2022年1月9日日曜日

財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治理論の類型

財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)自由主義(リバータリアニズム)
 人々には一定の仕方で 正当に獲得したあらゆる財産に対する「自然」権が認められており、政府が人々を平等な存在 として取り扱っていると言えるのは、このような財産の保持と享受を当の政府が擁護している ときである。

(2)福利に基礎を置く諸観念
 (a)財産に対するいかなる自然権をも否定 し、この代わりに、政府は諸個人の幸福や福利に関する何らかの特定化された関数により想定された結果を実現するように財産を生産し分配し規制しなければならない。
 (2.1)功利主義
 (2.2)福利の平等論
 (2.3)実質的平等論
 (2.4)資源の平等論
 (b)福利の平等、実質的平等、功利主義はすべて、私的選択と公的責任とを両立し難いものとする。すなわち、これらの理論は、なぜ政府は福利や富の既存の分配を掻き乱すような私的決定を避けるよう、人々に要求する何らかの一般的な法原理を強制してはならないの か、という問題に答えることが難しくなる。


(2.1)功利主義
 政府が財産権の体制に関して人々を平等な存在として扱っていると言えるのは、各個人が幸福 ないし成功を同一の方法で計算することにより、大雑把なやり方であれ政府の採用するルール が平均的福利を可能なかぎり最大化することを保証している場合である。

(2.2)福利の平等論
 あらゆる市民の福利 が可能なかぎりほぼ平等となるように財産について計画し、これらを分配するように政府に対 して要求する。
(2.3)実質的平等理論
 効用の言語ではなく財や機会その他資源の言語で定義さ れた結果を政府が目標にするよう要求する。この種の理論のあるものは、 あらゆる市民の実質的な富を彼らの生涯を通じて可能なかぎり平等に近づけるように政府に対 して要請する。


(2.4)資源の平等論
 (a)資源の平等
  各人が好きなように消費したり投資するために入手可能な資源の分け前を平等にするよう政府に対し要請する。
 (b)自由な私的選択
  実 質的平等理論とは異なり、資源の平等は、各人が投資や消費について異なった選択を行うに応 じて人々の富も異なるべきであると考える。この理論の想定によれば、もし人々が全く同一の 富その他の資源を与えられた状態から出発するならば、平等は市場取引を通じて彼らの間で維 持されることになり、たとえこの市場取引を通じてある人々が他の人々より裕福になったり幸 福になったとしても問題とはされない。
 (c)能力の相違も資源の相違
  資源の平等は、人々の能力の相違が資源の相違 となることを認め、これを理由として、能力のない人々に対しては市場が彼らに与える以上の ものを何らかの仕方で補償しようと試みる。 



