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2020年5月30日土曜日

13.社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法:(a)教育,官公庁,マスコミへの影響力の活用(b)社会的距離,社会的に構築されたカテゴリーの活用(c)研究機関と宣伝,広告を活用した思想の売り込み(d)経済学を通じた影響(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法

【社会的認識,思想,信念を自分たちに有利な方向に形成する方法:(a)教育,官公庁,マスコミへの影響力の活用(b)社会的距離,社会的に構築されたカテゴリーの活用(c)研究機関と宣伝,広告を活用した思想の売り込み(d)経済学を通じた影響(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(3)社会的認識、思想、信念を、自分たちに有利な方向に形成する方法
 (3.1)教育、官公庁、マスコミへの影響力の活用
  もしひとつのグループが、教育の機会あるいは官公庁やマスコミへのアクセスの点できわめて不利な立場に立たされていたら、“一般通念”が生まれる審議の場に対等の立場で参加することはできない。それゆえに生まれない思想もあれば、効果的に抑制される思想もあるだろう。
 (3.2)社会的距離、社会的に構築されたカテゴリーの活用
  (3.2.1)貧しい人々を、そのままにすること
   経済的機会に恵まれず、はるかに貧しいままであれば、ほかのグループとの人的交流が限られて、異なる文化を発展させる可能性が高い。貧しいグループを特別視する思想が、ほぼ確実に根づいて長く存在しつづける。
  (3.2.2)社会的カテゴリーを使うこと
   社会的に構築されたカテゴリーが持つ力は、社会的に構築されているようには見えないことから生じている。異なるカテゴリーに入れられた人々は、異なる行動をとるようになり、ひいては本質的に異なるように見えてしまうのである。
 (3.3)政策を下支えする思想は、一切の制限なく自由に市場で売り込むことができる
  (3.3.1)研究機関の活用
   十分な財源を持っている人々にとっては、有利な思想を形成するための道具、研究所やシンクタンクを使うことができる。
  (3.3.2)宣伝と広告の活用
   製品を売り込むときにゆがめられた情報を提供しても、さらには嘘をついても、心が痛まなかった企業が多い。
 (3.4)経済学が公正や平等の理念へ及ぼした影響
  もちろん、教育も信念や認識をつくり上げるし、おそらくそれは誰より経済学者にあてはまる。経済学の訓練が認識を形成するという証拠もある。そして、経済学者がだんだんと公共政策で果たすようになった役割を考えると、経済学者が持つ、何が公正かについての認識と、平等と効率性の兼ね合いについての見解は、本来の価値からすれば不釣り合いなほどに重視されてきたのかもしれない。

 「政策についての認識のつくられ方
 いま、社会の不平等をそのまま残したいと望む人々は、そういう不平等を受け入れやすくするような認識や信念の形成をもくろんでいる。

そういう人々は、その目的を遂げるための知識も道具も資産もインセンティブも持っている。たとえ過去に社会的認識を形成しようとする試みがすでに数多くなされていたとしても、現在はその手法がますます洗練されている。たとえば、そうしようとする人々は思想や好みを形成する方法についての知識を増やしている。思想が自分に有利な方向へ進化するのをただ祈りながら座して待つ必要はないのだ。

 上位1パーセントが社会の認識を形成できるという事実は、誰も思想の進化をコントロールできないという考えかたに、重大な警告を突きつける。

コントロールのしかたはいろいろある。ひとつは、教育とマスコミを利用する方法だ。もしひとつのグループが教育の機会あるいは官公庁やマスコミへのアクセスの点できわめて不利な立場に立たされていたら、“一般通念”が生まれる審議の場に対等の立場で参加することはできない。それゆえに生まれない思想もあれば、効果的に抑制される思想もあるだろう。

 ふたつめの方法は、社会的距離を生み出す方法だ。ひとつのグループがほかのグループと比べて、経済的機会に恵まれず、はるかに貧しいままであれば、ほかのグループとの人的交流が限られて、異なる文化を発展させる可能性が高い。

その場合、貧しいグループを特別視する思想が、ほぼ確実に根づいて長く存在しつづける。“認知の枠組み”について過去の著作で触れたように、このように社会的に構築されたカテゴリーが持つ力は、社会的に構築されているようには見えないことから生じている。異なるカテゴリーに入れられた人々は異なる行動をとるようになり、ひいては本質的に異なるように見えてしまうのである。


