2018年8月12日日曜日

02.無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

意識と、無数の潜在的な情報

【無数の潜在的な知覚情報と記憶から、まず気づきの外で情報選択がなされ、注意によってある項目が意識にのぼる。特定の一時点においては、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

(4)ある項目が意識にのぼり、心がそれを利用できるようになる。私たちは基本的に、特定の一時点をとりあげれば、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない。それらは、言語システムや、その他の記憶、注意、意図、計画に関するプロセスの対象として利用可能になる。そして、私たちの行動を導く。
 ↑
(3)意識は能力が限られているため、新たな項目にアクセスするには、それまでとらえていた項目から撤退しなければならない。新たな項目は、前意識(preconscious)の状態に置かれ、アクセスは可能であったが、実際にアクセスされていなかったものだ。また、どの対象にアクセスすべきかを選択するのに、注意が意識への門戸として機能する。
 ↑
(2)顕著さの度合い、あるいはそのときの目的に応じて、ほとんどは気づきの外で、必要な情報が選択される。
 ↑
(1)私たちの環境は無数の潜在的な知覚情報に満ちあふれている。同様に、私たちの記憶は、次の瞬間には意識に浮上する可能性がある知識で満たされている。

 「コンシャスアクセスは、はなはだオープンであるとともに、過度に選択的でもある。これは次のような意味だ。コンシャスアクセスの《潜在的な》上演目録は巨大で、人は誰でも、いかなる瞬間にも、注意の焦点を切り替えれば、色、匂い、音、記憶の欠落、感情、戦略、間違い、さらには「意識」という用語の複数の意味にも気づける。間違いを犯せば、《自意識的》にもなる。つまり自分の感情、戦略、間違い、後悔が意識にのぼる。しかし、いついかなる時点でも、意識の《実際の》上演内容は大幅に限定される。私たちは基本的に、特定の一時点をとりあげれば、一つの意識的な思考のみが可能であるにすぎない(とはいえ、文章の意味を考えているときなど、一つの思考は複数の部分から構成される「かたまり」でもあり得る)。
 意識は能力が限られているため、新たな項目にアクセスするには、それまでとらえていた項目から撤退しなければならない。私たちは、読書を数秒間中断することで、足の位置に気づき、ここが痛い、あそこがかゆいなどと感じる。こうしてこれらの知覚は意識される。だが数秒前には、それらは《前意識》(preconscious)の状態に置かれ、アクセスは可能であったが、実際にアクセスされていなかった。つまり無意識の広大な保管庫で眠っていたのだ。これは必ずしも、それらがいかなる処理の対象にもなっていなかったことを意味するわけではない。たとえば、私たちは常時、身体から送られてくるシグナルに反応して無意識のうちに姿勢を変えている。しかしコンシャスアクセスは、心がそれを利用できるようにする。それらは突如として、言語システムや、その他の記憶、注意、意図、計画に関するプロセスの対象として利用可能になるのだ。」(中略)「ジェイムズの定義は、把握可能な多くの思考の断片のなかからただ一つを分離するという、それとは異なる概念を含む。これを「選択的注意」と呼ぼう。いついかなるときにも、私たちの環境は無数の潜在的な知覚情報に満ちあふれている。同様に、私たちの記憶は、次の瞬間には意識に浮上する可能性がある知識で満たされている。このような状況に起因する情報オーバーロード(情報過多のために必要な情報が埋もれてしまい、意思決定が困難になる状態)を回避するために、脳システムの多くは、ある種のフィルターを備える。無数の潜在的な思考のなかでも、私たちが注意と呼ぶ、きわめて複雑なふるいにかけられて選択された、ごく一部のみが意識に到達するにすぎない。脳は不要な情報を容赦なくふるい落とし、顕著さの度合い、あるいはそのときの目的に応じて、たった一つの意識の対象を分離するのだ。そしてこの刺激は増幅され、私たちの行動を導く。
 ならば明らかに、注意の選択的な機能の、すべてではないとしてもほとんどは、気づきの外で機能しているものと考えられる。そもそも、すべての潜在的な思考対象を、まず意識の力で選り分けなければならないとしたら、思考することなど不可能になるだろう。注意のふるいはおもに無意識のうちに作用し、コンシャスアクセスからは分かたれる。もちろん日常生活では、環境はたいがい刺激に満ちているので、どの対象にアクセスすべきかを選択するのに、私たちは十分に注意を払わねばならない。このゆえに、注意はときに、意識への門戸として機能する。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.36-38,高橋洋(訳))
(索引:意識,前意識,注意)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