「平等に関する自由主義(リバータリアニズム)的諸観念によれば、人々には一定の仕方で 正当に獲得したあらゆる財産に対する「自然」権が認められており、政府が人々を平等な存在 として取り扱っていると言えるのは、このような財産の保持と享受を当の政府が擁護している ときである。これに対して福利に基礎を置く諸観念は財産に対するいかなる自然権をも否定 し、この代わりに、政府は諸個人の幸福や福利に関する何らかの特定化された関数により想定 された結果を実現するように財産を生産し分配し規制しなければならないと主張する。すぐ前 で議論された形態の功利主義は福利に基礎を置く平等観念の一つであり、この立場によれば、 政府が財産権の体制に関して人々を平等な存在として扱っていると言えるのは、各個人が幸福 ないし成功を同一の方法で計算することにより、大雑把なやり方であれ政府の採用するルール が平均的福利を可能なかぎり最大化することを保証している場合である。また「福利の平等」 論は、これと同じクラスに属するもう一つ別の理論であり、この立場は、あらゆる市民の福利 が可能なかぎりほぼ平等となるように財産について計画し、これらを分配するように政府に対 して要求する。  第三のグループに属する諸理論は、効用の言語ではなく財や機会その他資源の言語で定義さ れた結果を政府が目標にするよう要求する。この種の理論のあるもの――実質的平等理論――は、 あらゆる市民の実質的な富を彼らの生涯を通じて可能なかぎり平等に近づけるように政府に対 して要請する。また私が資源の平等とこれから呼ぼうとする別の理論は、各人が好きなように消費したり投資するために入手可能な資源の分け前を平等にするよう政府に対し要請する。実 質的平等理論とは異なり、資源の平等は、各人が投資や消費について異なった選択を行うに応 じて人々の富も異なるべきであると考える。この理論の想定によれば、もし人々が全く同一の 富その他の資源を与えられた状態から出発するならば、平等は市場取引を通じて彼らの間で維 持されることになり、たとえこの市場取引を通じてある人々が他の人々より裕福になったり幸 福になったとしても問題とはされない。しかし資源の平等は、人々の能力の相違が資源の相違 となることを認め、これを理由として、能力のない人々に対しては市場が彼らに与える以上の ものを何らかの仕方で補償しようと試みる。  さて我々は、平等に関するこれら周知の諸観念の間に新たな区別を設けねばならない。ある 平等観念は、人々が自らの財産利用に関して追求しうる私的な企図と次のような意味で衝突す ることになる。いま、政府が平等に関する前記の諸観念の各々に基づく実現可能な最善の財産 権の体制を構築することに成功し、各々の体制の下で各国民が自らに割り当てられた財産をど のような仕方であろうと自由に利用し交換することを認めたと想定しよう。そして、人々には 万人の利益に対して平等の関心を示すべき責任がないとする。この場合、上に挙げた平等観念 のすべてではなくそのうちのある観念は、体制が当初に保証していた平等の形態をおそらく掘 りくずしていくことになるだろう。このことは、福利の平等及び実質的平等の両者について不 可避的にあてはまる。ある市民は、自らの決定や取引を通じて他者よりも大なる福利を達成 し、あるいは自らの富により一層多くのものを付加するに至り、この結果、福利ないし富にお ける当初の平等は次第に失われていく。また、平等の功利主義的観念も同様に掘りくずされて いくことは、不可避的とは言えないまでも充分ありうることだあろう。驚くほど完全な技能と 知識を備えた政府であれば、人々が各自にとって利益となるような仕方で現実に行なう自由な 選択が実際に社会全体の平均的効用の極大化を実現していくような体制を構築できるかもしれ ない。しかし、人々の趣味とか嗜好が変化するときには、彼らの行なう選択が前記の結果をも たらすことはもはやなく、当初達成されていた功利主義的結果を回復させるためには、更なる 再分配や従来のものとは異なる規制的ルールによって体制を変革していくことが必要となるだ ろう。このような意味において前記の三つの理論――福利の平等、実質的平等そして功利主義―― はすべて、私的選択と公的責任とを両立し難いものとするのであり、従ってこれらの理論の支 持者たちは私が前に提起した問題、すなわち、なぜ政府は福利や富の既存の分配を掻き乱すよ うな私的決定を避けるよう人々に要求する何らかの一般的な法原理を強制してはならないの か、という問題に答えることが難しくなる。彼らがこの問題を解決できるとすれば、それは、 彼らの支持する平等の形態はこの種の法原理に依るよりはこれを用いないほうが一層永続的か つ確実に達成されうることを立証することによってのみ可能であるが、これはとてもありえそ うなこととは思えないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第8章 コモン・ロー,平等主義的解 釈,未来社(1995),pp.459-461,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

唯一の正しい解釈が存在するのか

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.3.4.3)唯一の正しい解釈が存在するのか
(a.1)純一性の原理で唯一の解釈に到達できるのか
 事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は、一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 

(b.1)本質的に、選択しかないのではないか
 解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆することは誤りである。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない。

(c.1)従って、単に自らの政治的判断ではないのか
 明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。

(d.1)在る法ではなく在るべき法ではないのか
 彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということに過ぎないのではないのか。

(d.2)現に存在する責務
 純一性の精神は、同胞関係の基礎を持つ。すなわち、総体的な政治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択することは、裁判官が自分の属する共同体から現に負っている責務である。
(c.2)選択は責務に従っている
 全体としてより公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ずる解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。すなわち、自らの恣意的な道徳理念を持ち込んで判断しているのではない。
(a.2)判断は、純一性が許容し要求するもの
 およそ判断は、選択には違いない。しかし、純一性の理念は明確でそれが許容する選択肢は、恣意的なものではない。また、より適正と判断するのは裁判官個人には違いない。しかし、彼は自分の属する共同体への連帯責務を基礎に判断しており、恣意的なものではない。