 最も重要なのは、もし品物を市場で売ることができるのなら、思想、特に政策を下支えする思想も市場で売ることができるという点だ。現代の市場取引は、認識を形成する技と科学を教えた。そして、じゅうぶんな財源を持っている人々(富裕層)にとっては、形成するための道具も存在している。

 製品を売り込むときにゆがめられた情報を提供しても――さらには嘘をついても――心が痛まなかった企業が多い。だからこそ、煙草会社は喫煙が健康に害をもたらすという科学的な証拠に疑いを投げかけることに成功したのだ。疑いの余地はないという証拠を自分たちが持っていたにもかかわらず。

 同じように〈エクソン〉は、地球温暖化の危険にかんする科学的証拠に疑いを投げかけたシンクタンクを支援することに、良心の呵責を感じているそぶりも見せなかった。公正広告法は、企業の行動をきびしく制限しようとするが、思想と政策を売り込むときには、そういう制限はいっさいない。

すでにいくつもの例を見てきた――アメリカは他国ほど平等ではないかもしれないが、機会の平等は他国より保障されているという主張や、大不況の根本的原因は、貧しい者への住宅供給を促進しようという政府の努力にあるという主張などだが、ほかの例も見てみよう。

 もちろん、教育も信念や認識をつくり上げるし、おそらくそれは誰より経済学者にあてはまる。公正さなどについての経済学者の認識が、社会に生きるほかの人々の認識とは著しく異なっているという証拠は、いまではかなりそろっている。

シカゴ学派の経済学者リチャード・ターラーは、一般の回答者のうち82パーセントが暴風雨のあとに除雪用シャベルの値段を上げるのは不当だと思っているのに対して、自分が教えているビジネススクールの学生でそう考えている者はたった24パーセントしかいないと報告している。

それはひとつには、経済学に魅力を感じる層が、全国民のうち公正さという観念にあまり重きを置かない人々だからだとも考えられる。

しかし、経済学の訓練が認識を形成するという証拠もある。そして、経済学者がだんだんと公共政策で果たすようになった役割を考えると、経済学者が持つ、何が公正かについての認識と、平等と効率性の兼ね合いについての見解は、本来の価値からすれば不釣り合いなほどに重視されてきたのかもしれない。

 保守派は認識を形成する際の教育の重要性を認めてきた。だからこそ、学校のカリキュラム設計に積極的に影響力を行使しようとしてきたし、より“経済的に洗練された”判断を下すための、つまり、世界を保守的経済学者の狭いレンズを通して見るようにするための、“教育”プログラムの制定に乗り出したのだ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.240-241,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:社会的認識,思想,信念,社会的距離,社会的カテゴリー,宣伝,広告,研究機関,経済学)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2020年5月7日木曜日

12.基礎的な思想、枠組み思考は、社会的構築物であり、諸個人の世界観と、政策決定の過程とを通じて深刻で現実的な影響を及ぼす。新たな状況や事実により変化し得るが、社会的背景が基盤にあるため、たいてい遅い。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

基礎的な思想、枠組み思考

【基礎的な思想、枠組み思考は、社会的構築物であり、諸個人の世界観と、政策決定の過程とを通じて深刻で現実的な影響を及ぼす。新たな状況や事実による変化し得るが、社会的背景が基盤にあるため、たいてい遅い。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(2)基礎的な思想、枠組み思考とは何か
 (2.1)思想は、社会的構築物である
  (a)社会的構築物
   思想や認識は、社会的構築物である。わたしがある信念を持ちたいと思うのは、ほかの人々が同じような信念を持っていることと関係している。
  (b)個人の思想が変わりにくい理由
   ほとんどの個人は、その証拠を自分で検証したりはしない。また、時間があったとしても、証拠を評価する能力をそなえている人はほとんどいない。
  (c)思想の社会的背景
   信念の社会的背景は決定的な意味を持つ。異なるグループのあいだに交流がほとんどなかったら、現実についての認識も異なってしまう。
 (2.2)思想は、現実的な影響を及ぼす
  (a)世界の見方への影響
   社会で築き上げられた思想と認識の一部は、私たちが世界を見るときにかける眼鏡のレンズとなる。
  (b)政策決定への影響
   これらの“思想”は、政策決定の過程を通じて、現実的な影響を及ぼし、その帰結が尾を引くこともある。
   参考: 公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))
 (2.3)思想の変化は、たいていゆっくり生じる
  (a)思想が、社会的構築物であることから、ほとんどの場合、社会的変化と信念の変化はゆっくりと生じる。
  (b)変化は理想の速度よりも遅く進むことが多い。そして、思想の変化が遅いことが、ときに社会の変化を遅くする要因のひとつになる。
 (2.4)思想の変化が生じるとき
  (a)ただし、知の分野や現実から別の流れが押し寄せて知的均衡を乱すと、状況が変わる。
  (b)なんらかの理由で、じゅうぶんな数の人が特定の考えかたに魅力を感じると、転換点が訪れるのかもしれない。

