2021年12月27日月曜日

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

国家に対抗する諸権利

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「バーク及び彼の現代における追従者達が論じているように、おそらく社会というものは、 決して急進的な改革によってではなく、漸進的な変化によってのみそれに最適の諸制度をうみ 出すであろう。しかし国家に対抗する諸権利は、もしそれらが承認されるならば、そう具合よ く社会に適合しないかもしれない諸制度を甘んじて受け容れるよう社会に要求する主張なので ある。権利の主張の中枢は、私が用いている非神話化された権利分析に基づいてさえ、個人に は社会全体の利益を犠牲にしても多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 もちろん多数派が快適であるためには少数派に若干の便宜を図ることが必要となろう。しか し、それは秩序維持に必要な範囲においてのみである。したがって、それは便宜といっても通 常は少数派の諸権利の承認には及ばないものである。  実際、権利が原理に対する訴えによってではなく歴史の一過程によって立証されうると示唆 することは、権利とは何かについて混乱に陥っているか、あるいはそのことについて何ら現実 的な関心を抱いていないかのいずれかであることを示すものである。権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.191,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

多数派に対抗する諸権利に関する決定

いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「私は、立法府及び他の民主的機関が、よりよい決定をなしうる能力をもつかどうかは別に して、憲法的決定を行う何らか特別の資格を有する、という第二の論証から検討を始めよう。 いかなる争点も少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正であるから、このような 資格の性質は明白である、と言う者がいるかもしれない。しかし、しばしば指摘されてきた通 り、そのように言うことは、多数派に対抗する諸権利に関する決定は公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない、という事実を無視している。立憲主義――個人的諸権利を保護するために 多数派が制約されなければならないという理論――は、すぐれた政治理論かもしれないし、そう でないかもしれない。しかし、合衆国はその理論を採択したのであり、多数派にそれ自身の利 益に関する事項の判断を委ねることは、首尾一貫せず不当だと思われる。したがって公正の諸 原理は、民主制からの論証を擁護するのではなく、それに反対することになると思われる。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.185,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の懐疑主義的理論

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.3.2.2)道徳的懐疑主義による司法的自制
 ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味である。
 例としてラーニド・ハンド裁判官の主張
 (i)道徳的諸権利に関する主張が、話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。
 (ii)もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、道徳的諸権利によって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。
 (iii)何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。 


(5.3.2.3)功利主義的懐疑による司法的自制
 我々がある行為を正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼすインパクトである。
(5.3.2.4)全体主義的懐疑による司法的自制
 この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。


「この種の国家に対する権利の可能性そのものに反論したいと思う懐疑主義者にとって、そ の論証は困難なものとなるであろう。私の考えでは、彼は次の三つの一般的立場の一つに依拠 しなければならない。  (a)彼は、ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味であると主張 する、より徹底した道徳的懐疑主義を表明することができよう。もしいかなる行為も道徳的に 誤りでないとすれば、ノース・キャロライナ州政府は、学童に白黒共学のためのバス通学をさ せることを拒んでも誤っているはずがないのである。  (b)彼は、ある断固たる形態の功利主義をとることもできよう。それは、我々がある行為を 正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼす インパクトであると考える。この理論の下では、たとえ強制バス通学が社会を全体として益す ることはないにせよ、それは道徳的に要求されうる、と言うことは首尾一貫しないことになる であろう。  (c)彼は、何らかの形態の全体主義理論を受け容れることもできよう。この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。  これら三つの根拠のいずれであれ、これを受け容れることのできる政治家はアメリカにはほ とんどいないであろう。」(中略)  「しかしながら、私は、何人もの実際上懐疑主義の根拠に基づいて司法的自制を支持する論 証を行わないであろう、と示唆したのではない。それどころか、最もよく知られた自制論者の 幾人かは、彼らの論証を全面的に懐疑主義的根拠の上に打ちたててきたのである。たとえば 1957年には、偉大な裁判官であるラーニド・ハンドがハーヴァード大学においてオリヴァ・ ウェンデル・ホウムズ講義を行なった。ハンドはサンタヤナに学び、ホウムズに師事した。そ して道徳における懐疑主義は彼の唯一の宗教であった。彼は司法的自制論を説き、最高裁が 「ブラウン」事件において公立学校の人種隔離を違法と宣言したのは不当であると述べた。彼 の語ったところによれば、道徳的諸権利に関する主張が話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、このような主張をなすことによって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。  民主制に対するこの単純な訴えは、もし懐疑主義的前提が受け容れられれば、成功を収め る。もちろん、もし人々が多数派に対していかなる権利も有しないとすれば、またもし政治的 決定が単に、誰の選好が優先すべきかという問題だとすれば、まさに民主制は、その決定を裁 判所より民主的な諸機関に委ねる――たとえこれらの諸機関が裁判官達自身の嫌悪する選択を行 う場合でもそうする――十分な理由を提供することになるでああろう。しかし、もし司法的自制 が懐疑主義ではなく敬譲に基づくのであれば、司法的自制を支持するためには、非常に異なっ た――はるかにより脆弱な――民主制からの論証が必要とされるのである。次に私はこの点を明ら かにしようと思う。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.181-182,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法積極主義と司法的自制

議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.1)司法積極主義 (judicial activism)の綱領
 裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ、 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。
(5.3.2)司法的自制(judicial restraint)の綱領
 たとえ他の統治部門の諸決定が、広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ。ただし、決定があまりにも 政治道徳に反しており、どのような解釈に基づいても憲法条項に違背するような場合は別である。

「更に、ひとたび問題がこの観点から語られるならば、我々は、「厳格解釈」の通念から生 じる混乱に陥ることなく、これらの競合する政策的主張を評価することができる。これらの目 的のために、私はいまや難解な、あるいは議論の余地ある憲法上の争点を裁判所はいかに決定 すべきかという問題に関する二つの非常に一般的な哲学を比較対照したいと思う。私はこれら 二つの哲学を、法学上の文献においてそれらに与えられている名前――「司法積極主義」 (judicial activism)と「司法的自制」(judicial restraint)の綱領――で呼ぶつも りである。もっとも、これらの名前が幾つかの点で誤解を招きやすいものであることは、やが て明らかになるであろうが。  司法積極主義の綱領は、私が言及した類いの競合する諸理由の存在にもかかわらず、裁判所 は、いわゆる漠然とした憲法条項の指示を、私が記述した精神において受け容れるべきだ、と 主張する。裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。(これは、司法積極主義の綱領をその最も強 い形態において表現するものである。実際にはこの綱領の支持者達は一般的に、若干の点にお いてその綱領を弱めているが、さしあたり私はこれらの点を無視しようと思う。)  これに反して司法的自制の綱領は、たとえ他の統治部門の諸決定が広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ、と主張する。ただし、これらの決定があまりにも 政治道徳に反しており、したがっていかなるもっともらしい解釈に基づいても当該条項に違背 するといわざるをえない場合、あるいは、ことによると反対の趣旨の判決が明瞭な先例によっ て要求されている場合は別である。(これもまた、司法的自制の綱領を純然たる形態において 表現したものである。この政策を信奉する者は、種々の点においてそれを緩和している。)」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.178-178,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


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