司法的自制の理論
仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
(a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
(b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
(c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。
(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
(a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
(b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
(c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。
「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。 第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。 自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。 これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))