 「変化を起こす力を持つ思想もあるが、ほとんどの場合、社会的変化と信念の変化はゆっくりと生じる。ときには、思想と社会の変化の速さがずれてくる。信念と現実の相違がびっくりするほど大きいので、思想を――あるいは社会の変化を――再考せざるをえないときもある。

 変化は理想の速度よりも遅く進むことが多い。そして、思想の変化が遅いことが、ときに社会の変化を遅くする要因のひとつになる。

1776年の独立宣言で、すべての人間は平等に作られているという原則が明確に述べられたかもしれないが、アメリカがこの原則を取り入れた市民権法を制定するのは2世紀ほどあとのことであり、完全な平等はいまだに実現されていない。

 思想の変化が遅い理由のひとつは、思想や認識が社会的構築物だという点にある。わたしがある信念を持ちたいと思うのは、ほかの人々が同じような信念を持っていることと関係している。

国内や世界を旅すると、特定の思想――政府は必然的に非効率的だとか、政府が不況を引き起こしたとか、地球温暖化は捏造だとか――が一般通念になっているところもあれば、それとは正反対の思想が“真実”であると受け入れられているところもある。

ほとんどの個人はその証拠を自分で検証したりはしない。時間があったとしても、地球温暖化にかんする証拠を評価する能力をそなえている人はほとんどいないからだ。

しかし、自分たちが会話を交わし、信頼している他人が同じ信念を持っていれば、自分たちは正しいという確信が強まるだろう。

 このように社会で築き上げられた思想と認識の一部は、わたしたちが世界を見るときにかける眼鏡のレンズとなる。人種や身分などのカテゴリーが問題となる社会もあれば、ならない社会もある。しかし、すでに触れたように、これらの“思想”には現実の帰結が伴い、その帰結が尾を引くこともある。

 ある科学者たちが特定の信念に“はまってしまう”ことがあり、そういう場合、各個人は、ほかのじゅうぶんな数の科学者が信念を変えた場合にだけ信念を変える。しかし、大体は、自分以外の全員が信念を変えないかぎり、その特定の信念にはまったままだろう。

 信念と認識は社会的構築物であるという考えは、社会的信念がときにはかなりすばやく変化することを理解するのにも役立つ。なんらかの理由で、じゅうぶんな数の人が特定の考えかたに魅力を感じると、転換点が訪れるのかもしれない。その思想は新しい一般通念となる。

その場合、たとえば人種によるちがいという考えが、証明すべき概念から論駁すべき概念に移行する。

あるいは、信念そのものになんらかのスイッチがあって、たとえば不平等は市場経済が機能するために必要だという考えが、現代アメリカの不平等のレベルはアメリカ経済と社会の機能をそこなっているという信念へと変化するかもしれない。

新しい思想は一般通念の一部となるが、ただし、知の分野や現実から別の流れが押し寄せて知的均衡を乱すと、状況が変わる。


 信念の社会的背景は決定的な意味を持つ。異なるグループのあいだに交流がほとんどなかったら、現実についての認識も異なってしまう。同じことは、合法性や不平等の大きさについての議論にも言える。

一部のグループ(豊かなグループも貧しいグループもふくまれる)では、豊かな人々は主にみずからの勤勉さによって富を獲得してきたのであって、他人の貢献や幸運はささいな役割を果たしているにすぎないと信じられている。

別のグループは、まったく正反対の信念を持っている。

もっともなことながら、これらのグループは税制政策についても異なる見解を持っている。もしある個人がいま持っているものは自分の努力のみによって得た成果だと信じていたら、その人はあまり努力しないことをみずから選んだと思われる他人と、自分の富を分かち合おうとは思わないだろう。逆に、もしある個人が、自分の成功は主に幸運のおかげだとみなしていたら、その幸運がもたらしてくれた財産を進んで分ち合おうとするだろう。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.238-240,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:基礎的な思想,枠組み思考,社会的構築物,世界観,政策決定,社会的背景)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