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睡眠中の脳波を発生させている神経活動の周期を、アストロサイトが協調させている。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

アストロサイト

【睡眠中の脳波を発生させている神経活動の周期を、アストロサイトが協調させている。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

(1)外部からいっさい刺激を与えていないのに、視床内部のアストロサイト網を、カルシウムウェーブが周期的に駆け抜ける。
(2)隣接するアストロサイトをカルシウムウェーブが通過するのに合わせて、ニューロンの電位が変化する。
 (2.1)アストロサイトが、神経伝達物質グルタミン酸を放出する。
 (2.2)グルタミン酸が、ニューロンのグルタミン酸受容体を活性化する。
 (2.3)この作用が、電位応答を誘発する。

 「シナプス相互作用に立脚したニューロン説の枠外で活動しながら、ニューロンの集団を集合体へと統合している存在がほかにもある――それはアストロサイトだ。クルネリらは、視床から得た切片を、アストロサイトによって選択的に取り込まれるカルシウム感受性蛍光色素の溶液に浸した。彼らが観察していると、外部からいっさい刺激を与えていないのに、視床内部のアストロサイト網をカルシウムウェーブが周期的に駆け抜けた。視床ニューロンに電極を刺入して、細胞内電位の変化を記録すると、隣接するアストロサイトをカルシウムウェーブが通過するのに合わせて、ニューロンの電位が変化していることがわかった。睡眠中の脳波を発生させている神経活動の周期を、アストロサイトが協調させていたのだ。
 ニューロンが示したこの電気的応答は、カルシウムウェーブが通過するときにアストロサイトが放出する神経伝達物質グルタミン酸によって引き起こされていた。このグルタミン酸が、ニューロンのグルタミン酸受容体を活性化し、この作用が電位応答を誘発して、ニューロンにインパルス発火を刺激していたのだった。
 この研究から導かれる驚くべき結論は以下のとおりだ。睡眠中の脳活動においてこのような広範囲の周期を制御しているのは、大脳皮質ではなく、さらにはニューロンさえも、主導権を握ってはいない。アストロサイトを通して流れる活動波が、視床ニューロンの大集団を結びつけて、その神経活動を競技場の観客の動きのように協調させている。てんかん発作や病気の際に、脳波の広範な変化が認められるのと同じように、アストロサイト内のカルシウム活動の波は、ニューロン内の電気的な活動と同期して振動している。アストロサイトは電気信号で連絡するのではなく、化学的メッセージを拡散することによって相互に信号を送り合っており、さらにはニューロンどうしがシナプスを介した連絡に用いているのと同じ神経伝達物質を放出することによって、ニューロンの発火を調節している。「もうひとつの脳」は、毎晩私たちが枕に頭を乗せて休んでいるときにも、睡眠の制御に精を出しているのだ。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第13章 「もうひとつの脳」の心――グリアは意識と無意識を制御する,講談社(2018),pp.445-447,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:アストロサイト,カルシウムウェーブ,グルタミン酸)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)


(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

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(仮説)ミラーニューロンは、幼児における自己と他者との相互作用によって形成される。また、ミラーニューロンは、自己意識の発生に、ある役割を果たしている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

