2021年12月5日日曜日

社会科学はもともと、社会を改善する提案に対する批判を通じて発展してきたが、技術的社会科学は、これを継承する。それは、(a)有意義な理論の源泉であり、(b)科学的な基準に準拠しているがゆえに、(c) 形而上学的思弁への歯止めにもなっている。(カール・ポパー(1902-1994))

技術的社会科学の効用

社会科学はもともと、社会を改善する提案に対する批判を通じて発展してきたが、技術的社会科学は、これを継承する。それは、(a)有意義な理論の源泉であり、(b)科学的な基準に準拠しているがゆえに、(c) 形而上学的思弁への歯止めにもなっている。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の改善提案への批判的研究
 社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。
(b)有意義な理論の源泉
 技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろう。
(c)科学的な基準への準拠
 技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなる。
(d)形而上学的思弁への歯止め
 とくに本来的な社会学の分野では、思弁的 傾向から形而上学の領域に足を踏み入れがちであるが、この歯止めになる。

「社会科学は、ごく一般的に言うなら社会を改善する提案に対する批判を通じて、より厳密 に言うなら、経済的あるいは政治的なある特定の行為が期待された望ましい結果を生み出す可 能性が高いかどうかを知る試みを通じて、発展してきた。私が社会科学への技術的アプロー チ、あるいは「ピースミール社会技術」と言うとき念頭に置いているのは、このようなアプ ローチなのである(古典的アプローチと呼んでいいだろう)。  社会科学分野における技術的問題は、「民間」的性格を持つこともあれば「公共」的な性格 を持つこともある。たとえば企業経営の技法や、労働条件の改善が生産高に及ぼす効果などを 研究するのは前者の問題である。刑務所の改革や国民皆健康保険、裁判所を用いた物価の安定 化、新関税の導入などが所得の平等化にどう影響するかを研究するのは第二のカテゴリーに属 する。今日とくに緊急度が高いいくつかの実践的問題も公共的問題である。景気循環はコント ロールできるか、生産の国家管理という意味での中央集権的「計画」は、民主的で効果的な行 政管理と共存できるか、どのように中東に民主主義を輸出するか、などである。  実践的で技術的なアプローチを強調するからといって、実践的問題の分析から生じるかもし れないあらゆる理論的問題を除外すべきだと主張しているわけではない。それどころか、技術 的アプローチは、そこから純粋に理論的で有意義な問題が生まれるという点で実りあるものと なるだろうというのが、私の主要な論点の一つなのである。  しかし、技術的アプローチには、問題を選別するという基本的課題で有用であることに加え て、私たちの思弁的傾向を律する働きもある(とくに本来的な社会学の分野では、この思弁的 傾向から、私たちは形而上学の領域に足を踏み入れがちである)。なぜなら、技術的にアプ ローチすることで、私たちは、明晰性の基準や実践的検証可能性など、ある決まった基準に 従って理論を立てざるをえなくなるからである。技術的アプローチに関する私の主張のポイン トは、こう言えばはっきりするかもしれない。社会学は(おそらく社会科学一般でさえ)「そ れ自身のニュートンあるいはダーウィン」を見つけようとするのでなく、自身のガリレオある いはパスツールを見つけようとすべきである。  以上の議論、そしてまた社会科学の方法と自然科学の方法の間のアナロジーについて私がこ れまで述べてきたことは、多くの反論を引き起こすだろう。「社会技術」、「社会工学」とい う言葉の選び方が(「ピースミール」という単語で表現される重要な限定にもかかわらず)反 論を呼び覚ますのと同じである。私はただ、こう言っておけばよかったのかもしれない――私は 教条的な方法論的自然主義、あるいは(ハイエク教授の用語を使えば)「科学主義」に反対す る闘いの重要性を全面的に認めている、と。  たしかにこのアナロジーはある分野でひどく誤解され、誤った使い方をされていることはわ かっているが、それでも私には、実りの多いこのアナロジーを利用すべきでない理由が思い当 たらない。加えて、これら教条的自然主義者に対して、彼ら自身が攻撃している方法論の一部 が、自然科学で使われる方法と基本的に同じであることを示してみせることこそが、最も強 力な反論になると言える。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,20 社会学への技術的アプローチ,pp.108-110,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰 (訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







