2022年1月30日日曜日

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

物質的条件の総和が歴史の推進力

歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。人々はその物質的困苦 のゆえに、非物質的理想世界を発明し、その中に慰めを求 め、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))













(a)物質的条件の総和が歴史な推進力
 歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして、現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ。
(b) 非物質的理想世界を発明し崇拝する
 人々はその物質的困苦 のゆえに、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 め、正義、調和、秩序、善性、統一、永遠を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換する。


「フォイエルバッハの次の一歩は、歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総 和であり、これこそが所与の時代に生きる人間をして現に彼らがやっているように思考し行動 するよう決定しているのだ、と言明することにあった。しかしながら、人々はその物質的困苦 のゆえに、無意識のうちにではあるが、自分たちが発明した非物質的理想世界の中に慰めを求 めようとする。そしてこのなかで、地上の生活における不幸の代償として、来世の永遠の祝福 を享受しようとするのである。彼らがこの世で持たないすべてのもの――正義、調和、秩序、善 性、統一、永遠――を超越的世界の超越的属性に変え、それのみを現実的なるものと呼び、崇拝 の対象へと転換するのである。この幻想を暴露するためには、心理的に幻想を生みだすもとに なる物質的適応不全の観点からこの幻想を分析することが必要となる。」

 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.84-85,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))

「時代の精神」への疑問

時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。従って、精神が人々に作用すると述べることは、空虚な同義反復ではないか。(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804-1872))












(a)変化を惹き起こすものは、諸個人の決意と行動なのではないのか。
(b)無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて、全体的帰結がいかにして出現してくるのか。

(c)人々に作用する時代の精神(ヘーゲル)
 同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている。

 (d)時代の精神は要約的名辞にすぎない(フォイエルバッハ)
「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ。

「同一時期のある文化に属する人々の思想や行動は、その時期の全現象の中に具現する同一 精神がそれらの人々のなかに作用することによって決定されている、とヘーゲルは主張した。 フォイエルバッハはこれを激しく拒否して次のような問を発した。「時代の精神あるいは文化 の精神とは何か。それは時代ないし文化を構成する現象の総体を指す要約的名辞にすぎないの ではないか。」それゆえ、現象の総体によって決定されていると主張することと同じことにな る。これは一個の空虚な同義反復にすぎぬ、と。  彼はさらに次のように指摘する。この現象の総体を範型という概念に代置してみたところ で、一歩の前進もみられない。なぜなら範型は事象を生みだす原因になりえないからである。 範型は事象の形式であり、事象の属性であって、事象それ自体は他の事象によってしか生み出 されえないのである。ギリシャ的天才、ローマ的美徳、ルネサンスの精神、フランス革命の精神といったものは、一個の抽象概念にすぎぬ。それは、所与のものの特質全体や歴史的事象の 全体を要約的に記述する標号符牒であり、便宜的に発明された普遍名辞であって、いかなる意 味においてもこの世界の客観的実在物ではないから、人間的事象にあれこれの変化をもたらし うるものではない。古い考え方――変化を惹き起こすものは諸個人の決意と行動であるという昔 ながらの考え方の方が、基本的に不条理の度合いが低い。なぜなら、個人は少なくとも存在し 行為しているが、普遍的概念や共通名辞は存在せず行為しないからである、と。ヘーゲルはま さしくこういう古い考え方の不十分さを強調した。なぜならそれは、無数の個人の生活と行為 の相互交渉を通じて全体的帰結がいかにして出現してくるかということを、説明することがで きないからである。そこで、ヘーゲルは、これら諸個人の意志に一定の方向を与えるある共通 の力、すなわち、歴史を社会全体の進歩の体系的説明たらしめるある普遍的法則を探究するこ とになったのであり、その面で彼はその天才ぶりを発揮したのである。だが彼は最後まで合理 性を貫徹できず、最後には茫漠たる神秘主義に陥った。なぜなら、ヘーゲルの理念という概念 は、説明されるべきものの同義反復的再構成にすぎないというのは言いすぎであるとしても、 キリスト教的人格神の姿を変えたものにほかならず、それゆえ、理性的討論の圏外にまで引き 上げられてしまっているからである、と。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第4章 青年ヘーゲル派,pp.83-84,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

大集合准人格

ヘーゲルの真の重要性は、大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究を創設したことである。諸個人の行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴に結びつけることは、通俗的な影響であり、国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化は誤った適用である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a) 大集合准人格としての人為的諸制度の歴史的、批判的研究
 ヘーゲルの真の重要性は、社会的歴史的な研究分野の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。

(b)ヘーゲル的歴史観の通俗的な影響 
 諸個人あるいは彼らの行動を、特定の時代や地域、民族に特定の諸特徴を結びつけて記述する習慣がある。また、広く見られる社会的態度についてさえ、そのような理解の仕方をする場合がある。

(c)国家、民族、時代、歴史の非合理的な神話化
 この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。