ミラーニューロンの由来

【(仮説)ミラーニューロンは、幼児における自己と他者との相互作用によって形成される。また、ミラーニューロンは、自己意識の発生に、ある役割を果たしている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)親の模倣行動により、笑顔という視覚情報に、運動感覚が関連づけられる。
 (1.1)赤ん坊がにっこり笑う。(運動感覚)
 (1.2)それに応えて親も笑う。(笑う運動感覚に、自分の見た笑顔が関連づけられる。)
 (1.3)赤ん坊がまた笑う。
 (1.4)親もまた笑う。
(2)以上のようにして、笑顔を映し出すミラーニューロンが誕生する。
 (2.1)赤ん坊が誰かの笑顔を見る。
 (2.2)笑うのに必要な運動計画と関連づけられた神経活動が、赤ん坊の脳内で作動して、笑顔をシミュレートするようになる。
 (2.3)赤ん坊も笑う。
 (2.4)成長した私たちは、この脳細胞を使って他人の心理状態を理解するようになる。
(3)ミラーニューロンによって、自分が笑っているという意識が生まれる。(自己意識)
 (3.1)赤ん坊がにっこり笑う。(運動感覚)
 (3.2)笑う運動感覚によって、笑顔の表象が現れる。これは、かつて他人の中に見ていたものである。

 「ミラーニューロンとは、この自己と他者との不可避な関係、必然的な相互依存性を(その発火パターンによって)具体的に表しているような脳細胞なのである。ただし注意しておかなくてはならないのは、ミラーニューロンの発火率が自己の行動に対してと他人の行動に対してとで同一ではないということだ。これまでに何度も見てきたように――さらに言えば、これまでミラーニューロンに関して行われてきたすべての実験において――自己の行動に対してのミラーニューロンの放電は、他者の行動に対してよりもはるかに大きな値を示している。したがってミラーニューロンは自己と他者の相互依存性を――どちらの行動に対しても発火することによって――具現化しているとともに、そのとき私たちが同時に感じている、私たちにとって必要な主体性(非依存性)を、自己の行動に対してより強く発火することで具現化してもいるのだ。
 そこで、ミラーニューロンがいかにして自己と他者とをつなぐ膠のような神経細胞となるかだが、私はそれが幼児の脳内におけるミラーニューロンの発達から始まるという仮説を立てている。いまのところ実証的なデータはまだないが、大いに可能性のありそうなシナリオを推測するのはそう難しいことではない。赤ん坊がにっこり笑えば、それに応えて親も笑う。二分後に赤ん坊がまた笑い、親もまた笑う。こうした親の模倣行動のおかげで、赤ん坊の脳は笑うのに必要な運動計画と、自分の見た笑顔を関連づけられる。それにより――ほら! 笑顔を映し出すミラーニューロンが誕生する。次回、赤ん坊が誰かの笑顔を見たときには、笑うのに必要な運動計画と関連づけられた神経活動が赤ん坊の脳内で作動して、笑顔を《シミュレート》するようになる。ミラーニューロンが私たちの脳内で最初に形成される経緯がこの仮説のとおりなら――私はほぼ確実にそうだと思っているが――「自己」と「他者」はミラーニューロンの中で不可分に混じりあっていることになる。実際、この説明にしたがえば、幼児の脳内のミラーニューロンは《自己と他者との相互作用によって形成される》。これは人間の社会行動におけるミラーニューロンの役割を理解する上で、忘れてはならない重要なコンセプトだ。成長した私たちがこの脳細胞を使って他人の心理状態を理解するというのは理にかなっている。しかし同時に、私たちがこの脳細胞を使って自己意識を築くというのも、また理にかなっている。もともとこれらの細胞は、生後まもなく、他人の行動が《自分自身》の行動の映し鏡だったときに生まれたものだからだ。私たちはミラーニューロンの作用によって、他人の中に自分自身を見るのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第5章 自分に向きあう,早川書房(2009),pp.166-167,塩原通緒(訳))
(索引:ミラーニューロンの由来)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

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共感覚という現象が存在する:「数字を見るといつも特定の色が見えます。数字の5はいつも特定の色合いの鈍い赤で、3は青、7は鮮やかな濃い赤、8は黄色、9は黄緑色です」(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

共感覚

【共感覚という現象が存在する:「数字を見るといつも特定の色が見えます。数字の5はいつも特定の色合いの鈍い赤で、3は青、7は鮮やかな濃い赤、8は黄色、9は黄緑色です」(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