「第二の反論はもっと洗練されている。今度は批判者は次のように主張する。「情緒的損害 の諸事例の解釈として何らかの唯一の正しい解釈が存在するという想定は不合理である。我々 はこれらの事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 ハーキュリーズは明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。確かに、この種の状況において彼に はそのような仕方で法を宣言する以外に選択の余地はない。しかしこの場合、彼が自らの政治 的選択によって何が《法》であるかを発見したのだと主張することは詐欺である。彼は、何が 法であるべきかについて自分自身の意見を示しているにすぎないのである」と。  この反論は多くの読者にとって強力なものに見えるだろう。そして我々も、この反論が実際 に主張している以上のことを主張していると思わせることによって、当の反論の説得力を弱め ないように注意すべきである。この反論は、慣例主義の考え方を、つまり、慣例が尽きたとこ ろで裁判官は立法の正しい規準に従って自由に法を改善することができる、という考え方を復 権しようと試みているわけではないし、ましてやプラグマティズムの考え方を、すなわち、裁 判官は常に法を自由に改善することができ、ただ戦略上の考慮によって抑制されるにすぎな い、という考え方を復権しようと試みるわけでもない。この反論は、適合性のテストを通過し た複数の解釈のどれか一つを裁判官が選択しなければならないことを認めている。ただそれ は、このテストを通過する解釈が複数あるときは最善の解釈など存在しえないと主張する。こ の反論は、上で私が構成したようなかたちをとるかぎり、純一性としての法という一般的な観 念の内部からの反論であり、純一性としての法という観念を詐欺による腐敗から守ろうとして いるのである。  この反論は正鵠を射ているだろうか。ハーキュリーズが自分の判断を法についての判断とし て提示することがどうして詐欺になるのだろうか。ここでも再び、少々異なる二つの答えが―― 反論を更に具体的に展開する二つの方法が――ありうるだろう。これら二つを区別し、それぞれ につき考察を加えないかぎり、我々は前記の反論の正しさを保証することはできない。まずこ の反論をより具体的に展開する一つのやり方は、次のように述べることである。「ハーキュ リーズの主張が詐欺的である理由は、(5)と(6)の解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆するからで ある。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない」と。これは私が第2章で詳しく論じた道徳的懐疑論からの挑 戦である。この挑戦については今ここで更に何がしかのことを付言しないわけにはいかない が、このために私は新しい批判者を利用することにし、この批判者について独自の一節をもう けて道徳的懐疑論の挑戦を考察することにしたい。これに対して、前記の反論を更に具体的に 展開する第二のやり方は、懐疑論には依拠しない。それは次のように主張する。「たとえ道徳 が客観的なものであっても、そして、ハーキュリーズが最終的に採用した予見可能性の原理は 客観的により公正であり、正義に一層かなっているという彼の見解が正しいとしても、彼は詐 欺師である。彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということにすぎず、それゆえ彼は詐欺師なのである」と。私がここで考察しよう と思うのは、この第二のタイプの反論である。」(中略)  「我々は純一性の精神を同胞関係の中に位置づけた。しかし、ハーキュリーズが総体的な政 治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択する方法をとらずに、何か別の方法を用いて判 決を下すべきことになれば、この精神は踏みにじられてしまうだろう。我々は自分たちの政治 共同体原理の共同体として取り扱うことを欲しており、だからこそ純一性を一つの政治理念と して受容するのである。そして、原理の共同体の市民は、あたかも画一性が彼らの望むすべてであるかのごとく、単に共通の原理を目指しているのではなく、政治が見出しうる最善の共通 原理を目指すのである。純一性は正義と公正から区別されるが、次のような意味でこれら二つ の価値と結合している。つまり、純一性以外に公正と正義をも欲する人々の間でのみ純一性は 意味をもちうる、ということである。それゆえ、ハーキュリーズが全体としてより適正と信ず る――より公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ず る――解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。彼は、まさに純一性がそれを許容すると同時に要求するような時点と方法にお いて当の選択を行う。それゆえ、まさにこの時点において彼は純一性の理念を放棄したのだ、 という主張は深い誤解に基づいていることになる。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,幾つかの周 知の反論,未来社(1995),pp.403-405,407小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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