経済学の仮説は自明ではない
人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではなく、また、かつて物々交換経済のみが存在したというのは事実ではない。ほとんどの事物が贈り物として行き来し、人々が純粋な気前の良さを誇示し、最も多く与え手放すことを価値とするような社会も存在する。(マルセル・モース(1872-1950))
(a)経済学の仮説は事実ではない
「科学」を称する経済学が経済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだった。
(i)人間の動機は快楽、安逸、物資的所有への欲望のみではない
人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有、つまり自らにとっての 「効用」を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場の観点から分析することができるという仮説は、事実ではない。
(ii)最初に物々交換があったというのは事実ではない
公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明、信用売買、銀行業、 証券取引は、その論理的延長にすぎない。
(b)贈与経済の存在
(i)純粋な気前の良さを誇示
その社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何かを誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。
(ii)最も多く与え手放すこと
こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。
「もしもロシア――たぶんヨーロッパで貨幣化の度合いが最も低い国――においてさえ、単純に 法律によって市場を廃止してしまえるものではないのであれば、革命家たちは明らかに、この 「市場」なるものは一体何なのか、それはどこからやって来たのか、そしてそれに対する実行 可能なオルタナティヴはじっさいどのようなものでありうるのか、もっと真剣に考え始める必 要がある。
モースはそのように考えた。そのためには今こそ、歴史学と民俗学の研究成果を活 用しなければならない。 モースがそこから引き出した結論は驚くべきものだ。
まずは、「科学」を称する経済学が経 済史についてこれまで語ってきた事柄のほとんどすべてが、事実に反するものだったとされ る。
昔も今も、自由市場に熱狂する人びとが揃いも揃って想定しているのは、人間存在を突き 動かしているのは本質的に言って、自らの快楽、安逸、物資的所有(つまり自らにとっての 「効用」)を最大化しようとする欲望であり、だから意味のある人間的相互作用はみな、市場 の観点から分析することができる、ということだ。
公式の物語に従うなら、最初に物々交換が あった。人びとは、互いが欲しい物を直接交換するほかなかった。それでは不便なので、誰も が使える交換の媒体として貨幣が発明された。さらなる交換技術の発明(信用売買、銀行業、 証券取引)は、その論理的延長にすぎない。
モースがただちに指摘しているように、こうした物語の問題は、物々交換に基づく社会がこ れまでに実在したということを信じられるだけの理由はどこにもない、ということだった。
そ れどころか、人類学者たちは当時、物々交換とはまったく別の諸原理に基づいて経済活動を営 む諸社会を発見しつつあった。
それらの社会では、ほとんどの事物が贈り物として行き来し、 私たちが「経済」行動と呼ぶようなものはほとんどすべて、純粋な気前の良さを誇示し、何か を誰かに与えたのは誰なのかを厳密に計算に入れるようなことはしないという原則に基づいて いた。
こうした「贈与経済」は、時として高度に競争的なものとなりうる。けれどもその場 合、私たちの経済とは正確に反対のやり方でそうなるのだ。誰が最も蓄積することができたか を競うのではなく、勝利者は、最も多くを与え、手放した者だった。そのため、惜しみない与 えっぷりの劇的な競い合いが生じることもあった。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,【付録】惜しみ なく与えよ,pp.146-148,以文社(2020),片岡大右(訳))