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2020年6月15日月曜日

合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))

状況の3つの意味

【合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理性原理の3つの意味
 (1)客観的状況
  (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況である。
  (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。
  (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
 (2)行為者が認識する状況
  行為者が現実に見たものとしての状況である。
 (3)行為者が認識すべき状況
  行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況である。
 (4)仮想的な合理性原理
  行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
 (5)現実的な合理性原理
  行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
 (6)規範的な合理性原理
  (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきである。
  (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3)の違いを論ずることになろう。
  (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。
  (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すなわち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
 (7)現実的な人間行動
  われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。
 「公演の前の方で、わたくしは、人は自らの(その知識と技術も含めた)客観的状況に対して適切に行動するという見解として考えられた合理性原理に関心があった。つづく部分では、人は自分が見たものとしての状況に適切な仕方で行動するという見解に関心をはらっている。いまや「合理性」には(それゆえ「合理性原理」にも)少なくも三つの意味があるように思われる。どれも客観的であるが、行為者が行為している状況の客観性にかんしては違いがある。
 (1)《現実にそうであったものとしての状況》――歴史家が再構成しようとする客観的状況。
 この客観的状況の一部は、
 (2)《行為者が現実に見たものとしての状況》。
 しかし、(1)と(2)のあいだには第三の意味がある。
 (3)《行為者が、(客観的状況のなかで)そう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況》。
 これら三つの「状況」の意味に対応して「合理性原理」にも三つの意味があることは明らかである。さらに行為を理解するうえで、とりわけ歴史家が《失敗》を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(1)の意味とほかのふたつの意味の違いが一定の役割を演じるだろうことは明らかであり、(2)と(3)の違いも似たような役割を演じるだろう。強調されなければならないことだが、(2)と(3)は今度は、客観的状況(1)(の多かれ少なかれ洗練された分析)の一部を形成しているのである。しかも、もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。(そのような衝突は、精神分析学者によって、おそらく現実原則〔現実生活に適応するために、快楽などの原始的な本能的欲求を一時的、または永久に断念する自我の働き〕の失敗として記述されるだろうと思う。)(3)は、あるがままの状況のある側面を見るさいの難しさに対する評価を含んでいるかもしれない。
 この論文にかんしては、これらの定式化を使って、(1)と(3)については早い方の節で、そして(2)については終りの方の節で論じたと言われるかもしれない。わたくしの見解では、われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する――ことばをかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第8章 モデル、道具、真理,第13節「不合理な」行為,注19,pp.308-310,未来社(1998),ポパー哲学研究会,蔭山泰之(訳))
(索引:状況)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月14日日曜日

仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))

仮説的知識の客観性の本質

【仮説的推測的知識の客観性の本質は,推論を反駁し,テストで反証しようとする他者の存在である.また,科学と擬似科学を区別するのは理論の反証可能性である.自由な批判とテストによって誤りが除去されていく.(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)科学的知識の性質
 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものである。
 (1.1)科学的客観性を保証するもの
  科学的客観性は、その理論を反駁しようとする批判によって保証される。
 (1.2)科学者の友好的かつ敵対的協働
  客観性は、個々の科学者の客観性ないし公平無私によって保証されるのではなく、「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べる科学者の集団によってもたらされる。
 (1.3)科学における権威主義と批判的アプローチの対比
  科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていた。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついている。
(2)大胆な理論の提起
 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにある。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと、すなわち、新しい理論を大胆に提起する。
 (2.1)科学と擬似科学を区別する反証可能性
  理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにする。
 (2.2)ある出来事が生じないことを予言する理論
  ある特定の出来事が生じないであろうと予言する理論が、反証可能な理論である。あらゆる手段を講じて、その出来事を生じさせようと努めることが、テストになる。
 (2.3)テスト可能性の度合
  より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高い。
 (2.4)テストの厳しさの度合
  定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低い。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそう厳しいテストである。
(3)誤りを除去する批判的方法
 われわれが犯した誤りを系統的に探すこと、すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりする。
 (3.1)批判に対する辛抱強い反論の必要性
  科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が、辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことである。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからだ。
 (3.2)実験的テスト
  この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論がある。
 (3.3)実験は理論に導かれている
  実験は、つねに理論によって導かれている。