『「いつからそういうことがありましたか?」と私は聞いた。
 「小さいときからです。でもその頃はあまり気にしていなかったように思います。それからだんだん、とても変なことなのだと気がつきだしたのですが、だれにも話しませんでした。頭がどうかしているとか、そんなふうに思われたくなかったからです。さっき先生の話を聞くまで、これに名前がついているなんて知りませんでした。なんとおっしゃいましたっけ。シネ……ス……麻酔(アネスシージア)と韻を踏んでいるような感じの」
 「共感覚(シネスシージア)といいます」と私は言った。「スーザン、あなたの体験をくわしく話してもらえますか。うちの研究室は共感覚に特別な関心をもっているので。具体的にどんなことを体験しますか」
 「数字を見るといつも特定の色が見えます。数字の5はいつも特定の色合いの鈍い赤で、3は青、7は鮮やかな濃い赤、8は黄色、9は黄緑色です」
 私はテーブルの上にあったサインペンとメモ用紙をつかみ、大きな7を書いた。
 「どんなふうに見えますか?」
 「あまりきれいな7じゃないですね。でも赤に見えますよ……さっき言ったように」
 「ではちょっと質問しますので、よく考えてから返事をしてください。実際に赤が見えるのですか? それとも、その7を見ると赤のことが頭に浮ぶとか、赤い色が思い浮ぶとか、そういうことでしょうか……記憶心象のように。たとえば私は〈シンデレラ〉と言う言葉を聞くと、若い女性や、かぼちゃや、馬車が頭に浮かびますが、そういう感じですか? それとも文字どおりに色が見えるのですか?」
 「それはむずかしい質問ですね。私もよくそれを自問するのですが、おそらく実際に見えているのだと思います。先生が書かれたこの数字はあきらかに赤に見えます。でも実際は黒だということもわかります――というか、黒だということを承知しています。だからある意味では、一種の記憶心象だと言えます――心の眼とかそういうもので見ているにちがいありません。でも、けっしてそういうふうには感じられないのです。実際に見えているような感じがします。表現するのがとてもむずかしいです、先生」
 「とてもうまく表現していますよ、スーザン。あなたはすぐれた観察者です。だからあなたの言葉は価値がある」
 「一つ確実に言えるのは、シンデレラの絵を見たり、〈シンデレラ〉という言葉を聞いたりしたときに、かぼちゃを想像するのとはちがうということです。色は実際に見えます。」』
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第3章 うるさい色とホットな娘――共感覚,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.121-122,山下篤子(訳))
(索引:共感覚)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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24見たこと、聞いたこと、想起したことを、自分の身体感覚として経験させる「仮想身体ループ機構」は、ミラーニューロンと同じような神経機構により実現されていると思われる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

仮想身体ループ機構とミラーニューロン

【見たこと、聞いたこと、想起したことを、自分の身体感覚として経験させる「仮想身体ループ機構」は、ミラーニューロンと同じような神経機構により実現されていると思われる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

仮想身体ループ機構
(1)恐ろしい事故が起き、ある人物がひどい怪我を負った話を聞かされる。
(2)心の中にその人物の苦痛を鏡像的に再現する。
(3)表象が、現在の身体マップを急激に変更する。すなわち、この例では苦痛を感じる。この身体マップの変更は、実際の苦痛により被る変更と同じである。このことにより、あたかもあなた自身が犠牲者であるかのように感じる。

ミラーニューロンの働き
(1)相手の動きを見る。
(2)相手の動きに対応する動きが、模倣モードで「プレビュー」されたり、実行されたりする。
(3)この模倣的な身体運動を感知する領域は、実際の身体運動を感知する領域と同じである。すなわち、そのとき我々が感じるものは「実際の」身体状態にではなく、「偽の」身体状態にもとづいている。

 「一方、脳が特定の情動的身体状態を内的に模倣しうることも明白で、それは具体的には共感の情動を感情移入という感情に変えるプロセスで起こる。

たとえば、恐ろしい事故が起き、ある人物がひどい怪我を負った話を聞かされる場合を考えてみよう。少しの間あなたは、心の中にその人物の苦痛を鏡像的に再現し、それによって苦痛を感じるかもしれない。そしてあなたは、あたかもあなた自身が犠牲者であるかのように感じる。その感情の強さは、多かれ少なかれ、その事故の大きさとか、その人物についてのあなたの知識に左右される。

