政治理念としての純一性
正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
「実際には、この政治道徳の特別な要求は、同様の事例は同様に取り扱わなければならない といった標語ではうまく言い表わされていないのである。私はこれにもっと厳めしい呼び名を 与えたい。すなわち、それを政治的純一性(integrity)の徳と呼ぶことにする。私がこの呼 び名を選んだのは、これとパラレルな関係にある個人的な道徳理念と当該の政治的な徳との連 関を示すためである。我々は隣人たちと日常生活において様々な交渉をもつとき、我々が正し いと思う仕方で行動してくれるように彼らに対し要求する。しかし、行動の正しい原則につい て人々の間である程度まで見解の不一致が存在することを我々は知っており、それゆえ、我々 はこの要求を別の(もっと弱い)要求から区別するのである。後者の別の要求とは、人々は重 要な事柄においては純一性をもって――すなわち、気紛れやむら気な仕方ではなく、彼らの生活 の総体に浸透し、これに形を与えるような信念に従って――行動しなければならない、というも のである。正義について人々の見解が異なることを知っている者たちの間で後者の要求が有す る実践的重要性は明白である。そして我々が、道徳的な行為者として理解された国家や共同体 に対して同じ要求をするとき、すなわち、正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなけ ればならないと我々が主張するときに、純一性は一つの政治理念となるのである。個人の場合と政治の場合の双方において我々は、公正さや正義や礼儀正しさに関する何らかの特定の観念 を外的に表現するものとして他人の行為を認めうること、そして、我々自身は当の観念を是認 しなくても他人の行為をそのようなものとして我々が認めうることを想定している。我々のこ のような能力は、他人を尊敬の念をもって扱う我々のより一般的な能力の重要な一部分であ り、それゆえ、文明の欠くべからざる条件なのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),p.265,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン (1931-2013) |