 「わたくしがこれまで述べてきたなかで、論争をひき起こしそうなことがらすべてを、いくつかのテーゼに言い換えて、わたくしの講演の前半部分のまとめとすることにしましょう。しかもそうしたテーゼをできるかぎり挑戦的な仕方で述べるつもりです。
1 あらゆる科学的知識は仮説的ないし推測的なものです。
2 知識の成長、とくに科学的知識の成長は、われわれの誤りから学ぶことにあります。まず、あえて誤りを犯すというリスクを冒すこと――すなわち、新しい理論を大胆に提起することです。次に、われわれが犯した誤りを系統的に探すこと――すなわち、われわれの理論を批判的に議論したり、批判的に検討したりすることです。
4 この批判的議論で用いられるもっとも重要な議論のなかには、実験的テストによる議論があります。
5 実験は、つねに理論によって導かれます。実験家が意識していないことはしばしばですが、理論的直感によって導かれます。実験上の誤りの可能な源泉についての仮説や、どのような実験が実り豊かだろうかということについての希望や推測によって導かれているのです。(《理論的》直感によってわたくしが意味するのは、ある種の実験は理論的に実り豊かだろうという推測のことです)。
6 科学的客観性と呼ばれるものは、もっぱら批判的アプローチにあります。もしあなたが自分のお気に入りの理論によって偏向しているならば、あなたの友人や同僚の誰か(あるいはそうでなければ、次の世代の研究者の誰か)があなたの仕事を批判しようとするだろう――もし可能ならばあなたのお気に入りの理論を反駁しようとするだろう――という事実にあります。
7 とすれば、自分自身で自分の理論を反駁するように努めるべきだということになります。すなわち、この事実はあなたになんらかの規律を課すでしょう。
8 これにもかかわらず、科学者が他のひとびとよりも「客観的」であると考えることは間違っているでしょう。客観性をかたちづくるのは、個々の科学者の客観性ないし公平無私ではなく、科学そのもの(「科学者の友好的かつ敵対的協働」とでも呼べるかもしれないもの、すなわち相互批判の用意が科学者同士にあること)です。
9 個々の科学者がドグマティックになったり、偏向したりすることを方法論的に正当化するようなものすら存在します。科学の方法は批判的議論の方法なので、批判の対象となっている理論が辛抱強く擁護されるべきだということもおおいに重要なことです。というのは、そのような仕方でのみ、理論のもつ真の力を知ることができるからです。そして批判が抵抗に対処するかぎりにおいてのみ、批判的議論のもつ十分な効力を学ぶことができるのです。
10 理論とか仮説とか推測が科学において果たす根本的な役割は、テスト可能(あるいは反証可能)な理論と、テスト可能ではない(あるいは反証可能ではない)理論とのあいだの区別を重要なものにすることです。
11 ある特定の考えうる出来事は実際には生じないであろうと主張したり、含意したりする理論のみがテスト可能です。テストというものは、その理論がわれわれに生じえないと告げているまさにそうした出来事を、われわれが召集しうるあらゆる手段を講じて生じさせようと努めることからなっています。
12 したがって、あらゆるテスト可能な理論は、ある一定の出来事の生起を禁止していると言えるかもしれません。経験的実在に制限を加えるかぎりにおいてのみ、理論は経験的実在について語っているのです。
13 あらゆるテスト可能な理論は、したがって、「しかじかのことは生じえない」というかたちで述べることができます。たとえば、熱力学の第二法則は、第二種の永久機関は存在しえないというように言い表わせます。
14 どんな理論も、原理的に経験的世界と衝突しえないかぎり、経験的世界について何も語ることはできません。そしてまさにこのことが、理論は反駁可能でなければならないということの意味です。
15 テスト可能性には度合があります。より多くのことを主張し、したがってより多くのリスクを冒している理論の方が、主張をあまりしていない理論よりテスト可能性の度合が高いことになります。
16 同様に、テストにもきびしさの度合をつけることができます。たとえば、定性的なテストは、一般的にいえば、定量的なテストよりきびしさの度合が低いといえます。また、より正確な定量的予測のテストの方が、正確さの劣る予測のテストよりもいっそうきびしいテストになります。
17 科学における権威主義は、科学上の理論を確立しようとする観念、すなわち理論を証明したり、実証したりしようとする観念と結びついていました。批判的アプローチは、科学上の推測をテストしようとする観念、すなわち推測を反駁したり、反証したりしようとする観念と結びついています。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第4章 科学――問題、目的、責任,pp.169-172,未来社(1998),ポパー哲学研究会,立花希一(訳))
(索引:仮説的知識,科学,仮説的知識の客観性)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))