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2018年10月21日日曜日

14.思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

思想

【思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(再掲)(3.1)~(3.5)追記
意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
 (3.1)思想が私の念頭に浮ぶ。意識にとって、あらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をする。
  (3.1.1)一群の感情、欲求、反感によって取りまかれている。
  (3.1.2)一群の他の思想によって取りまかれている。
 (3.2)一切の思考には、ある多数の諸人格が関与しているように見える。
  (3.2.1)多義的な思想を純化し、それが何を意味しているのかが問われる。
  (3.2.2)それが何を意味してもよいのかが問われる。
  (3.2.3)それは正しいのか、それとも正しくないのかが問われる。
  (3.2.4)他の諸思想の助けを求め、その思想と比較される。
 (3.3)かくして、思想は解釈が試みられ、限定され、確定されて一義的となる。
 (3.4)これら一切が、急速に、しかも急ぎの感情なしでなされる。このとき私は確かに、事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
 (3.5)あらゆる感情に関しても事情は同様である。
  (3.5.1)内蔵の窮状、血圧、交感神経の病的な諸状態、不確実な不快感、苦痛が刺激剤となる。
  (3.5.2)私たちは、何らかの心的・道徳的な説明を探し求め、それを解釈する。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24

 「思想は、それが発生するさいの形態においては、それがついに一義的となるまで、解釈を、より正確には、或る任意の制限や限定を必要とする一つの多義的な記号である。

思想が私の念頭に浮ぶ―――どこから? 何によって? このことを私は知らない。

思想は、私の意志から独立的に、通常、一群の感情、欲求、反感によって、また一群の他の思想によって取りまかれ曖昧にされて発生し、かなりしばしば「意欲」あるいは「感情」の働きとほとんど区別されえない。

ひとは思想をこうした一群のもののうちから引き出し、それを純化し、それをひとり立ちさせて、いかにそれがそこに立っているか、いかにそれが歩むかを、見るのだが、これら一切はすばらしく急速に、それなのにまったく急ぎの感情なしでなされるのだ。

《何者が》これら一切をなすのか―――私はそれを知らず、そのさい私はたしかに、こうした事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。

次いでひとはその思想を裁く、ひとはこう問うのだ、「何をこの思想は意味するのか? 何をそれは意味してもよいのか? それは正しいのか、それとも正しくないのか?」と―――ひとは他の諸思想の助けを求め、その思想を比較する。

思考は、このように、ほとんど一種の公正な処置ないしは審理たるの実を示すのであり、そこには、裁く者、相手方がおり、そのうえ証人訊問さえもあるのであって、この証人訊問には私はいささか傾聴する必要がある―――もちろんただ《いささか》にすぎない。

私はたいていのことを聞き落とすように見える。

―――あらゆる思想は最初には多義的にぼんやりと発生し、それ自体としては解釈の試みや任意の確定のための誘因としてしか発生しないということ、一切の思考には或る多数の諸人格が関与しているように見えるということ―――、

これはそうやすやすとは観察できないことであって、私たちは、根本においては、これとは逆の訓練を、つまり、思考のさいに思考のことを思考しないという訓練を受けている。

思想の起原は隠されたままである。思想が或るずっと包括的な状態の徴候にすぎないということの蓋然性は、大きいのだ。

まさしく《この思想が》発生して他の思想が発生しないということ、この思想、多かれ少なかれまさしくこれだけの明るさをもって、ときとしては確実かつ高びしゃに、ときとしては弱々しく支えを必要として、総じてつねに刺激的に、物問いたげに発生するということ

―――つまり意識にとってあらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をするのだが―――、

こうした一切のことのうちに私たちの総体的状態の幾分かが記号というかたちで表現されているのだ。

―――あらゆる感情に関しても事情は同様であって、感情はそれ自体として何かを意味するのではない。

感情は、それが発生するとき、私たちによってまず解釈されるのであり、そしてしばしば《なんと奇妙に》解釈されることか! 

私たちにはほとんど「無意識的な」、内蔵の窮状のことを、下腹部における血圧の緊張のことを、交感神経の病的な諸状態のことを、まあ考えてみるがよい―――、かくて私たちが共通感官によってはそれについてほとんど一抹の意識をももっていないものが、なんと多くあることか! 