技術的社会科学は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠となるはずの事実を、すべて見つけ出すことを目標とする。それは、制度設計に制約を課すような各種法則であり、社会生活の一般法則の研究へとつながるだろう。 (カール・ポパー(1902-1994))

技術的社会科学

技術的社会科学は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠となるはずの事実を、すべて見つけ出すことを目標とする。それは、制度設計に制約を課すような各種法則であり、社会生活の一般法則の研究へとつながるだろう。 (カール・ポパー(1902-1994))


「歴史主義者によれば、社会学者の務めは、社会構造がそれに沿って変化するような《広範 なトレンド》についての一般的な観念を得るべく努力することであるという。それだけでな く、社会学者はこのプロセスの原因、変化をもたらす力の働きを理解すべく努めなければなら ない。社会の発展の底に流れる一般的トレンドについて仮説を形成する努力が必要である。そ うした法則から予言を導き出すことにより、差し迫った変化に自身を適応させられるというの である。  先に、二種類の予測と、それに関連する二種類の科学を区別したが、この区別をさらに深く 考察すれば、社会学についての歴史主義者の考え方をより明確にできる。  歴史主義者の方法論に対して、私たちは《技術的社会科学》を目的とする別の方法論を考え ることができる。この方法論は、社会制度改革を目指す者全員の仕事の基盤として不可欠とな るはずの事実をすべて見つけ出すことを目標とする、社会生活の一般法則の研究へとつながる だろう。  そうした事実が存在することに疑いの余地はない。私たちは実際、単純にこれらの事実を十 分に考慮していないがゆえに実践不可能となっているユートピア主義的システムを数多く知っ ている。私たちが考えている技術的方法論は、このような非現実的構想を避ける手段をもたら すことを目指すものだ。それは反歴史主義的ではあるが、けっして反歴史的ではない。歴史的 経験は、この種の情報の最も重要な源泉となるはずである。ただ、技術的方法論は社会発展の 法則を見出そうとするのでなく、社会制度の構築に制約を課すような各種法則を探そうとす る。別の種類の一様性(歴史主義者は、そのようなものは存在しないというが)を探究するの である。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第2章 歴史主義の親自然主義的な見 解,16 歴史的発展の理論,pp.86-88,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







予測対象に干渉してしまう予測があるのは、事実である。しかし、科学的予測は、社会現象に対しても意味があるし重要である。まず、理論の検証・反証のための予測と、実践的価値を持つ予測がある。例えば、介入困難な対象の予測(予言と呼ぶ)や、ある目的を持って介入するための予測(技術的予測、設計)などである。(カール・ポパー(1902-1994))

予言と技術的予測

予測対象に干渉してしまう予測があるのは、事実である。しかし、科学的予測は、社会現象に対しても意味があるし重要である。まず、理論の検証・反証のための予測と、実践的価値を持つ予測がある。例えば、介入困難な対象の予測(予言と呼ぶ)や、ある目的を持って介入するための予測(技術的予測、設計)などである。(カール・ポパー(1902-1994))