より包括的な真理の探究

【帰結による合理的討論によっても,各自の原理の外へは出れないという反論に対する再反論.相手の原理を無視し自己強化するのでなく,自他の原理を超えた,より包括的な真理の探究という原理によって乗り越え可能である.(カール・ポパー(1902-1994))】

(2.3)(2.4)追記。

(1)フレームワークの神話
 合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))
 (1.1)独断論
  あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
 (1.2)共約不可能性
  前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
 (1.3)相対主義
  全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
 (2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
  フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可    ↓
結論1         結論2

 (2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
  科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?

 (2.3)反論
  「われわれに好ましく思える帰結」自体が、フレームワークの一部なのだから、フレームワークの外側に出ることはできない。
 (2.4)反論への回答
   原理1、結論1が自らの主張であるとして、結論1も結論2も満足できない場合、われわれは以下の二つの方法を選択することができる。
  (2.4.1)方法1:自らの原理を強化する
   自らの原理1を強化して、相手の原理、結論は課題に設定しない。
  (2.4.2)方法2:人間、社会、自然、宇宙の真の姿の理解
   人間、社会、自然、宇宙の真の姿を理解すること。これは、確かに、一つのフレームワークの選択であるかもしれない。しかし、自らの原理、結論とともに、相手が提示した原理、結論をも理解して、乗り越えようとする原理である。

《概念図》
原理1 原理2
 ↓   ↓
結論1 結論2
不満足 不満足

方法1
原理1’修正 原理2
 ↓      ↓
結論1’   結論2
満足     考慮外

方法2
より包括的な真理の探究
という原理 │
 ↓    ↓
原理1” 原理2”
 ↓    ↓
結論1” 結論2”
満足   満足

 「もちろん、フレームワークの神話の支持者はこの考え方を批判するであろう。たとえば、わたくしが批判の正しい方法と呼ぶものによっても、われわれは決してみずからのフレームワークの外に出ることはできない――なぜなら、「われわれに好ましく思える帰結」自体がわれわれのフレームワークの《一部》なのだからと主張するだろう。つまり、ここでわれわれが手にしているのは、フレームワークの批判的超越ではなく、単なる自己正当化のモデルにすぎない、という批判である。
 しかしわたくしはこの批判は誤りだと考える。われわれの見解をこのように解釈することは《できる》が、このように解釈《しなければならない》わけではない。われわれは目的や目標――たとえばわれわれが住み、われわれ自身がその一部でもある宇宙をよりよく理解するといった目的――を追求することを選択できる。この目的は、その達成のために産み出される個々の理論やフレームワークから自立したものである。そしてわれわれは、目標を達成するのに役立ち、どの理論やフレームワークも満たすのが容易では《ない》ような説明の基準や方法論的規則の設定を選択できる。もちろんわれわれは、このようなことをしないという選択もできる。われわれの見解を自己強化することを決定することもできるのである。つまり、われわれの現在の見解が達成できるとわかっている課題以外は設定しないようにすることもできるのである。このような選択が可能であることは確かである。しかし、このような選択をすれば、われわれはみずからが誤っていることを学ぶ機会に背を向けるのみならず、われわれをこんにちのようなわれわれにし、知による自己解放という希望を提供する(古代ギリシャに由来し、また文化衝突から生じた)批判的思考の伝統にも背を向けることになるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.117-118,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:より包括的な真理の探究)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年6月11日木曜日