(d)諸個人の意図の軽視
 諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至った。


「ヘーゲル的歴史観の影響  このような教説――かつては一世代全体の思想の変化の前兆であると同時にその変化の原因を 成したし、今や広く親しまれるものとなったこの教説が及ぼす影響は、測り知れないほどに大 きい。われわれには、特定の時代や地域に特定の諸特徴を結びつけたり、諸個人あるいは彼ら の行動を諸民族ないし諸時代を代表するものと見立てる習慣がある。さらにまた、一定の時代 や民族についてだけでなく、広く見られる社会的態度についてさえ、それら自身の、積極的起 動的な性質をもつ人間の人格に比すべきものを賦与して、それによって叙述する習慣がある。 例えば、諸行為をルネッサンス精神の現れだとか、フランス革命の精神の現れ、ドイツロマン 主義の精神の表現、ヴィクトリア朝時代の精神の表現だとか言うのである。こういった習慣 は、この新しい歴史主義的な物の見方から生じてきたものである。  ヘーゲルの独特な論理学の学説や自然科学の方法についての見解やは、不毛なものあり、概 して言えばその結果は有害であった。彼の真の重要性は、社会的歴史的な研究分野に及ぼした 影響力、新しい部門の創設に及ぼした影響力にある。創設された新しい部門とは、構成員たる 諸個人の次元からだけでは描きえない、大集合准人格 great collective quasi- personalities と見なされるべき、独自の生命と性格を有する人為的諸制度の歴史、および その制度にたいする批判である。この思想上の革命は、例えば国家、人種、歴史、時代といっ たものを超人格的な影響力の行使者として扱う、非合理的で危険な神話を培うに至った。しか し、この革命が人文諸科学に与えた影響は、非常に稔り豊かなものであった。ドイツには新し い歴史学派が生まれ、彼らの活動によって、諸事件をあれやこれやの国王ないしは政治家の性 格や意図の結果として、あるいは個人的な成功や失敗の結果として説明するすべての著述家 は、幼稚で非科学的であると見られるに至ったが、こういう風潮は右の思想革命の影響に負う ところ大なるものがあったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.57-58,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)

ヘーゲルの発展概念

化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げる。これは内的論理に従い、より高次元の統一へと無限に続く過程である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))














(a)対立と矛盾を契機とした不連続的変化
 化学変化、生命現象、二人の人の対話、政治的過程、科学の発展、芸術の開花、あらゆる人間の文化の展開は、対立と矛盾を契機として、新たな組織的なもの全般的なものへと、不連続的に変貌を遂げ、これは無限に続く過程である。
(b)止揚(Aufhebung)の原理
 常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決、止揚(Aufhebung)の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。
(c)内的論理の自己展開
 内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの である。絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進する。
(d)現実の自己認識としての思想
 思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは、自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。

「ヘーゲルの弁証法的発展概念  しかしながら、発展概念に関して、ヘーゲルにはライプニッツと鋭く食い違う点があった。 ライプニッツのい発展概念は、ある本質が可能性から現実性へと自己を展開する円滑な進歩と いうものであった。これに対してヘーゲルは、闘争と戦争と革命の、別言すれば世界の惨憺た る荒廃と破壊の現実性および必然性を主張したのである。彼は、フィヒテに従って、あらゆる 過程は対立する諸勢力間の必然的な緊張の過程であり、各勢力は互いに他に対して競い合いつ つ、この相互の闘争によって自己の発展を促進するのだ、と言明した。この闘争は時には蔭に 隠れて行われ、時には公然と表面化するのであるが、しかし意識的活動の全領域のうちに、敵 対する肉体的、道徳的、知性的諸態度および諸運動の間の衝突として検索されうるのである。 そして闘争するそれぞれの勢力はいずれも、われこそは完全な解決をもたらすものなりと主張 するのであるが、いずれも一面的に偏っているために常に新たな危機を醸成するのである。こ の闘争は次第に強さと鋭さを増してゆき、公然たる衝突に転じ、闘争の当事者すべてを破砕し てしまう決定的激突において絶頂に達する。この時点において、これまでの連続的発展は断絶 し、新たな段階への突然の飛躍が生まれる。そしてこの新たな段階において、一群の諸勢力間 の新たな緊張が再開されることになる。  これらの飛躍のうちで十分に大きくまた際だった規模で発生するものが、政治的革命と呼ば れる。しかし、より小さな規模での飛躍は、例えば、芸術や科学において、生物学者が研究す る身体組織のなかにおいても、化学者が研究する原始的運動のなかにも、最後に一例を付加す れば二人の対立者の間で交わされる通常の議論のなかにもという具合に、あらゆる活動領域に おいて生ずるのである。そしてこの場合、それぞれの部分的な誤謬をもつものの間の闘争に よって新しい真理が発見されるのであるが、その新しい真理そのものが相対的なものにすぎ ず、別の敵対する真理によって攻撃を受けることになり、もう一度新しい段階で相互破壊が行 われる。そこにおいて対立する契機は新たな組織的なもの全般的なものへと変貌を遂げること になる――これはまさしく無限に続く過程なのである。ヘーゲルが、弁証法的過程と呼んだの が、この過程である。この闘争と緊張の概念こそが、歴史のなかの運動を説明するものとして 求められたあの動態的原理を正に成立せしめるものなのである。  思想とは、自己自身を意識するに至った現実に他ならないのであり、この現実が自己を意識 する過程とは自然が最も明瞭な形態をとって現れる過程に他ならない。常により高次元の統一へと向かう包摂・吸収と分解・解決――これをヘーゲルは止揚(Aufhebung)と名づけた――の 原理は、さまざまな思想においても自然においても見られるものである。またこの原理に即し て考えると、その辿る過程は、唯物論が前提している機械的運動のような無目的のものではな く、内的論理を有していてそれに沿ってますます大きな規模での自己実現を目指して進むもの であることは、明らかである。主要な過渡期はいずれも、大規模な革命的な飛躍、例えばキリ スト教の発生、蛮族によるローマの破滅、フランス大革命とナポレオン的新世界というような ものによって画されるのである。それぞれのばあいに、絶対精神ないし普遍理念は完全な自己 認識へと一歩近づき、人類は一段階前進するわけである。だが、その前進の方向は、それを準 備した闘争に関与するいずれの側によっても予想されえなかったものであり、それだけに、自 らの努力によって世界を形成することができるのだ、そういう特別の才能を有しているのだと 確信していた側に、ますます深刻な、理由の不明な絶望感を残すことになるのだ。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス――その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.59-61,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

