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2022年1月31日月曜日

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

マキアヴェッリの所説の意義

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。
(b)以下のような一元主義的信念は誤り
 (i)われわれの病弊に対する最終的回答があり、それに至る道があるはずだ。
 (ii)われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能である。
 (iii)全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは、技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためである。
(c)価値多元主義が現実の真実である
 (i)全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならない。
 (ii)ある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかったが故にこうした生き方を選ぶとしよう。 
(d)経験主義、寛容、妥協へ の道
 同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ない。


「マキアヴェッリ以後、全ての一元主義的思想建築物は疑いの目をのがれることはできなく なった。どこかに隠れた宝――われわれの病弊に対する最終的回答――があり、それに至る道があ るはずだ(それというのも、こうした答は原則として発見可能であるはずであるから)といっ た確実性の意識、それと違ったイメージを用いていえば、われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能であり(そのことはア・プリオリに保 証されているので)、全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためであるという信念、こうした西欧政治思想の基 本的な信念は激しく動揺するに至った。確実性を求める時代にあって、『君主論』と『論考』 を説明しよう、あるいは釈明しようとする無限の試み――それはかつてよりも今日の方が多い―― が確かに見られるが、その理由はこれで十分説明されるであろう。  これはマキアヴェッリの所説に含まれる消極的な帰結である。しかし実は積極的帰結、マキ アヴェッリを驚かせ、恐らく不愉快にする積極的帰結も存在している。一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。こ うした確実性の意識こそ、熱狂主義、強制、迫害を正当化するのに与かって力のあるものの一 つである。しかももし全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならず、ある価値を選ぶのはそれがある単一の基準との関連でより 高次のものとされるからではなく、そのあるがままの姿の故であるとしよう。またある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結 果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかった(他の人々 は違った選択をするとしても)が故にこうした生き方を選ぶとしよう。合理性や計算が適用さ れうるのは手段や従属的目的についてであって、決して究極目的についてではない、としよ う。ここの現れてくるのは、人間にとって唯一の善があるという古い原理の下に構築された世 界とは全く違った世界である。  もしパズルの答えが一つだけしかないならば、そこで問題になるのは、第一にそれをどのよ うにして見い出し、次にどのような形で実現し、最後に説得や力によっていかに他の人々がそ の答えを信奉するようにするか、だけである。しかしもしパズルの答えが一つでないならば (マキアヴェッリは二つの生き方を対比したが、しかし狂信的一元主義者を除けば、二つ以上 の生き方があり得るし、かつあることは明らかである)、経験主義、多元主義、寛容、妥協へ の道が開かれる。寛容は歴史的に見て、同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ないことが意識された結果として生じた。生き延びよう と欲する人々は誤りを寛容しなければならないことを知った。彼らは徐々に多様性に価値を認 めるようになり、人間の世界の事柄について確定的な解決があるという立場に対して懐疑的と なった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『マキアヴェッリの独創性』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.81-83,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),佐々木毅 (訳))

バーリン選集1 思想と思想家 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2018年6月8日金曜日

欺瞞と狡猾への対処方法:(a)罠を見破る狐の賢さ、法による戦い、(b)狐の賢さの隠蔽、偽装、(c)必要な不履行の合法化、潤色、(d)獅子の力による実力行使。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