「たしかに一部の歴史主義者は、人類の遍歴のすぐ次の段階を、しかも非常に慎重な言葉遣 いで予測するだけで満足している。それでも、〈社会学的研究は政治的未来を見通す助けにな るべきであり、そのことで社会学は長期的視野を持つ実践的政治の第一の主要な道具となりう る〉という認識は、歴史主義者全員に共通している。  科学的予測の重要性は、科学の実践的価値という観点から十分に明らかである。しかし、科 学における予測には二種類あるということ、それに応じて実践的なあり方にも二種類あるとい うことは、常に認識されてきたわけではない。予測には、まず(a)台風の接近予報のようなも のがある。これのおかげであらかじめ安全な建物に避難できるなど、非常に大きな実践的価値 がある。次に(b)ある避難施設を台風に耐えられるようにするには、たとえば北側に鉄筋コン クリートの支えを入れるなど、ある決まったやり方で建てる必要があるというような予測もあ るだろう。  この二種類の予測は共に重要で、古来の願いを実現するものではあるが、明らかに大きく異 なる。片方は、そのできごと自体を防ぐ手段がないことの予測で、私はこの種の予測を「予 言」と呼ぶ。その現実的価値は、予測されたできごとについて警告を受け取り、それを避けた り、それに備えたりできるという点にある(その対応には、もう一方の種類の予測も助けにな るだろう。)  これと反対の第二の予測は「技術的」な予測と呼ぶことができる。この種の予測は工学技術 に基づくからである。それはいわば建設的な予測であり、ある結果を得ようとするときに私た ちに採用できるステップを暗示するものである。物理的科学の大部分(天文学と気象学を除く ほぼすべて)が行なう予測はこの種のものであり、実践的見地からして、技術的予測と言って 差し支えない。  これら二種類の予測の区別は、ほぼ次の点に対応する。すなわち、その科学の分野で、単な る忍耐強い観察ではなく、設計された実験がどの程度重要な役割を演じているか、である。典 型的な実験科学は技術的予測をすることができ、おもに非実験的な観察を行なう科学は予言を 行なう。  こう言ったからといって、すべての科学、あるいはすべての科学的予測が基本的に実践的な ものだと示唆していると誤解しないでほしい。あるいはすべての科学的予測は必ず予言的であ るか技術的であって、ほかの予測はありえないと示唆しているわけでもない。私はただ、二種 類の異なる予測があって、それに対応する二種類の科学のあり方があるという点に注意を向け たいだけである。  「予言的」「技術的」という言葉遣いを選んだ点について言えば、たしかに実践的観点から 見た場合のそれれの予測の特徴を暗示しようと考えた。しかしこの言葉遣いは、実践的な観点 がほかの観点より優れているとか、科学の関心が実践的に重要な予言と技術的性格を持つ予測 とに限定されているとかいうつもりで選んだわけではない。たとえば天文学を考えるとき、そ の発見には実践的な観点から無価値とは言えない面があるとはいえ、やはりおもに理論的な関 心事であることは認めざるをえない。それでも「予言」としての天文学的予測は、気象学的予 測にごく近いものであり、実践活動に対して持つ価値はきわめて明白なのである。  科学の持つ予言的性格と工学的性格とのこの違いは、長期的予測と短期的予測の違いに対応 するものではないという点は指摘しておく価値がある。大半の工学的予測は短期的だが、長期 的な技術的予測というものも存在する(発動機の寿命など)。天文学的予言にも、短期的なも の、長期的なものがあるだろう。気象学的予言の多くは比較的短期のものである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第2章 歴史主義の親自然主義的な見 解,15 歴史的予言と社会工学,pp.82-85,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰 (訳)

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。(カール・ポパー(1902-1994))

状態の歴史性、新奇性

生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。(カール・ポパー(1902-1994))

(a)歴史性
 歴史主義は、集団の現 在を理解して説明し、さらには集団の未来の進展を理解し、おそらくは見通したいと願うな ら、その集団の歴史を、その伝統と制度を研究する必要があると主張する。
(b)新奇性
 物理学の新奇性は、それ自体は新しくはない要素や要因の組み合わせや配 置の新しさにすぎない。それに対して社会生活の新奇性は本当の新しさであり、配置の新奇性 には還元できない。
(c)対象系の現在の状態
 物理系だけでなく、生物や人間、社会も、現在の状態が分かれば、対象系そのものについては、全ての情報が知られているという直感があるが、これは正しいだろうか。正しい。
(d)現在の状態としての過去の記憶
 問題は、対象系の現在の状態は、どのようにして知られるのかということだ。生物や人間、社会においては、過去の記憶が現在と未来の系の状態に影響を及ぼす。もし、系の現在の状態の中に、この過去の記憶を情報として読み出すことが可能なら、現在の状態だけで必要な全ての情報が得られる。
(e)歴史性、新奇性とは?
 生物や人間、社会の歴史性、新奇性とは、現在の状態の中に埋め込まれている過去の記憶が、情報として、系の変化と未来の状態に大きな作用を及ぼすという特性の別名である。現在の状態の中にその情報を読み取るのが困難な場合、過去を知ることが、その情報を読み解く代替策となる。