理念、精神の表現としての時代

個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))

















(a)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
 個人の人格的特徴、その思想および嗜好における意図・論理・性質が、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体に表現されている。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的精神的活動を、その外界への現れを通してより良く理解できる。
(b)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
 ヘーゲルは、理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称で、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因であると断言したのである。  
(c) 文化は時代的個性全体の表現
 これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさまざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある。一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現である。



「それぞれの時代は、何らかの新しいものをその前の時代から引き継ぎ付け加えるのであっ て、それゆえに先行するどの時代とも異なる面を含むことになる。こうして発展に関する原理 は、ガリレオやニュートンが依拠している画一的な反復に関する原理とは相異なったものにな る。もし歴史が法則を有するとするならば、それはこれまで科学的法則の唯一可能な範型とし て通用してきたものとは、明らかに種類を異にするに違いない。しかも現に在るものはすべて 時間的に持続しているものであり、何らかの歴史をもっているものである――まさにこのような 理由のゆえに、歴史の法則は、現存するあらゆるものの存在の法則と同一であるに相違いな い。  では、この歴史的運動を律する原理をどこに求めるべきであろうか。この動態的原理を、か の経験論者たちが嘲笑の的とした悪名高きもの、つまり人間が探究しえない神秘的超自然的な 力に求めるというのでは、人間の怠慢と理性の敗北を告白するに等しいことになる。われわれ にとって最も目に見え易く心に浮かび易いもの、他のいかなる経験にもましてわれわれが熟知 しているものが、人間の通常の生活を支配しているというのでなければ、不自然ということに なる。そこで、われわれは、自分自身の生活を、宇宙を映しだす小宇宙、宇宙の雛形であると 考えさえすればよい。われわれは人間の行動と思想を説明するものとして、その人の生活につ いて、気質について、意図や動機や目的についてよく語るが、その際、それらを、その人の行 動や思想から全く切り離された独立の事項としてではなく、その人の行動や思想を表現する通 常の形態として語るのである。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的 精神的活動をその外界への現れを通してより良く理解できると言って大過ないだろう。ヘーゲ ルは、個人の人格的特徴という概念、その思想および嗜好における意図・論理・性質を巡る概 念、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体についての概念を、文化と民族との 全体に関わる事柄に振り向けたのである。彼は、それに場合に応じて理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称を与え、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因である と断言したのである。  ヘーゲルは、さらに歩を進める。これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさ まざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある、例えばある時代の 戦争をその時代の芸術から切り離して考え、ある時代の哲学をその時代の日常生活から分離し て考えるところにある、と説いた。当然のことであるが、われわれは個々人について考える時 には、この種の分離して考えるという方法はとらない。よく知っている人々の場合、われわれ は半ば無意識のうちに、その人々の全行動を、一連の目的意識的行為が異なった現れ方をした ものとして、相関連させて把握しようとする。彼らの生涯の事績のあれこれの局面から抽出さ れた無数の判断材料を統合して、彼らについてのわれわれの心像が形成されるのである。ヘー ゲルによれば、このような方法が、文化について、あるいは特定の歴史時代について考える場 合にも同様に適用されるのである。過去の歴史家はあれこれの都市や戦争の歴史、あれこれでの 国王や武将の行動の歴史を描く時、それらの事柄が当時の他の諸現象から孤立隔在して単独で 動いていたかの如く著述する傾向があった。しかし、ある個人の行為が個人全体の行為の反映 であるのと同様に、一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現であり、遭遇するものすべてを理解しか つ支配すること――すなわち完全な自己統制、ヘーゲル的意味での自由――を求める探究的存在と しての人間の特定の局面の表現なのである。われわれは、ある現象について、それが現代世界 よりは古代世界に典型的であるとか、安定した平和の時代よりは混沌の時代を代表するとか言 うことがあるが、その際われわれは、全体像を表現するものとしてのある時代の一元的性格の 存在を、暗黙のうちに承認しているのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス──その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.54-56,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





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