―――解剖学に精通している者だけが、そうした不確実な不快感のさいに、諸原因の正しい種類や《部位》を推量する。

しかし、その他のすべての者たちは、それゆえ、人間が存在するかぎり、総じてほとんどすべての人間たちは、そうしたたぐいの苦痛のさいに、なんらの身体的な説明をも探し求めないで、なんらかの心的・道徳的な説明を探し求め、そして身体の事実上の不調に或る《偽りの根拠づけ》をなすりつけるのだが、これは、彼らが、彼らのもろもろの不快適な経験や危惧の圏内で、このようにぐあいがよくないことのなんらかの根拠を取り出してくることによってなのだ。

拷問にかけられるとほとんどあらゆるひとがおのれに罪のあることを告白する。

その身体的な原因がわからない苦痛のさいには、そういう苦痛の拷問にかけられた者は、この者がおのれか他人たちかに《罪のあることを認める》までずっと、しかもそのようにきびしく審問的にみずから尋問する、

―――これは、たとえば、不合理な生活法に付き物のおのれの不機嫌を、習慣上道徳的に、つまりおのれ自身の良心の呵責と解釈した清教徒が行なったのと、同様のことだ。―――」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.119-121、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思想,感情)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月13日木曜日

7.快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

快と不快、感情、記憶

【快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)諸思想は、最も表面的なものである。
(2)快と不快は、諸本能によって規制された諸々の複雑な価値評価の結果である。
(3)愛着、反感等々の諸感情は、既に諸々の統一体が形成されていることの徴候である。私たちの「諸本能」は、記憶による諸体験の形成物である。
(4)記憶過程
 (4.1)個別的な事実として思い起こされ得る極く最近の諸体験は、まだ表面上を漂っている。
 (4.2)多くの諸事例から概念が形成されるときのような、強調と省略がある。
 (4.2)単純化、圧縮、対立(格闘)、相互形成、秩序付け、統一体への変形。

 「記憶に関して学びなおされなくてはならない。

記憶とは、生きいきとして、おのれを秩序づけ、相互に形成しあい、たがいに格闘しあい、単純化作用や、圧縮作用や、多くの統一体への変形作用を行なっているところの、すべての有機的な生命の一切の諸体験の群れなのだ。

概念が多くの諸事例から形成されるのと同様な事情にあるなんらかの内的な《過程》が、すなわち、根本図式を際立たせて常にあらたに強調し、副次的な諸特徴を省略するはたらきが、進行しているにちがいない。

―――或るものがまだ個別的な事実として思い起こされうるかぎり、そのものはまだ溶け込んではいない。ごく最近の諸体験はまだ表面上を漂っているのだ。

愛着、反感等々の諸感情は、すでにもろもろの統一体が形成されていることの徴候である。私たちの「諸本能」はそうして形成物なのだ。

諸思想は最も表面的なものであり、不可解な仕方で生じて現存しているもろもろの価値評価は、いっそう深いところに達している。快と不快は、諸本能によって規制されたもろもろの複雑な価値評価の結果である。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 三〇三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.172-173、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:快と不快,感情,記憶,価値評価,思想,本能)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月8日土曜日

4.意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

意識は無意識の徴候、記号

【意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24


 「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの終末である。

或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ! ―――あらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。

あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の情動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動一切の、―――それゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。

すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である。
「意志」―――一つの欺瞞的な具象化。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 二五〇、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.148-149、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:意識,無意識,思想,感情,意志,衝動)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年7月18日水曜日

命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

命題の意味が真理値であることの理由

【命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(a) 命題の意味とは、同じ意味を持つ語の置き換えでも変化しないようなものである。
(b) 命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題から失われるものがある。真理値(真偽)である。
(c) 命題の意味を、真理値(真偽)と考えれば、(a)が成立し、また(b)は次のようになる。
(b')命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題の意味が失われる。
また、
(d) 命題が意味を持つためには、命題を構成する全ての固有名が意味を持つ必要がある。

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味              =一つの対象

 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)