狐と獅子の喩え

【欺瞞と狡猾への対処方法:(a)罠を見破る狐の賢さ、法による戦い、(b)狐の賢さの隠蔽、偽装、(c)必要な不履行の合法化、潤色、(d)獅子の力による実力行使。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
(1) 現状の認識。
(1a) 人間がみな善良であるならば、信義を守り言行一致を宗とするがよい。この場合には、以下の勧告は善からぬものになるであろう。
(1b) 現実には、人間は邪悪な存在であり、信義など守らない。そして、信義などほとんど考えにも入れないで、狡猾に欺くすべを知る者たちが、誠意を宗とした者たちに、立ち勝ってきた。
(2) では、どうすればよいか。
(2a) 狐となって罠を悟る必要があり、法に拠り闘う。これは人間に固有の戦い方だ。
(2b) この際必要なのは、この狐の性質を巧みに潤色できることであり、偉大な偽装者にして隠蔽者たる方法を会得することである。人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者は、いつでも欺かれる者を見いだすであろう。
(2c) 慎重な人物ならば、信義の履行が危害をもたらしそうな場合や、その約束をさせられたときの理由が失われた場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。さらに、不履行を潤色するための合法的な理由を生み出すことにも、事欠かないであろう。
(2d) さらに、狐の方法は、非常にしばしば足りない。そこで、獅子の力に訴えねばならない。これは野獣のものだ。「君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが、必要になる。」
 「君主が信義を守り狡猾に立ちまわらずに言行一致を宗とするならば、いかに讃えられるべきか、それぐらいのことは誰にでもわかる。だがしかし、経験によって私たちの世に見てきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意を宗とした者たちに立ち勝ったのであった。
 あなた方は、したがって、闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。だが、第一のものでは非常にしばしば足りないがために、第二のものにも訴えねばならない。そこで君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが、必要になる。」(中略)「したがって、君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、なかでも、狐と獅子を範とすべきである。なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないがゆえに。したがって、狐となって罠を悟る必要があり、獅子となって狼を驚かす必要がある。単に獅子の立場にのみ身を置く者は、この事情を弁えないのである。そこで慎重な人物ならば、信義の履行が危害をもたらしそうな場合や、その約束をさせられたときの理由が失われた場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。また人間がみな善良であるならば、このような勧告は善からぬものになるであろう。だが、人間は邪悪な存在であり、あなたに信義など守るはずもないゆえ、あなたのほうだってまた彼らにそれを守る必要はないのだから。ましてや君主たる者には、不履行を潤色するための合法的な理由を生み出すことには事欠かなかったのだから。これに関してならば、現代の実例をも無数に挙げることができるであろうし、どれだけの和平が、どれだけの約束が、君主たちの不誠実によって、虚しく効力を失ってしまったかを、示すこともできるであろう。そして狐の業をより巧みに使いこなした者こそが、よりいっそうの成功を収めたのであった。だが、必要なのは、この狐の性質、これを巧みに潤色できることであり、偉大な偽装者にして隠蔽者たる方法を会得することである。また人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者は、いつでも欺かれる者を見いだすであろう。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第18章 どのようにして君主は信義を守るべきか、pp.131-133、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:狐と獅子の喩え)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

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2018年6月6日水曜日

自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

自らの軍備の必要性

【自己の軍備に基礎を置かない政体は、不確か不安定で、運命に翻弄されるだろう。特に強大な外国の軍備に頼ることは危険である。そこには謀略が組み込まれており、常に他者の命令に屈することとなる。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
(1) 自己の軍備を持たなければ、いかなる政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。
(2) では、どのような軍備が最善か。賢明な君主はつねに外国の軍備に頼ることを避けて自軍に頼ってきた。そして、他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。
(3) なぜか。それは、自国の防衛のために、強大な勢力を持つ外国の軍備を呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらすからである。外国の軍備に頼ることは、傭兵軍よりもはるかに危険である。
(3.1) なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまう。
(3.2) 彼らが勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまう。すなわち、「この軍備のなかには謀略が組み込まれている」ものであり、「いついかなるときにも他者の命令に屈している」ものだから。
 「援軍というのは、役に立たない別の軍備であって、それは強大な勢力が軍備によってあなたを援助に来て防衛するように呼び入れられたときのものである。たとえば、ごく最近では、教皇ユリウスがそれをしたごとくに。教皇は、フェッラーラ攻略のさいに、傭兵軍がはかばかしい成果をあげないのを見て取るや、援軍の方策へ転じて、スペイン王フェッランドと同盟を結び、その麾下と軍隊によって援助してくれるように要請した。この種の軍備は、それ自体としては、役に立ち秀れたものであるが、これを呼び入れた者には、ほとんどつねに害をもたらす。なぜならば、彼らが敗北すれば、自分も滅亡してしまうし、勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまうから。」(中略)
 「したがって、勝てないことを望む者は、この種の軍備を役立ててみるがよい。なぜならばこれは傭兵軍よりもはるかに危険なものであるから。なぜならばこの軍備のなかには謀略が組み込まれているので、それらは一体化していて、いついかなるときにも他者の命令に屈しているから。」(中略)「要するに、傭兵軍において最も危険なのは無気力であり、援軍においてはそれが力量である。それゆえ賢明な君主はつねにこの軍備を避けて自軍に頼ってきた。そして他者の力で勝利するよりはむしろ自己の力で敗北することを望み、他者の軍備によって獲得した勝利などは真のものではないと判断していた。」(中略)
 「したがって、私の結論を述べるならば、自己の軍備を持たなければ、いかなる君主政体も安泰ではない。それどころか、逆境のさいに自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになってしまう。そして賢明な人間の抱く見解にして金言はつねに同じであった。すなわち「自己の戦力に基礎を置かない権力の名声ほど不確かで不安定なものはない」。そして自軍とは、臣民か市民かあなたの養成者たちから構成され、それ以外のすべては傭兵軍か援軍である。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第13章 援軍、混成軍、および自軍について、pp.101,202-203,106-107、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