 このような感情を生み出すための想定メカニズムは、私が「仮想身体ループ」機構と呼んできたものの一種だ。

それは脳による内的な模倣で、それが現在の身体マップを急激に変更する。これは、たとえば前頭前皮質や前運動皮質のような特定の脳領域が、身体感知領域に直接信号を送るとなされる。そのようなタイプのニューロンの存在と存在場所が最近明確になってきた。

それらのニューロンは、相手に見いだされる動きを自分の脳に表象し、知覚運動構造に信号を発し、その結果、相手の動きに対応する動きが模倣モードで「プレビュー」されたり、実行されたりする。こういったニューロンはサルや人間の前頭皮質に存在し、「ミラー・ニューロン」として知られている。

私が『デカルトの誤り』で仮定した「身体仮想ループ」のメカニズムは、このメカニズムと同種のものに頼っていると私は考えている。

 身体感知領域における身体状態の直接的模倣の結果は、身体からの信号のフィルタリングのそれとまったく変わらない。どちらの場合も、脳は少しの間、現在の身体状態と正確には一致〈しない〉一連の身体マップをつくる。

つまり、脳は、流入してくる身体信号を粘土のように使って、しかるべき領域に――つまり身体感知領域に――特定の身体状態を彫り込む。そのときわれわれが感じるものは「実際の」身体状態にではなく、「偽の」身体状態にもとづいている。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第3章 感情のメカニズムと意義、pp.157-159、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:仮想身体ループ機構,ミラーニューロン)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))

共感

【他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知される。これは潜在的な場合もあれば実行されることもあり、複雑な対人関係の基盤の必要条件となっている。(ジャコモ・リゾラッティ(1938-))】

(1)他者の情動の表出を見るとき、その情動の基盤となっている内臓運動の表象が現れ、他者の情動が直ちに感知できる。
 (1.1)他者が、情動を感じている表情を見る。(視覚情報)
 (2.2)観察者の情動の基盤となっている内臓運動に関係する神経構造が、自動的に活性化される。
 (3.3)これにより、他者の情動が、直ちに了解される。ただし情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。
(2)島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応の周囲にある中枢は、潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもある。
(3)このような情動の理解は、「同情」のための前提だ。しかし「同情」には他の要因も必要となる。例えば、相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなどだ。

 「よく知られているように、吐き気を催している人を目にすると、見ている側にも同じような反応が起きる。見ている人は、実際に吐かないまでも、必ずと言っていいほど、何か特別に不快な物を食べたり飲んだりしたかのように、吐き気や、ひどい腹痛などに見舞われる。島の活性化によって引き起こされる内臓運動反応が、周囲にある中枢に影響を及ぼすとはかぎらないとはいえ、そうした中枢が完全に無関係というわけではない。じつはその正反対で、周囲にある中枢は潜在的な内臓運動活動を表象しており、それが実行されることもあれば、潜在的な状態にとどまることもあるが、いずれにせよ、それは、主体である「私」が他者の情動を理解する上でぜったいに欠かせない。
 行為を理解するのに、その行為の模倣が必要ではないのと同じで、他者の情動の意味を理解するために相手の行動を細部まで余すところなく再現する必要はない。他者の運動行為や情動反応の知覚に、異なる皮質回路が関与しているとしても、そうした知覚は、ミラーメカニズムによって統合されているようだ。ミラーメカニズムのおかげで、私たちの脳は、自分が見たり感じたりしていること、あるいは他者が行っているのだろうと思っていることがただちに理解できる。それはこのメカニズムが、私たち自身の行為や情動の基盤となっているのと同じ(それぞれ運動と内臓運動にまつわる)神経構造を活性化するからだ。すでに述べたとおり、他者の行為や意図を理解するために私たちの脳に備わっている手段はミラーメカニズムだけではない。これは情動にも当てはまる。情動は、それが他者の表情や行為にどう表れているかに関係する、感覚的側面の内省的処理によって理解される場合もあるかもしれない。しかし、内省的処理だけで、内臓運動の「ミラーリング」の支援がなければ、ジェイムズの言う、純粋な「情動的温かみ」を欠く「色彩のない」知覚にとどまるだろうことは忘れてはならない。
 情動のミラーニューロン系は、他者の情動を一瞬で理解することを可能にする。この瞬間的な理解は、より複雑な対人関係の大半の基盤となる共感にとって、必要条件だ。とはいえ、他者の情動の状態を内臓運動レベルで共有することと、その人に共感することは、まったく違う次元の話だ。たとえば、誰かが苦しんでいるのを目にしたからといって、反射的にその人に同情するとはかぎらない。同情することはよくあるが、同情するには苦しんでいる人を見ることが前提となるものの、逆は必ずしも真実とは言えない点で、二つのプロセスはまったく異なる。さらに同情には、痛みを認識する以外にもさまざまな要因が必要となる。たとえば相手が誰なのか、相手とどういう関係にあるのか、相手の立場になったところを想像できるか、相手の情動の状態や願望や期待といったものに対して責任を引き受ける気があるかなど、そうした要因は枚挙に暇がない。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第7章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.207-208,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:共感,情動)