 「以上の考察においては、意義と意味を、我々が固有名と名づけたさまざまな表現、さまざまな語、さまざまな記号について考察してきた。さて次に我々は、主張文(Behauptungssatz)全体の意義と意味について問題にしたい。そのような文には、一つの思想(Gedanke)が含まれている。では、この思想というものは文の意義と見なされるべきであろうか、それとも文の意味と見なされるべきであろうか。さしあたって、文が意味をもつことを仮定しよう。さて、その文の中の一つの語を、それと同じ意味をもちながら意義は異なる別の語によって置き換えよう。この場合、このような操作は文の意味に対しては何の影響も与ええない。ところが、そのような場合、思想は変化するということを我々は知っている。なぜならば、例えば、「明けの明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想は、「宵の明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想と異なるからである。宵の明星が明けの明星であることを知らない人は、一方の思想を真として、他方の思想を偽とすることがありうる。したがって、思想は文の意味ではない。我々としては、むしろ、それを意義と見なすべきであろう。しかし、文の意味はいかなるものであろうか。そもそも、そのようなことを問題にする必要があるだろうか。ことによると、一つの文は全体として意義はもつが、意味はもたないということではないだろうか。少なくとも我々は、意義はもつが意味はもたない文成分(Satzteil)があるのと同様に、文全体についてもそのようなことが生ずるということを当然と考えることが可能である。そして、意味をもたない固有名をふくむ文はその種の文となるであろう。例えば、「オデュッセウスは深くねむったまま、イタカの砂浜におろし置かれた」は明らかに意義をもっているが、そこに現われる「オデュッセウス」という名が意味をもつかどうかは疑わしいので、この文が意味をもつかどうかということも同時に疑わしい。しかしながら、本気でその文を真であるとか、あるいは偽であると見なす人が「オデュッセウス」という名前に対して意義のみならず意味さえも認めているということを疑うことはできない。この名前の意味には、述語の成立の是非がかかっているからである。一つの意味を認めないひとは、それについて述語が成立するか否かということに関して語ることはできない。いずれにせよ、ここで名前の意味にまで拘泥することは余計なことであるかもしれない。なぜならば、思想の段階にとどまりたいかぎり、意義のみで十分であるからである。すなわち、文の意義、つまり思想だけが問題になっているのであれば、文成分の意味まで考慮する必要はないであろう。なぜならば、文の意義を考えるときには、文成分の意味ではなく、その意義のみが考察の対象となりうるからである。実際、「オデュッセウス」という名前が意味を持つか否かにかかわらず、その文の思想は同一のままである。いずれにせよ文成分の意味を求めて努力するということは、文そのものに対してもまた一般的に意味を認め、それを求めていることの証である。思想というものは、その思想の諸部分の一つが意味を欠いていると我々が知るときただちにその価値を失う。したがって、我々が文の意義に満足することなく、文の意味が何であるかを問題にするということは正当なことであろう。しかし、そもそも我々が固有名の一つ一つに意義のみならず意味もあるということをなぜ期待するのであろうか。なぜ思想だけでは満足しないのであろうか。それは、我々にとって思想の真理値が問題になるからであり、また、その限りにおいてである。しかし、真理値を常に問題にしているのではない。例えば、叙事詩に耳を傾けるとき、我々を動かすものは、言語の心持よい響きを別にすれば、文の意義とそれによって惹き起される表象と感情だけである。それに対して、真理を問題にするならば、芸術の楽しみを去って学問的考察へと向かうのである。これゆえに、例のホメロスの韻文を芸術作品として理解している限りは、例えば「オデュッセウス」という名が意味をもつか否かということはどうでもよいことですらある。したがって、真理の追求は常に我々が意義から意味へ進むことを促すものなのである。
 以上で見たように、構成部分の意味が問題になるときは、常に、文に対して意味が求められる。そして、このことは真理値を求めるときは常に、そしてそのときに限ってのことである。このように考えるならば、我々としては、文の真理値をその文の意味として認めざるをえなくなるであろう。文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。それ以外の真理値はない。簡単にするために私は、一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名づける。したがって、語の意味が問題となるすべての主張文は、固有名として理解すべきである。つまり、その意味は、それがあるとすれば真か偽かのいずれかであるということになる。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』32-34、フレーゲ著作集4、pp.78-80、土屋俊)
(索引:文の意義,思想,文の意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月13日金曜日

