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2024年5月7日火曜日
31.高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間にたいする義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
2024年4月19日金曜日
29 約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
約束することのできる動物を育成するというあの課題は、われわれがすでに理解したごとく、その条件や準備として、まずもって人間を或る程度まで必然的な、一様な、同等者たちのあいだで同等な、規則的な、したがってまた算定可能なものと《する》というより差し迫った課題を含んでいる。
私が〈習俗の倫理〉と呼んだもののあの巨大な作業(『曙光』九節、一四節、一六節参照)―――人類のもっとも長きにわたった期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、人間のあの《前史的な》作業の全体は、たとえその内にどんなに多くの冷酷、暴虐、遅鈍、痴愚が宿っているにしても、右の課題に関する点でその意義をもち、立派に申し開きが立つものとなる。
それというのも、人間は習俗の倫理と社会的拘束の緊衣とのおかげで本当に算定しうるものと《された》からである。
しかるに、もしわれわれがこの巨大な過程の終点に立ってみるならば、すなわち樹木がついにその実を結び、社会とその習俗の倫理がそれの手段にすぎなかった当の《目的》がついに実現される地点に立ってみるならば、そのときわれわれは、その樹のもっとも熟した果実として《主権者的な個体》を見いだすであろう。
これこそは自己自身にのみ等しい個体、習俗の倫理からふたたび解き放たれた個体、自律的にして超倫理的な個体(というのも〈自律的〉と〈倫理的〉とは相容れないから)、要するに自己固有の、独立的な、長い意志をもつ《約束のすることのできる》人間である。
―――そして彼の内には、ついに達成されて彼自身それの化身となった《そのもの》についての、全筋肉を震わせるほどの誇らかな意識が、真の権力と自由との意識が、人間そのものとしての完成感情が見られる。
真実に約束することの《できる》この自由となった人間、この《自由なる》意志の支配者、この主権者、―――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼びおこすか―――彼はこれら三つのものすべての対象となるに〈値する〉―――を、知らないでいるはずがあろうか?
同時にこの自己に対する支配とともに、いかにまた環境に対する支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手にゆだねられているかを、知らないでいるはずがあろうか?
〈自由なる〉人間、長大な毀たれない意志の所有者は、この所有物のうちにまた自己の《価値尺度》をもっている。
彼は自己を基点にして他者を眺めやりながら、尊敬したり軽蔑したりする。彼は必然的に、自己と同等な者らを、強者や信頼できる者ら(約束することの《できる》者たち)を尊敬する、
―――要するに主権者のごとくに重々しく、稀に、ゆったりとして約束する者、容易には他を信頼せず、ひとたび信頼したとなれば《これを賞揚する》者、おのれの一言を災厄に抗してすら・〈運命に抗して〉すらも守りぬくほど十分に自分が強いことを知るがゆえに、頼むに足るだけの言質を他に与える者、こうしたすべての者を尊敬するのである―――。
同様にまた必然的に彼は、できもしないのに約束する法螺吹きの痩犬どもを足蹴にすべく身構えるだろうし、舌の根の乾かぬうちにはやくもその約束を破る虚言者どもに懲戒の笞を振るうべく身構えるであろう。
《責任》という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。
2020年9月3日木曜日
27.結果としての道徳:自己満足、自己浄化、復讐のための道徳、病気としての道徳、真の目的の誤解、自己隠匿、仮面としての道徳、偽善、自己弁護のための道徳、おのれの意志に他者を服従させようとする道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
結果としての道徳
【結果としての道徳:自己満足、自己浄化、復讐のための道徳、病気としての道徳、真の目的の誤解、自己隠匿、仮面としての道徳、偽善、自己弁護のための道徳、おのれの意志に他者を服従させようとする道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】(1)に追記。
道徳的諸価値(良心の権威)
問題:道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。無意識の徴候、病気、真の目的の誤解、隠蔽する仮面、偽善としての道徳、あるいは、薬剤、興奮剤、抑制剤、毒物としての道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。
(1)結果としての道徳
(a)無意識の徴候としての道徳
・主唱者の心を安らわせ自己満足を覚えさせようとするための道徳
・自己を浄化して高くはるかな天上へとのぼろうとするための道徳
・主唱者が復讐しようとするための道徳
(b)病気としての道徳
・主唱者が自分自身を磔に処し屈辱にまみれさせようとするための道徳
(c)真の目的の誤解としての道徳
・主唱者が他のものを忘却せしめるのに役立つ道徳
(d)真の目的を隠す仮面としての道徳
・自己を隠匿しようとするための道徳
