理念、精神の表現としての時代
個人の生涯の行為と経験の総体が、個人の人格的特徴、思想、嗜好、意図、論理、性質の表現であるのと同じく、宇宙全体、人類、民族の特定の時代も、理念、精神の表現である。(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831))
(a)個人の人格、思想、性質の表現としての行為と経験
個人の人格的特徴、その思想および嗜好における意図・論理・性質が、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体に表現されている。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的精神的活動を、その外界への現れを通してより良く理解できる。
(b)宇宙全体、人類、民族の特定の時代も理念、精神の表現である
ヘーゲルは、理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称で、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因であると断言したのである。
(c) 文化は時代的個性全体の表現
これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさまざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある。一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現である。
「それぞれの時代は、何らかの新しいものをその前の時代から引き継ぎ付け加えるのであっ て、それゆえに先行するどの時代とも異なる面を含むことになる。こうして発展に関する原理 は、ガリレオやニュートンが依拠している画一的な反復に関する原理とは相異なったものにな る。もし歴史が法則を有するとするならば、それはこれまで科学的法則の唯一可能な範型とし て通用してきたものとは、明らかに種類を異にするに違いない。しかも現に在るものはすべて 時間的に持続しているものであり、何らかの歴史をもっているものである――まさにこのような 理由のゆえに、歴史の法則は、現存するあらゆるものの存在の法則と同一であるに相違いな い。 では、この歴史的運動を律する原理をどこに求めるべきであろうか。この動態的原理を、か の経験論者たちが嘲笑の的とした悪名高きもの、つまり人間が探究しえない神秘的超自然的な 力に求めるというのでは、人間の怠慢と理性の敗北を告白するに等しいことになる。われわれ にとって最も目に見え易く心に浮かび易いもの、他のいかなる経験にもましてわれわれが熟知 しているものが、人間の通常の生活を支配しているというのでなければ、不自然ということに なる。そこで、われわれは、自分自身の生活を、宇宙を映しだす小宇宙、宇宙の雛形であると 考えさえすればよい。われわれは人間の行動と思想を説明するものとして、その人の生活につ いて、気質について、意図や動機や目的についてよく語るが、その際、それらを、その人の行 動や思想から全く切り離された独立の事項としてではなく、その人の行動や思想を表現する通 常の形態として語るのである。かくて、ある人についてよく知れば知るほど、その人の道徳的 精神的活動をその外界への現れを通してより良く理解できると言って大過ないだろう。ヘーゲ ルは、個人の人格的特徴という概念、その思想および嗜好における意図・論理・性質を巡る概 念、その人の生涯を通じて展開される活動と経験との総体についての概念を、文化と民族との 全体に関わる事柄に振り向けたのである。彼は、それに場合に応じて理念Ideaあるいは精神 Spiritという呼称を与え、その進化の諸段階を検討して類別を設け、そしてそれを特定の民 族と文化との発展、さらには知覚力をもった宇宙全体の発展の原動力をなす動態的要因である と断言したのである。 ヘーゲルは、さらに歩を進める。これまでのすべての思想家の誤りは、ある特定の時代のさ まざまの活動領域をそれぞれ相対的に独立したものと考えるところにある、例えばある時代の 戦争をその時代の芸術から切り離して考え、ある時代の哲学をその時代の日常生活から分離し て考えるところにある、と説いた。当然のことであるが、われわれは個々人について考える時 には、この種の分離して考えるという方法はとらない。よく知っている人々の場合、われわれ は半ば無意識のうちに、その人々の全行動を、一連の目的意識的行為が異なった現れ方をした ものとして、相関連させて把握しようとする。彼らの生涯の事績のあれこれの局面から抽出さ れた無数の判断材料を統合して、彼らについてのわれわれの心像が形成されるのである。ヘー ゲルによれば、このような方法が、文化について、あるいは特定の歴史時代について考える場 合にも同様に適用されるのである。過去の歴史家はあれこれの都市や戦争の歴史、あれこれでの 国王や武将の行動の歴史を描く時、それらの事柄が当時の他の諸現象から孤立隔在して単独で 動いていたかの如く著述する傾向があった。しかし、ある個人の行為が個人全体の行為の反映 であるのと同様に、一時代の文化的諸現象やその諸現象を構成している特定の種類の諸事項 は、その時代全体の、またその時代的個性全体の表現であり、遭遇するものすべてを理解しか つ支配すること――すなわち完全な自己統制、ヘーゲル的意味での自由――を求める探究的存在と しての人間の特定の局面の表現なのである。われわれは、ある現象について、それが現代世界 よりは古代世界に典型的であるとか、安定した平和の時代よりは混沌の時代を代表するとか言 うことがあるが、その際われわれは、全体像を表現するものとしてのある時代の一元的性格の 存在を、暗黙のうちに承認しているのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『カール・マルクス──その生涯と環境』,日本語書籍 名『人間マルクス』,第3章 絶対精神の哲学,II,pp.54-56,サイエンス社(1984),福留久大 (訳))
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アイザイア・バーリン (1909-1997) |