2018年12月2日日曜日

17.理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

「真」の世界、神的世界、自由の世界

【理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(5)追加記載。

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)理性、論理にかかわる3つの誤り
  (a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
   (4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
     「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

    (a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
    (b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
    (c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。

(5)「別の世界」の捏造
 以上のとおり、「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。捏造された世界は、他にも存在した。
 (5.1)「別の世界」
  (a)「真」の世界:哲学的先入見が捏造した世界。
  (b)「神的世界」:宗教的先入見が捏造した世界。
  (c)「自由の世界」:道徳的先入見が虚構した世界。
 (5.2)「別の世界」は、生きることに疲れた人間の本能が作り上げた世界であり、実際には存在しない。
 (5.3)「仮象」と誤解された世界が真に実在する世界であり、私たちが唯一、現実的に生きているのは、この世界である。
 (5.4)真に生きることの意味、価値の源泉は、真に実在する世界に存在する。

「「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、
 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では《理性》と《論理的》機能がふさわしい、―――ここから「真」の世界が由来する。

 宗教的人間である。宗教的人間は「神的世界」を捏造する、―――ここから「自然性を剥奪された、反自然的」世界が由来する。

 道徳的人間である。道徳的人間は「自由の世界」を虚構する、―――ここから「善き、完全な、正しい、神聖な」世界が由来する。

 これら三つの発生地に《共通なこと》は、《心理学的な》つかみそこない、生理学的な取りちがえである。

 実際に歴史のうちにあらわれるような「別の世界」は、どのような述語でもって印づけられているのか?  哲学的、宗教的、道徳的先入見の傷痕でもって。

 これらの事実から明らかにされるような「別の世界」は、《存在しない》、生きていない、生きようと《欲し》ないことの《同義語》にほかならない・・・

 《総体的洞察》。すなわち、「別の世界」をつくりあげたのは、《生の疲労》の本能であって、生の本能ではない。
 《結論》。すなわち、哲学、宗教、道徳は、《デカダンスの症候》である。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八六、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.131-132、[原佑・1994])
(索引:理性の世界,真の世界,神的世界,自由の世界,別の世界)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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13.例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

ある一つの「部屋」の記述

【例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

 「フレーゲとラッセルが対象について語ったとき、彼らは名詞によって言語的に表わされるものを、常に念頭においていた。それゆえ我々は対象について語るとき、それを椅子や机のように語るのである。

対象についての完全な把握は、それゆえ、命題の主語-述語形式と密接に関係しているのである。主語-述語形式の存在しない所では、人はこの意味では対象について語ることは出来ない、ということは明らかである。

さて、私は部屋を全く別様にも記述することが出来る。それは例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示する、という様にである。

この記述様式においては、もはや個々の「対象」については、即ち椅子、本、机、そしてそれらの空間的配置については、何も語られてはいないのである。それゆえここにおいては、関係は存在しない。そのようなものは一切存在しないのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』一九二九年十二月二二日 日曜日(シュリック宅にて)、全集5、p.56、黒崎宏)
(索引:部屋の記述)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

算術の包括的応用可能性

【思考の対象となり得るほぼ全てのものは、数え上げることができる。この事実から、実在的なものであれ理念的なものであれ、思考可能な領域と、算術を基礎とした理論の可能な領域には、何らかの関係があると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「算術の命題はすべて専ら定義のみから純粋論理的に導出可能であり、従ってまた導出されなくてはならない、というものである。この点で算術は幾何学と対比される。どの数学者も疑わないように、幾何学は確かにそれ固有の公理を必要とする。そうした公理の反対は、―――純粋論理的に見るならば―――[元の公理と]同じく可能である、つまり矛盾に陥らないだろう。この見解を擁護するあらゆる理由の中で、私はここではただ一つのみを挙げよう。その理由とは算術理論の包括的な応用可能性に基づくものである。実際思考の対象となり得るほぼすべてのものを数えることができる。例えば実在的なものと同様に理念的なものも、事物と同様に概念も、空間的なものと同様に時間的なものも、物体と同様に出来事も、定理と同様に方法も数えることができる。数それ自体も再び数えることができる。[数え上げには]境界の一定の明確さ、ある論理的な完全さ以外何も本来的には必要とされない。このことから少なくとも次のことを引き出し得る。算術がそれに基づく原理は、次のようなより制限された領域、つまり幾何学の公理が空間的なものの固有性を表現するのと同様に、その固有性を算術が表現するかのような領域に関係してはならない。そうではなく、こうした原理は思考可能なものすべてにまで拡がっていなくてはならない。そして確かにこうした最も普遍的な命題は正当にも論理学に数え入れられるのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の形式理論について』94-95、フレーゲ著作集2、p.94、渡辺大地)
(索引:算術の包括的応用可能性)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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