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2018年6月2日土曜日

自分の力を頼りとして、いざというときには実力を行使できなければ、困難な仕事を成し遂げることはできない。(制度の改革に伴う困難の諸原因に関連して)(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

実力の行使

【自分の力を頼りとして、いざというときには実力を行使できなければ、困難な仕事を成し遂げることはできない。(制度の改革に伴う困難の諸原因に関連して)(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
 全く新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはない。このようなとき改革者は、自分の力を頼りとして自分の力で立っているのか、それとも他者の力に依存しているのか、すなわち、自分たちの事業の遂行に際していざというときには実力を行使できるのか、それとも単に「祈っているだけなのか」を、仔細に検討しておかなければならない。「軍備ある預言者はみな勝利したが、軍備なき預言者は滅びてきた。」
 改革に伴う困難の原因は、次のとおりである。
(1) 旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを、敵に回さなければならない。しかも彼らは、いついかなる時にも隙を窺って、徒党を組んで激しく襲ってくる。
(2) それに比べ、新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎない。
(2.1) 旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のため。
(2.2) 新しい事態が確かな形をとって姿を見せない限り、真実のものとは信じられない猜疑心のため。
(3) 人びとの意見は、本性において変わりやすい。すなわち、彼らに一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくのは困難である。
 「力量のみちを経て君主になった者たちには、君主政体の獲得に困難を伴うが、その維持は容易である。そして君主政体の獲得に伴った困難は、彼らの政権を確立し彼らの身の安全を確保するために新しい制度や施行方法を導入せざるを得なかったことから生じた。ここで考慮すべきは、みずから先頭に立って新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはないということである。なぜならば、新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを敵にまわさなければならないから、そして新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎないから。この生温さが出てくる原因は、ひとつには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、新しい事態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。ここから、いついかなる時にも隙を窺って敵対者たちが襲ってくるのに、そして徒党を組んで激しく立ち向かってくるのに、防御する味方の側の生温い態度が生じてくるのだ。その結果、彼らと共に、危機へ追い込まれてしまう。
 この部分をさらに論じようとするならば、したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、それとも他者の力に依存しているのかを、すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。第一の場合には、必ず弊害が生じて何事も達成できない。だが、自分の力を頼りとして、いざというとき実力を行使できるならば、その場合には、危機に瀕することは滅多にない。ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある預言者はみな勝利したが、軍備なき預言者は滅びてきた。なぜならば、いま述べたことのほかに、人民は本性において変わりやすいので、彼らに一つのことを説得するのは容易だが、彼らを説得した状態に留めておくのは困難であるから。それゆえ、彼らが信じなくなったときには、力づくで彼らを信じさせておく手段が整っていなければならない。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について、pp.46-47、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:実力の行使)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

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