ミラーニューロン


(出典:wikipedia
ジャコモ・リゾラッティ(1938-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「みなさんは、行為の理解はまさにその性質のゆえに、潜在的に共有される行為空間を生み出すことを覚えているだろう。それは、模倣や意図的なコミュニケーションといった、しだいに複雑化していく相互作用のかたちの基礎となり、その相互作用はますます統合が進んで複雑化するミラーニューロン系を拠り所としている。これと同様に、他者の表情や動作を知覚したものをそっくり真似て、ただちにそれを内臓運動の言語でコードする脳の力は、方法やレベルは異なっていても、私たちの行為や対人関係を具体化し方向づける、情動共有のための神経基盤を提供してくれる。ここでも、ミラーニューロン系が、関係する情動行動の複雑さと洗練の度合いに応じて、より複雑な構成と構造を獲得すると考えてよさそうだ。
 いずれにしても、こうしたメカニズムには、行為の理解に介在するものに似た、共通の機能的基盤がある。どの皮質野が関与するのであれ、運動中枢と内臓運動中枢のどちらがかかわるのであれ、どのようなタイプの「ミラーリング」が誘発されるのであれ、ミラーニューロンのメカニズムは神経レベルで理解の様相を具現化しており、概念と言語のどんなかたちによる介在にも先んじて、私たちの他者経験に実体を与えてくれる。」
(ジャコモ・リゾラッティ(1938-),コラド・シニガリア(1966-),『ミラーニューロン』,第8章 情動の共有,紀伊國屋書店(2009),pp.208-209,柴田裕之(訳),茂木健一郎(監修))
(索引:)

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7.信号に対する反応時間は、200~300msである。被験者に100ms、意図的に反応を引き延ばすよう指示すると、結果は600~800msになる。これは、刺激を意識化するのに必要な約500msで説明可能だ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意図的な引き延ばしによる反応時間

【信号に対する反応時間は、200~300msである。被験者に100ms、意図的に反応を引き延ばすよう指示すると、結果は600~800msになる。これは、刺激を意識化するのに必要な約500msで説明可能だ。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(a)通常の反応時間(RT)測定
 (a1)被験者への指示
  前もって決められた信号が現れたらできるだけ早くボタンを押すこと。
 (a2)結果
  採用した信号の種類によって、200~300ms
(b)意識的な引き延ばしによる反応時間(RT)測定
 (b1)被験者への指示
  前もって決められた信号が現れたら、100ms程度、意図的に引き延ばしてボタンを押すこと。
 (b2)結果
  採用した信号の種類によって、600~800ms

(a)通常の反応時間(RT)測定では、反応のために刺激へのアウェアネスは必要ない。実際、アウェアネスの発生前に、反応が起こるという直接的な証拠がある。

意識的感覚
 ↑      反応…………………
 │       ↑     ↑
感覚皮質の活性化 │   200~300ms
 ↑       │     │
 ├───────┘     │
刺激………………………………………