合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))

フレームワークの神話

【合理的討論の前提には無条件的な原理があり(独断論),原理自体は討論の対象外で(共約不可能性),全て同等の資格を持つ(相対主義).これは誤りである.原理は常に誤謬の可能性があり,その論理的帰結によって合理的討論ができる.(カール・ポパー(1902-1994))】

(1)フレームワークの神話
 (1.1)独断論
  あらゆる合理的討論は何らかの原理、もしくはしばしば公理と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない。
 (1.2)共約不可能性
  前提にした原理や公理自体は、合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえない。
 (1.3)相対主義
  全てのフレームワークは、優劣において同等の資格を持つ。
(2)フレームワークの神話の誤り
 (2.1)フレームワークの神話の暗黙の前提
  フレームワークの神話には、暗黙の仮定が存在する。それは、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴を持たねばならないという仮定である。
《概念図》
原理1 ←互いに対立→ 原理2
 ↓   討論不可    ↓
結論1         結論2

 (2.2)原理や公理は科学における合理的討論の対象
  科学における合理的討論は、原理や公理の論理的帰結が、すべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
《概念図》
原理1 原理2 ……つねに誤りの可能性がある
 ↓   ↓
結論1 結論2 ……結論が受け入れられるか?

併せて考察せよ:事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

 「フレームワークの神話は、《根本的な》ことがらについての合理的な討論はできない、あるいは《原理》についての合理的な討論は不可能だという教義と明らかに同じものである。
 この教義は論理的には、次のような誤った見解から生じている。すなわち、あらゆる合理的討論はなんらかの《原理》、もしくはしばしば《公理》と呼ばれるものから出発せねばならず、また無限背進――原理や公理の妥当性を合理的に討論するさい、われわれは再び原理や公理に訴えねばならないという主張にみられるような背進――を避けようと望むならば、こういった原理や公理を独断的に受け入れねばならない、という見解である。
 通常、こういった状況を経験したことがある人は、原理または公理からなるフレームワークの真理性を独断的に主張するか、相対主義者になる。つまり、異なるフレームワークが存在し、それらの間の合理的討論は不可能であり、したがって合理的選択もありえないと言うのである。
 しかしこれは誤りである。というのはこの見解の背後には、合理的討論は正当化や証明、論証、あるいは是認された前提からの論理的導出といった特徴をもたねばならないという暗黙の仮定が存在するからである。しかし自然科学においておこなわれている種類の討論は、われわれ哲学者に別の種類の合理的討論が存在することを教えてくれたと言えるかもしれない。それは批判的討論であり、そこでは、とりわけなんらかの高次の前提から導出することによって、ある理論を証明したり正当化したり確立したりしようとすることはなく、論議の対象である理論を、その《論理的帰結》がすべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
 それゆえわれわれは、《批判の誤った方法と正しい方法》とを論理的に区別することができる。《誤った方法》は、われわれがどうすればテーゼや理論を確立あるいは正当化できるかという問いから始める。これによって、独断論か無現背進、あるいは合理的には共約不可能なフレームワークという相対主義的教義のいずれかに導かれるのである。これと対照的に、批判的討論の《正しい》方法は、テーゼや理論の《帰結》は何か、そしてその帰結は受け入れることができるものかどうかという問いから始めるのである。
 したがってこの方法は、異なった理論(あるいはお望みなら、異なったフレームワーク)の帰結を比較することにかかっている。この方法は、相争っている理論、もしくはフレームワークのどちらがわれわれに選択可能な帰結を生むかを調べようと試みるのである。それゆえ、この方法はわれわれのあらゆる理論をより良いものに取り替えようと試みるが、われわれの方法すべてがもつ可謬性を自覚している。明らかにこれは困難な課題であるが、決して不可能なことではないのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第2章 フレームワークの神話,pp.116-117,未来社(1998),ポパー哲学研究会,小林傳司(訳))
(索引:フレームワークの神話)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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