思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意義(思想)を把握すること

【思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象


(1) 私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが、表象であるのではない。
(2) 諸表象の担い手としての「私自身」も、それ自身が一つの表象ではない。
(3) 私以外の人間もまた、諸表象の担い手として存在する。もし、これが確実ではないとしたら、歴史学、義務論、法律、宗教、自然科学なども、存在しないことになろう。
(4) 記号の意義(思想)の世界は、私から独立のものとして存在する。
  (a) 外的世界
  (b) 表象の世界
  (c) 記号の意義(思想)の世界
 (4.1) 記号の意義は、外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象と似ている。
 (4.2) 我々と記号の意義との関係は、我々と表象との関係とは異なる。すなわち、記号の意義は単なる表象とは異なっている。表象に真偽の区別はないが、記号の意義(思想)には真偽の区別がある。
 (4.3) 記号の意義は、外的世界が感覚の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。すなわち、我々は記号の意義を作り出すのではない。また、真偽も我々から独立している。「事実とは真なる思想である」。従ってまた、真なる思想は、創造されるのではなくして、発見されるものであり、その発見とともに初めて成立し得るというよりも、むしろ「無時間的」に存在していると言える。
 (4.4) 記号の意義が我々に知られるのは、我々が感覚印象を通じて外的世界を知るのとは、異なっている。そこで、記号の意義を「把握する」と、表現することにする。「思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する」。

 「この最後の考察の成果として、私は次のことを確立する―――すなわち、私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが表象であるのではない。諸表象の担い手としての私自身は、それ自身が一つの表象ではない。さて私自身と同様、他の人間もまた、諸表象の担い手として承認することに、何の障害もない。また一旦この可能性が与えられれば、その確からしさは非常に大きいので、私の見解にとっては、それは確実性ともはや区別されないのである。そうでなければ、歴史学は存在するであろうか。そうでないなら、どの義務論もどの法律も無効となるのではないか。宗教については何が残ることになるのだろうか。自然科学もまた、占星術や錬金術に似た虚構としてしか評価されえないことになろう。かくて、同じものを私と共にその観察、その思考の対象としうるような人間が、私以外に存在するということを前提として、私の行なった考察は、本質的な点でその力を弱められることなく維持されるのである。
 必ずしもすべてが表象なのではない。そうなら私はまた、私同様他の人間も把握しうる思想を、私から独立のものとして承認することができる。私は多数の者がその研究に従事する一つの科学を承認することができる。我々は、我々が我々の表象の担い手であるような仕方で、思想の担い手であるわけではない。我々は一定の思想をもつが、例えば我々が感覚印象をもつような仕方においてではない。我々はしかしまた、我々が例えば一つの星を見るように、一つの思想を見るのではない。それ故、ここで特別の表現を選ぶように勧められてしかるべきであり、そうした表現として「把握する(fassen)」という語が提示される。思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する。思考に際し、我々は思想を造り出すのではなくて、我々はそれを把握するのである。というのは、私が思想と称したものは、真理と極めて密接な連関にあるからである。私が真と承認するもの、それについて私は、その真理性が私による承認とは全く独立に、また私がそれについて考えているかどうかということからもまた独立に真である、と判断するのである。思想が真であるためには、それが考えられるということは必要ではない。自然科学者は、彼が科学の確実な基礎づけの必要性を肝に銘じようとする場合に、「事実! 事実! 事実!」と叫ぶ。事実とは何か。事実とは真なる思想である。しかし科学の確実な基礎として、自然科学者は、人間の変転する意識状態に依存するようなものを、承認しないことは確かであろう。科学の仕事は、真なる思想の創造ではなくして、その発見に存する。天文学者は、はるかな過去の出来事の探究に際し、数学的真理を適用することが出来るが、その出来事は地球上で少なくともまだ誰も当の真理を認識していなかったときに成立していたのである。彼がこうしたことをなしうるのは、思想の真であることが、無時間的であるからである。かくて当の真理は、それの発見と共にはじめて成立しうるのではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』73-74、フレーゲ著作集4、pp.226-227、野本和幸)
(索引: 記号の意義(思想)の世界,把握)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月12日木曜日

記号の「意義」は、世代から世代へと引き継いできた人類の共通の蓄積である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の「意義」の実在性

【記号の「意義」は、世代から世代へと引き継いできた人類の共通の蓄積である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 「意義は多数の人の共有物でありうるゆえに、諸個人の魂の部分であったりその様態であったりすることができないのである。なぜならば、世代から世代へと承け継いできた思想の共通の蓄積を人類が持っているということをおよそ否定することはできないからである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』29、フレーゲ著作集4、p.75、土屋俊)
(索引:記号の「意義」の実在性)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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