・主唱者が自己あるいは自己のあるものを人に忘却せしめるのに役立つ道徳
(e)偽善としての道徳
・主唱者を、他の者に対して弁護することを意図した道徳
(f)おのれの意志に他者を服従させようとする道徳
・人類のうえに権力と創意に富んだ思いつきとを実行してみようとする道徳
・自分が敬重し服従し得ることは、他者も服従すべきとする道徳
(2)原因としての道徳
(a)薬剤としての道徳
(b)興奮剤としての道徳
(c)抑制剤としての道徳
(d)毒物としての道徳
「「われわれの内には定言的命法がある」、というような主張の価値については措いて問わぬとしても、なおわれわれはこう問うことができる、そもそもこうした主張はその主張者について何を証言しているのか、と。
道徳のなかには、この主唱者を他の者に対して弁護することを意図したものもある。また、主唱者の心を安らわせ自己満足を覚えさせようとするための道徳もある。さらには、主唱者が自分自身を磔に処し屈辱にまみれさせようとするための道徳もある。なおまた、主唱者が復讐しようとするための道徳、自己を隠匿しようとするための道徳、自己を浄化して高くはるかな天上へとのぼろうとするための道徳もある。
ある道徳は、その主唱者が他のものを忘却せしめるのに役立ち、またある道徳は、その主唱者が自己あるいは自己のあるものを人に忘却せしめるのに役立つ。
人類のうえに権力と創意に富んだ思いつきとを実行してみようとする多くの道徳家もいるし、他方また多くの道徳家は、ほかならぬカントもその仲間だが、自分の道徳論によって次のようなことをほのめかす、「私において敬重さるべきことは、私が服従しうるという一事だ。―――されば、あなたたちも私とまったく同じように《あるべき》である!」と。
―――要するに、もろもろの道徳とても《情念の符号》にすぎないのだ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『善悪の彼岸』第五章 道徳の博物学について、一八七、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、p.154、[信太正三・1994])
(索引:道徳)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年8月29日土曜日
24.問題:道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。無意識の徴候、病気、真の目的の誤解、隠蔽する仮面、偽善としての道徳、あるいは、薬剤、興奮剤、抑制剤、毒物としての道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
道徳的諸価値とは?
【問題:道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。無意識の徴候、病気、真の目的の誤解、隠蔽する仮面、偽善としての道徳、あるいは、薬剤、興奮剤、抑制剤、毒物としての道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】道徳的諸価値
道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。
(1)結果としての道徳
(a)無意識の徴候としての道徳
(b)病気としての道徳
(c)真の目的の誤解としての道徳
(d)真の目的を隠す仮面としての道徳
(e)偽善としての道徳
(2)原因としての道徳
(a)薬剤としての道徳
(b)興奮剤としての道徳
(c)抑制剤としての道徳
(d)毒物としての道徳
「同情と同情道徳との《価値》いかんというこの問題(―――私は近代の恥ずべき感情柔弱化にたいする敵対者だ―――)は、当初は単なる孤立した問題、一個の単独の疑問符にすぎないように見える。
だがしかし、ひとたびこの問題に専心し、これを問いたてることを《覚えた》者には、私に起こったと同じことが起こるであろう。―――すなわち、彼には一つの広大な新しい眺望がひらけ、一つの可能性が眩暈のごとく彼を捉え、ありとあらゆる種類の不信・猜疑・恐怖が跳びだし、道徳への、一切の道徳への信仰がゆらぎ、―――ついには一つの新しい要求が瞭然と聞きとられるようになる。
われわれはこれを、この《新しい要求》を、こう表現しよう。―――われわれは道徳的諸価値の《批判》を必要とする、《これら諸価値の価値そのものがまずもって問われねばならぬ》、
―――そのためには、これら諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきたもろもろの条件と事情についての知識が必要である(結果としての、徴候としての、仮面としての、偽善としての、病気としての、誤解としての道徳が。一方また原因としての、薬剤としての、興奮剤としての、抑制剤としての、毒物としての道徳など)。
そのような知識は、今までありもしなかったし、求められさえもしなかった。これら〈諸価値〉の《価値》は、所与のものとして、事実として、あらゆる疑問を超えたものとして受けとられてきた。
また、〈善人〉を〈悪人〉よりも価値の高いものと評価し、およそ人間《なるもの》(人間の未来をも含めて)にかかわる促進・効用・繁栄という点で善人を高く評価することについては、これまで露いささかも疑わず惑いためらうことも見られなかった。
ところで、どうだろう? もしその逆が真理であるとしたら? どうだろう? もし〈善人〉の内にも後退の徴候がひそんでいるとしたら? 同じくまた、もしかしたら《未来を犠牲にして》現在が生きようとする一つの危険、一つの誘惑、一つの毒、一つの麻酔剤がひそんでいるとしたら?
そしておそらくは現在が、より安楽に、より危険すくなく、それだけにまた一層こぢんまりと、より低劣に生きようとしているとしたら?
