かな諸成果は、いったい何からもたらされるのだろうか。数学の諸定理が、推論全部の根源にある諸公理をもとにして、形式論理学の規則によって次から次へと引き出すことができるのならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。これら諸公理と推論規則の由来が、仮に実験的事実のようなものとして理解することができたり、あるいは、人間の認識が従わざるを得ない「先天的総合判断」のようなものとして理解することができたとしても、この数学の豊かな生産性は、依然として謎なのである。
 「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「AはAである」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。
 もちろん推論全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を[カントのいう]先天的総合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ総合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけでなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推論はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、1、pp.20-21、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、論理学、同語反復、推論規則、先天的総合判断)

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