(b)意図的なプロセスによってRTを引き延ばしたい場合、被験者はまず刺激に気がつかなくてはならない。

        反応…………………
         ↑     ↑
 ┌───────┘   600~800ms
意識的感覚          │
 ↑             │
 │             │
感覚皮質の活性化       │
 ↑意識感覚を生み出すために │
 │500ms以上の持続が必要  │
刺激………………………………………

 「三番目の証拠は、思いがけず、カリフォルニア大学バークレー校の心理学の教授アーサー・ジェンセン(1979年)の一見関連性のない実験から現われました。

ジェンセンは、異なるグループの被験者の反応時間(RT)を測定していました。通常のテストでは、前もって決められた信号が現れたらできるだけ早くボタンを押すように、被験者に指示していました。ジェンセンの実験の被験者が示したRTは、採用した信号の種類によって、200~300ミリ秒間の範囲でした。

別の被験者グループの間で平均RTに差があったため、ジェンセンは、ある被験者が意図的にRTを引き延ばそうとすることによってある程度の差が生じる可能性を排除しようと考えました。

そこで彼は、すべての被験者に、以前のRTよりも100ミリ秒間程度、意図的に引き延ばしてRTを繰り返すように指示しました。

彼が驚いたことに、指示通りにできた被験者は一人もいませんでした。その代わり、被験者が記録したのは指示されていた小さい延長分よりもずっと長い、600~800ミリ秒間のRTでした。

 ジェンセンが、私たちの意識を伴う感覚的なアウェアネスの500ミリ秒間の遅れについて聞いたとき、彼は自分の奇妙な発見がこれで説明がつくに違いない、と気づきました。

意図的なプロセスによってRTを引き延ばしたい場合、被験者はまず刺激に気がつかなくてはならない、と推測できます。通常のRTテストで被験者が反応した瞬間には、刺激へのアウェアネスはおそらく必要なく、そこでは反応への意図的な操作は問題にはなりません。

(実際、通常のRTは刺激へのアウェアネスなしに、またはアウェアネスの起こる前に発生するという、直接的な証拠があります。)

しかし、意図的に遅らせた反応の前にアウェアネスが生じるには、約500ミリ秒間の活動というアウェアネスを生み出すための必要条件が、そのぶんだけ反応を遅らせます。

これで、意図的に反応を遅らせることを試みた場合、300~600ミリ秒間増えるRTの非連続的なジャンプの説明がつきます。このことが、ジェンセンの発見についての唯一、筋が通った説明となります。また、感覚的なアウェアネスにおける0.5秒間の遅れについての、さらに説得力のある証拠となります。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.63-64,下條信輔(訳))
(索引:意図的な引き延ばしによる反応時間)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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3.世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の自律性

【世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))】

(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
 (e1)世界3は、確かに最初は人間が作ったもであり、また人間の心の所産である。
 (e2)しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それは、ある程度の自律性を持っている。
 (e3)また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待っているかのようである。

(再掲)
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「私の論点は、研究と批判の対象としての問題や理論を認めない限り、科学者の行動はけっして理解できないであろうという点にある。

 むろん、明らかに理論は人間の思考(あるいは好むならば人間の行動――私は言葉使いについて争う気はない――)の所産である。それにもかかわらず、理論はある程度の自律性(autonomy)をもっている。それらは、誰もそれほど深くまでは考えなかったような、だが《発見される》かもしれない諸結果を客観的にもっている。

ここで発見されるとは、存在してはいたが、それまでは未知であった植物や動物が発見されるかもしれない、というのと同じ意味である。

世界3は最初だけ人間が作ったもであり、理論はいったん存在すると、それは自らの生命をもち始める。理論は以前にはみることのできなかった結果を作り出し、新しい問題を提出すると言えよう。
 私の標準的な例は算術からのものである。数の体系は人間の発見というより、人間の構成あるいは発明であるといえる《かもしれない》。しかし、偶数と奇数の差異、または約数と素数の差異は発見である。数のこれらの特徴的な集合は、体系を構成した(意図しなかった)結果として、体系が存在すると客観的に存在することになる。そしてそれらの性質が発見されることになる。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.68-69、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3の自律性)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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