・・・かくして、そのものとしては可能な《もっとも強力にして豪華な》人間の型がついに達成されないということが、ほかならぬあの道徳の責めに帰せられるとしたら? かくして、ほかならぬあの道徳こそが危険のなかの危険であるとしたら? ・・・」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『道徳の系譜』序言、六、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、pp.367-368、[信太正三・1994])
(索引:道徳的価値の価値,道徳的価値,結果としての道徳,原因としての道徳)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『道徳の系譜』序言、六、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、pp.367-368、[信太正三・1994])
(索引:道徳的価値の価値,道徳的価値,結果としての道徳,原因としての道徳)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
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2020年5月19日火曜日
23.自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
人間の高貴性の徴
【自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】「《自然を誹謗する者に抗して》。
―――すべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、
―――人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!
自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は「悪いもの」だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!
《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ。
高貴性というものの徴となるのは、つねに、自分に些かの恐怖をも抱かないこと、自分から恥ずべき何ものをも期待しないこと、われわれが―――生まれながらに自由の鳥であるわれわれが飛んでゆきたいところへはどこへなりと躊躇なく飛び立つこと、であろう!
われわれがどこへむかって飛んでゆこうとも、われわれをつつむものはつねに自由と陽光である、ということであろう。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第四書、二九四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.309-310、[信太正三・1994])
(索引:衝動、自然的傾向、人間の高貴性の徴)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年11月27日火曜日
16.「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
「科学」を促進してきた3つの錯覚
【「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】(4.3.3.1)追加記載。
(1)真に実在する世界
真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(4.1)誤り1:「科学」の誤解
理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
(4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
(4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
(4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
(4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
(4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
(4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
(4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
(4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
(a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
(b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
(c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。
「《三つの錯覚から》。―――ひとびとは最近の数世紀において科学を推し進めてきた。
その理由の一つとしては、ひとびとが科学とともにかつ科学を通じて神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したことがあげられる―――これが偉大なイギリス人たち(ニュートンのような)の心にあった主要動機であった―――、
他の理由の一つは、ひとびとが認識の絶対的な有用性を、とくに道徳と知識と幸福との深奥の結合を信じたことにある―――これは偉大なフランス人たち(ヴォルテールのような)が心中に抱いた主要動機であった―――、
いま一つの理由は、ひとびとが科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、要すれば人間の悪質な衝動などとはおよそ何の関係もないようなあるものを、所有したり愛したりできると思ったことにある、―――これは認識者として自分を神的なものに感じたスピノザの心にあった主要動機だ―――、
つまり、このように三つの錯覚から科学が促進されたのであった!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第一書、三七、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.27-28、[信太正三・1994])
(索引:「科学」を促進してきた3つの錯覚)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
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(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第一書、三七、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.27-28、[信太正三・1994])
(索引:「科学」を促進してきた3つの錯覚)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
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2018年10月17日水曜日
13.無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
言語の畜群的遠近法
【無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】(1)意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(2)また、我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
(3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
(4)さらに、言語で表現された世界は、意識にのぼってくるものの、さらに限定された一部である。しかもそれは、一般化され、凡俗化され、深みを失い、薄っぺらになり、愚劣となり、頽廃があり、偽造がある。
(5)自分自身をできるかぎり個的に理解しよう、「自己自身を知ろう」と望んでも、意識にのぼってくるのは、非個的なもの、「平均的なもの」、「種族の守護霊」によって多数決にかけられ、畜群的遠近法に訳し戻されたものである。結局のところ、増大する意識とは一つの危険であり、一つの病気とも言えるのである。
(6)以上のことは、意識と言語の以下のような起源に由来する。
(6.1)人間は、最も危険に曝された動物として、仲間の救助や保護を必要とした。
(6.2)仲間に知らせる必要のあることが、意識化され、言語化された。すなわち意識も言語も、種族、共同体的、畜群的な効用に関する点で、精妙な発達をとげてきた。なお、人と人を結びつけるものには、眼差しや身振りの働きもある。
(6.2.1)自分の危急状態、何が不足しているのか。
(6.2.2)自分がどんな気分でいるのか、何を考えているのか。
(6.2.3)人と人とを結びつける連絡網、特に命令者と服従者を結びつける。
「「種族の守護霊」について。
―――意識(もっと正しく言えば、自己を意識すること)の問題は、どの程度までわれわれは意識なしで済ませられるかを悟りだすときにはじめて、われわれの前面にあらわれてくる。
こうした悟り始めの地点に、今日われわれを立たせるのは、生理学と動物学とである(これらの学問は、したがって、ライプニッツの先駆的な疑問に追いつくのに二世紀かかったわけだ)。
すなわち、われわれは、考えたり、感じたり、欲したり、想い起こしたりすることができるし、同様にまた語のあらゆる意味で「行為する」ことができるだろう、だがそうだとしてもそうした一切のものがわれわれの「意識のうちに入ってくる」(比喩的に言われるごとく)ことを要しない筈だ。
生の全体は、それがいわば鏡に自分を映してみなくても、可能な筈である―――実際において今日でもなお、われわれにおけるこの生活の大半が、こうした鏡面映写なしに演じられているごとくに―――、しかもそこにわれわれの思考し・情感し・意欲する生をも含めての話だ、こう言えば老いぼれた哲学者の耳には侮辱したように聞こえるかもしれないけれど。
―――意識が大体において《余計なもの》であるとするなら、いったい意識は《何のため》にあるのか?