「物理的科学の方法を社会科学に適用できないことについては、さらに深い理由があると、 多くの歴史主義者は考えている。    
 すべての「生物学的」科学、すなわち生きている対象を扱うすべての学問と同様に、社 会学は原子論的にではなく、現在では「全体論的」と呼ばれている方法で考えを進めなければ ならない。なぜなら、社会学の対象である社会集団は、単に個人の総計と見なしてはならない からである。  社会集団はメンバーの単純な合計《以上》のものであり、また、いずれかの時点に存在する いずれかのメンバー間の個人的関係の合計《以上》のものだからである。このことは、三人の メンバーからなる単純な集団においてすら容易に見て取れる。同じ三人からなる集団であって も、最初に組織を作ったのがメンバーAとメンバーBであった場合と、メンバーBとメンバーCで あった場合とでは、集団の性格が異なる。この事例は、集団には独自の《歴史》があり、集団 の構造はその歴史に大きく依存するという主張(第3節「新奇性」も参照)の意図するところ をわかりやすく示していると言えよう。主要メンバー以外の一部のメンバーが抜けても集団の 性格を維持することは容易である。創設当初のメンバーが《全員》いなくなり、新しいメン バーに入れ替わっても、元の集団の性格の多くが保たれていることさえ考えられる。しかし、 メンバーの入れ替わりが徐々に進むのではなく、新しいメンバーがまとまって新しい集団を 作ったとしたら、徐々に入れ替わったときと同じメンバーの集団であっても、まったく異なる 集団になっていた可能性がある。  各メンバーのパーソナリティは集団の歴史と構造に大きく影響するが、集団自身が独自の歴 史と構造を持つことはできる。集団が構成メンバーのパーソナリティに強く影響を及ぼすこと もありうる。
 すべての社会集団には独自の伝統と独自の制度、独自の習慣がある。歴史主義は、集団の現 在を理解して説明し、さらには集団の未来の進展を理解し、おそらくは見通したいと願うな ら、その集団の歴史を、その伝統と制度を研究する必要があると主張する。社会集団は全体論的な性格を持ち、構成メンバーの単なる総和から余すことなく説明できる わけではないという事実は、物理学の新奇性と社会生活の新奇性を区別する歴史主義の主張に 光を投げかける。〈物理学の新奇性は、それ自体は新しくはない要素や要因の組み合わせや配 置の新しさにすぎない。それに対して社会生活の新奇性は本当の新しさであり、配置の新奇性 には還元できない〉というのが、歴史主義の主張だった。社会構造が一般にその部分や成員の 組み合わせとして説明できないとしたら、この方法で《新しい》社会構造を説明することは明 らかに不可能なのである。  一方、物理学的な構造は、部分の単なる「配列」つまり総計と、その幾何学的配置とによっ て説明できると、歴史主義は主張する。  
 太陽系を例に取ると、太陽系の歴史は興味深い研究対象であろうし、その研究が現在の 太陽系の状態の理解に光を投げかけることはあるかもしれないが、ある意味で、太陽系の現状 はその歴史から独立しているということを私たちは知っている。  太陽系の構造や、将来の運動、発展は、太陽系を構成する天体の現在の配列により確定して いる。ある瞬間の各天体の相対的位置、質量、運動量が与えられれば、太陽系の将来の運動は 完全に決まる。どの惑星が古いとか、どの天体が太陽系外からやってきたといった付加的な知 識は必要ないのである。構造の歴史は、それ自体興味深いものではあるかもしれないが、太陽 系の振る舞いやメカニズム、将来の進展についての理解には何も寄与しない。  この点で、物理学的構造が社会構造と大きく異なることは明らかである。社会構造は、一瞬 の「配列」が完全にわかったとしても、歴史について細心の研究なしには理解できず、その将 来を予測することはできない。  
 こうした考察は、歴史主義と、いわゆる社会構造の《生物学的》あるいは《有機体的理論》 と呼ばれるものとの密接な関係を強く示唆する。社会構造の生物学的あるいは有機体的理論と は、社会集団を生命体のアナロジーで解釈する理論である。実際全体論は生物学的現象一般を 特徴づけるものとされているし、さまざまな生命体の歴史がその行動にどのように影響するか を考察する際には、全体論的アプローチが欠かせないものと見なされている。  このように、歴史主義の全体論的な議論は、社会集団と有機体との類似性を強調する傾向を 持つ。ただし、歴史主義が必ず社会構造の生物学的理論を受け入れるとは限らない。同様に、 《集団的伝統》の担い手として《集団精神》が存在するというよく知られた理論も、それ自体 が必ずしも歴史主義的議論の一部であるわけではないが、全体論的な見解と密接に関連してい る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,7 全体論,pp.44-48,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)








