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2020年6月15日月曜日

合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))

状況の3つの意味

【合理性の前提にある「状況」には少なくとも3つの意味がある。真に客観的な状況に応ずる仮想的な合理性、行為者が現実に認識している状況に応ずる現実的な合理性、行為者が認識すべき状況に応ずる規範的な合理性である。(カール・ポパー(1902-1994))】

合理性原理の3つの意味
 (1)客観的状況
  (a)現実にそうであったものとしての状況、歴史家が再構成しようとする客観的状況である。
  (b)客観的状況とは、そもそも何かを考えると、(3)が(1)を構成しているともいえる。
  (c)各行為者が、現実をどのように認識していたのかという状況も含まれる。すなわち、以下の(2)も状況として(1)に含まれている。
 (2)行為者が認識する状況
  行為者が現実に見たものとしての状況である。
 (3)行為者が認識すべき状況
  行為者が、客観的状況のなかでそう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況である。
 (4)仮想的な合理性原理
  行為者は、自らの客観的状況(1)に対して適切に行動する。
 (5)現実的な合理性原理
  行為者は、認識した自らの状況(2)に対して適切に行動する。
 (6)規範的な合理性原理
  (a)行為者は、認識すべきと考えられる自らの状況(3)に対して適切に行動するべきである。
  (b)歴史家が、「失敗」を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(2)と(3)の違いを論ずることになろう。
  (c)もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。
  (d)なお状況は、過去、現在、予測としての未来、規範としての未来を含むだろう。すなわち、行為者は過去、現在をこのように認識すべき、状況がこのような結果を招くだろうと予測すべき、状況からこのようにすべきと認識すべきという様相が区別できよう。
 (7)現実的な人間行動
  われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する、言葉をかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては、普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。
 「公演の前の方で、わたくしは、人は自らの(その知識と技術も含めた)客観的状況に対して適切に行動するという見解として考えられた合理性原理に関心があった。つづく部分では、人は自分が見たものとしての状況に適切な仕方で行動するという見解に関心をはらっている。いまや「合理性」には(それゆえ「合理性原理」にも)少なくも三つの意味があるように思われる。どれも客観的であるが、行為者が行為している状況の客観性にかんしては違いがある。
 (1)《現実にそうであったものとしての状況》――歴史家が再構成しようとする客観的状況。
 この客観的状況の一部は、
 (2)《行為者が現実に見たものとしての状況》。
 しかし、(1)と(2)のあいだには第三の意味がある。
 (3)《行為者が、(客観的状況のなかで)そう見ることができたはずの、そしてたぶんそう見るべきだったはずの状況》。
 これら三つの「状況」の意味に対応して「合理性原理」にも三つの意味があることは明らかである。さらに行為を理解するうえで、とりわけ歴史家が《失敗》を説明しようと試みるさいには、合理性原理についての(1)の意味とほかのふたつの意味の違いが一定の役割を演じるだろうことは明らかであり、(2)と(3)の違いも似たような役割を演じるだろう。強調されなければならないことだが、(2)と(3)は今度は、客観的状況(1)(の多かれ少なかれ洗練された分析)の一部を形成しているのである。しかも、もし(2)と(3)のあいだに衝突があれば、行為者は合理的に行為しなかったといってもよい。(そのような衝突は、精神分析学者によって、おそらく現実原則〔現実生活に適応するために、快楽などの原始的な本能的欲求を一時的、または永久に断念する自我の働き〕の失敗として記述されるだろうと思う。)(3)は、あるがままの状況のある側面を見るさいの難しさに対する評価を含んでいるかもしれない。
 この論文にかんしては、これらの定式化を使って、(1)と(3)については早い方の節で、そして(2)については終りの方の節で論じたと言われるかもしれない。わたくしの見解では、われわれはしばしば(1)、(2)、(3)のどの意味でも状況に対して適切ではないような仕方で行為する――ことばをかえれば、合理性原理はわれわれが行為する仕方の記述としては普遍的には真ではないとつけ加えてもいいだろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『フレームワークの神話』,第8章 モデル、道具、真理,第13節「不合理な」行為,注19,pp.308-310,未来社(1998),ポパー哲学研究会,蔭山泰之(訳))
(索引:状況)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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