―――ところで、この問題に対する私の解答とその恐らくは的外れかもしれぬ推測に人々が耳を藉してくれるとしての話だが、意識の精緻さと強さとはつねに人間(あるいは動物)の《伝達能力》に比例し、またその伝達能力は《伝達の必要》に比例する、と私には思われる。
この後者の場合、自分の必要をひとに伝達したり分からせたりすることにかけては実に名人である当の個人それ自体が、その必要という点で同時にまた大抵のことを他人に頼らねばならないものだ、といった風にこれを解してはならない。
だがしかし、こと種族全体や血族連鎖の全体に関するかぎりでは、たしかにそんな風の事情になっているように、私には思われる。
必要とか困窮とかのために、長期にわたって人間が、伝達し合い相互に迅速かつ精細に理解しあうよう迫られたところでは、ついにあり余る程のこうした伝達の力と技が生じてくる。それはいわば漸次に蓄積された末にこれを浪費する相続人を待つばかりになっている資産のようなものである
(―――いわゆる芸術家はこうした意味の相続人であるし、演説家も説教家も著述家も同断である。これらの者はみな、きまって長い血族連鎖の最後にあらわれ、いつの場合も語の最上の意味での「末裔」であり、前述のようにその本質において「浪費家」である)。
この私の考察が正しいとしたら、さらに次のように推測をすすめることができよう、すなわち、《およそ意識というものは伝達の必要に迫られてのみ発達したものである》、―――もともとそれは人と人との間(特に命令者と服従者との間)にのみ必要なもの、有用なものであって、しかもこの有用性の程度に比例してのみ発達したものである、と。
意識とは、本来、人と人との間の連絡網にすぎない、―――ただそうしたものとしてのみ発達したに違いなかった。つまり、世捨人的な猛獣のような人間なら意識など必要とはしなかっただろう。
われわれの行為、想念、感情、運動すらも―――すくなくともそれらの一部分が―――われわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき「やむなき必要」(Muss)の結果なのだ。
人間は、最も危険に曝された動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表わし自分を分からせるすべを知らねばならなかった、―――こうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず「意識」を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを「知る」こと、自分がどんな気分でいるかを「知る」こと、自分が何を考えているかを「知る」ことが、必要であった。
なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。
《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
―――というのも、この意識化された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》―――これで意識の素性そのものがあばきだされるが―――《をもって営まれる》からである。
要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。
付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。
われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。
記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。
人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、―――人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。―――お察しのとおり、私の考えは、こうだ
―――意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ畜群的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ畜群的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。
また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、「自己自身を知ろう」と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における「平均的なもの」だけであるだろう、
―――われわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によって―――意識の内に君臨する「種族の守護霊」によって―――いわば《多数決にかけられ》、畜群的遠近法に訳し戻される。
われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。
それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》・・・これこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法論である。
《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡俗化された世界にすぎない、
―――意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、畜群的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている。
結局のところ、増大する意識とは一つの危険なのだ。そして、極度に意識的となったヨーロッパ人のあいだに生活する者は、その上それが一つの病気でもあることを知っている。
お察しのことだろうが、ここで私が問題としているのは、主観と客観の対立などではない。こんな区別だてなど、文法(俗流形而上学)の罠にかかったままでいる認識論者諸君の手に一任する。
ましてやそれは、「物自体」と現象との対立といったものではさらさらない。なぜなら、われわれの「認識」は、そうした《区別》だけでもやれるにはまだまだ遥かに不充分だからだ。
われわれは《認識》のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有っていない。
われわれは、人間畜群や種族のために《有用だ》とされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。
しかも、ここで「有用」と呼ばれるものでさえも、所詮また一個の信仰、一個の妄想にすぎず、また恐らくそれこそは、われわれをいつかは破滅させるあの宿命的な蒙昧さであるかもしれない。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第五書、三五四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.391-395、[信太正三・1994])
(索引:意識の発生,言語の起源,畜群的遠近法)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
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