制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択された側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。第0次近似モデルとして、完全に合理的な個人の集合モデルを構築し、これからの乖離で現実社会の評価をする等の手法もあり得る。(カール・ポパー(1902-1994))

仮説モデルとしての社会的存在

制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択された側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。第0次近似モデルとして、完全に合理的な個人の集合モデルを構築し、これからの乖離で現実社会の評価をする等の手法もあり得る。(カール・ポパー(1902-1994))



()仮説モデルとしての社会的存在
 制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。
()第0次近似モデル
 人間は、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能である。例として、関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し、モデル化する。そして、実際の人々の行動は、この第0次近似モデルからの乖離として評価する。



「ここで、複雑性の問題(第4節参照)について、ごく簡単に付け加えておこう。個々の具 体的な社会状況が、その複雑性ゆえに分析困難であることに疑いの余地はない。しかし同じことは個々の具体的な物理的状況についても言えるのである。  社会的状況は物理学的状況よりも複雑だという先入観は広く見られるが、そこには二つの由 来があるように思える。一つは、私たちが比較すべきでないものを比較しがちだということ、 つまり、片方は具体的な社会状況であるのに、それに対するのは人為的に隔離された実験的物 理状況だということである(後者と比較するのならば、人為的に隔離された社会状況、たとえ ば刑務所や、実験的な共同体のほうがいいだろう)。もう一つは、社会的状況の記述は関係す る万人の精神的状況を、そしておそらくは身体的状況をも含んでいなければならない(場合に よってはそこに還元されるべきである)という古くからの信念である。  しかしこの信念は正当化されない。個々の化学反応の記述が、関係するすべての元素の原子 の状態や原子内部の状態の記述を含んでいなければならないという要請は(化学が物理学に還 元可能だとしても)実行不可能なものだが、右の信念はその要請よりもさらに正当化されな い。この信念はまた、制度や団体などの社会的存在が、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルではなく、人間の群衆のような具体的な 自然的存在であるという、一般に流布しているものの見方の痕跡を示している。  しかし実際、社会科学が物理学より複雑でないというだけでなく、個々の社会状況は一般に 個々の物理的状況ほど複雑でないと考えてしかるべき十分な理由がある。すべてとは言わない までも大半の社会状況では、《合理性》という要素がある。もちろん人間がまったく合理的に 振る舞う(すなわち、どのような目的があるにせよ、あらゆる入手可能な情報をその目的の達 成のために最適な使い方ができる場合にするように振る舞う)ということがほとんどないこと は明らかだが、それでも、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能 なのである。  実は、この最後の点が、自然科学と社会科学の大きな相違――それもおそらく《方法上の最も 重要な相違》――を示しているように私には思える。というのは、実験の実施に伴う特定の難点 (第24節末尾を参照)や、定量的方法を適用する際の難点(後の記述を参照)といったほかの 重要な相違点は、質的な違いではなく程度の違いだからである。  私が可能であると示唆しているのは、論理的構築または合理的構築の方法と言えるもの、す なわち「ゼロ方法」を社会科学に適用することである。  私の言う「ゼロ方法」とは、次のようなものである。関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し(またおそらく完全な情報を持つことも仮定し)、そのモデル的行動を ある種の座標原点(座標ゼロの点)として、そこからの実際の人々の行動の乖離を評価する。 例を挙げるなら、実際の行動(たとえば伝統的な先入観などの影響のもとにある)と、経済学 の方程式で記述されるような「純粋な選択論理」に基づいて期待されるモデル的行動とを比較 するのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.226-230,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良

カール・ポパー
(1902-1994)









明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価が容易であり、大多数の人々の支持も得やすい。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する漸次的闘い

明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価が容易であり、大多数の人々の支持も得やすい。(カール・ポパー(1902-1994))

(a)評価の容易性
 明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていく手法は、成否の評価がずっと容 易であり、本来的に権力の集中や批判の抑圧につながるべき理由を持たない。
(b)合意の得やすさ
 具体的な 悪や危険に対するこうした闘いは、大多数の人々の支持を得やすい。  

「ピースミール的手法は、(全体論者がしがちなように)何らかの究極の善を求め、そのた めに闘うのではなく、社会の中で最も大きく最も差し迫った害悪を探し求め、それに対して闘 うために用いることができる。ところが、明確な悪事、具体的な形の不正や搾取、貧困や失業 のような回避可能な苦難と一つ一つ闘っていくことは、遠大で理想的な社会の青写真を実現し ようとすることとはまったくの別物である。そのような闘いの手法は、成否の評価がずっと容 易であり、本来的に権力の集中や批判の抑圧につながるべき理由を持たない。また、具体的な 悪や危険に対するこうした闘いは、計画者には理想と見えているであろうユートピアを建設す る闘いよりも、大多数の人々の支持を得やすい。  このことは、以下の事実になにがしかの光を投げかけるだろう。すなわち、攻撃にさらされ 防衛に回っている民主主義国家では、そのために欠かせない大規模な施策(その施策は、全体 論的計画のような性格を帯びることさえあるかもしれない)への十分な支持が、《民衆の批判 を抑圧しなくても》いずれ得られるだろうが、攻撃を準備したり侵略戦争を行なっていたりす る国家では、侵略を自衛であると見せて民衆の支持を動員するために、基本的に民衆の批判を 抑圧しなければならない、という事実である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.156-157,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)







政治権力と社会的知識は相補的である。権力が強くなるほど、自由で批判的な思想とその表明は抑制され、最終的には知識が破壊される。たとえ善意であっても、集権化が必要な政治改革の企ては、個人の違いを無視することで問題を単純化し人々の関心や信念を統制しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))

政治権力と社会的知識の相補性

政治権力と社会的知識は相補的である。権力が強くなるほど、自由で批判的な思想とその表明は抑制され、最終的には知識が破壊される。たとえ善意であっても、集権化が必要な政治改革の企ては、個人の違いを無視することで問題を単純化し人々の関心や信念を統制しようとする。(カール・ポパー(1902-1994))



「全体論的計画に科学的方法を取り込むことには、これまで示してきた以上に根本的な部分 で難点がある。全体論的な計画を立てる者は、権力を集中することは容易であっても、多くの 人々の頭の中に散らばった知識を集積することは不可能であるという事実を見逃している。し かし、集権化した権力を賢明に行使するには、こうした知識の集積が不可欠なのである。  この事実は重大な帰結をもたらす。全体論的計画者は、これほど大人数の頭の中を確認でき ないため、個々の違いを無視することで問題を単純化しようとせざるをえない。教育やプロパ ガンダを通じて、人々の関心や信念を統制し、ステレオタイプ化しようと努力するしかないの である。しかし、人の心に権力を振るおうとするこの試みは、人々の本当の考えを見出す最後 の可能性も、必ず潰すことになる。そうした試みは、思考の、とりわけ批判的な思考の自由な 表明とは明らかに相容れないからである。最終的に、それは知識を破壊する。手にする権力が 大きくなればなるほど、失われる知識も大きくなる(つまり、政治権力と社会的知識は、ボー ア的な意味で「相補的」に見える――最近よく使われるけれども意味のつかみにくいこの「相補 的」という言葉を、これほどわかりやすく説明する例はほかにないかもしれない)。  以上述べてきたことはすべて、科学的方法の問題に限定した話である。そこには暗黙のうち に、計画を立てるユートピア主義的工学者――少なくとも独裁権力に近い権威が与えられている ――の基本的な善意に疑問を呈する必要はないという途方もない前提がある。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.154-156,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

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カール・ポパー
(1902-1994)








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