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2019年8月10日土曜日

妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の才能や技能と、妥当な報酬

【妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (3.5)個人の才能や技能と、妥当な報酬
  (a)社会に対する貢献度
   (a.1)社会は、より有能な労働者から多くを得ている。共同の成果のうち大きな割合は、実際には有能な人の労力によるものである。
   (a.2)しかし、共同の成果のうち、性質の異なる様々な労力の成果を、どのようにすれば正当に評価することができるだろうか。
  (b)偶然的な出来事の影響
   (b.1)偶然的な出来事や幸運から、ある人は大きな成果を上げ、他の人は、自らは何の過ちも犯していないのに、成果が上げられなかったとしたら、どうだろう。全力を尽くす人は、誰であっても同じ報酬を受けるに値するのではないだろうか。
   (b.2)生まれながらに、様々な資質を持った人びとがいる。ある人は、生まれ落ちた時代と社会において大きく評価される資質を持っており、他の人はそのようなものを持っていない。また、ある人は特定の能力を欠いて生まれてくる場合もある。
  (c)人の有能さの由来
   そもそも有能な人も、その有能さを社会から与えられたというのが事実である。生まれ落ちた家庭の環境、与えられた教育と社会的環境が、その人の有能さを育んだ。この意味で、個人の有能さは個人の努力の成果というだけではなく、同時に社会的環境の成果物でもある。
  (d)社会の果たすべき役割
   (d.1)有能な人の貢献が社会にとって有用だとしたら、社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っているのではないか。
   (d.2)優れた能力をもっている人は、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉を持っていることによって、すでに十分すぎるほどに利益を得ている。社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることである。
  (e)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「共同体的な産業アソシエーションにおいて、才能や技能をもつ人はより多くの報酬を得る権利があるというのは正義なのだろうか、そうでないのだろうか。

この問題を否定的に考える側は、全力を尽くす人は誰であっても同じ報酬を受けるに値するし、自らは何の過ちを犯していないのに低い立場におかれることは正義ではないと論じている。

そして、優れた能力をもっている人は、世俗的な財貨についてより多くの分け前を受け取ることはなくても、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉をもっていることによってすでに十分すぎるほどに利益を得ているし、正義のために社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることであると論じている。

これに反対する側は次のように強く主張している。社会はより有能な労働者から多くを得ている。そのような人の貢献が有用だとしたら社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っている。

共同の成果のうち大きな割合は実際にはその人の労力によるものであって、それに対するその人の権利を認めないのは一種の略奪である。

その人が他の人と同じ報酬を受け取れないとしたら、その人は他の人と同じくらいの生産を行うことしか求められず、その人の優れた能力に比べてみればわずかの時間と労力を割くことしか求められないことになる。

誰がこれらの相反する正義の原理への訴えの間で評決を下せるだろうか。この事例では正義は二つの側面をもっていて、それは調和させることのできないものである。

双方の論者はそれぞれ相対する側を選び取っており、一方は個人が何を受け取ることが正義なのかに関心を向け、他方は共同体が何を与えることが正義なのかに関心を向けている。

いずれもそれぞれの視点からは反論の余地はない。正義を考慮しながらそれらのうちいずれかを選んだとしても、それはまったく恣意的なものにならざるをえない。社会的功利性だけが優劣を決めることができる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.335-336,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:妥当な報酬,個人の才能や技能,社会に対する貢献度,偶然的な出来事)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年4月16日月曜日

永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

永遠の決定と自由意志

【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。しかし、いずれを選ぶかに無関心であってはならないし、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。私たちにのみ依存する部分を正確に見きわめ、この部分以上に欲望が広がらないようにすること。そして、理性が認識できた最善を尽くすこと。

 「ゆえに、わたしたちの外部に偶然的運があって、その意向のままに、事物を起こさせたり起こさせなかったりしている、という通俗的意見を、まったく捨て去らねばならないし、そして次のことを知らねばならない。

すべてが神の摂理に導かれている。その摂理の永遠の決定は、不可謬かつ不変なので、その決定がわたしたちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、わたしたちに必然的、いわば運命的でないものは何も起こらない、と考えねばならない。

したがって、わたしたちはそれと別様に起こるように欲すれば、必ず誤る。以上のことを知らなければならない。

しかし、わたしたちの欲望の大部分は、まったくわたしたちだけに依存するのでもなければ、まったく他に依存するのでもない、そうした事物にまで及んでいるから、これらのものにおいて、わたしたちにのみ依存する部分を正確に区別すべきである。

この部分以上にわたしたちの欲望が広がらないようにするためだ。

残りの部分については、その首尾はまったく運命的かつ不変と認めて、わたしたちの欲望がそれにかかわらないようにすべきである。

しかしやはり、その部分をも多少は期待させてしまう諸理由を考察することで、わたしたちの行動を統御するのに役立てるべきである。

たとえば、ある場所に用事があって、そこへは二つの違った道を通って行くことができ、その一方の道はふだんは、他方の道よりはるかに安全だ、という場合がある。

ところが、摂理の決定によればおそらく、このより安全と考えられる道を行けば必ず強盗に出会い、反対にもう一方の道はなんの危険もなしに通れることになっている。

だからといってわたしたちは、そのいずれかを選ぶことに無関心であってはならないし、また、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。

が、理性は、通常はより安全である道を選ぶことを要求する。

そして、わたしたちがその道に従ったとき、そのことからいかなる悪が起こったとしても、わたしたちの欲望はこれに関してはすでに達成されているはずなのだ。

なぜなら、その悪はわたしたちにとっては不可避であったから、その悪を免れたいと望む理由はまったくなく、わたしたちはただ、上述の仮定でなしたように、知性が認識できた最善を尽くせばそれでよかったのだから。

そして、このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四六、pp.125-127、[谷川多佳子・2008])
(索引:二つの道の喩え、自由意志、私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、永遠の決定)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私たちに依存しないもの

【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 結果を生む原因のすべてを知り尽くしてはいないにもかかわらず、私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じる場合には、かつてそれに似たものが起こったことがあると判断し、ただそれらを「偶然的運」と考えているのである。しかし摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。もし、それが起こらなかったときは、生起に必要であった原因のどれかが欠けていたのであり、したがってそれは絶対に不可能なものであったのだ。私たちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。すなわち、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻なのである。

 「したがって摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。

そうやって、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻として打破されるべきものとなる。

たしかに、わたしたちは、ともかくも可能だと認めるものだけを欲望できる。

そしてわたしたちに依存しないものを可能だと認めるのは、ただそれらが偶然的運に依存すると考える場合である。つまり、それらは起こりうる、かつてそれに似たものが起こったことがある、と判断する場合である。

ところで、このような意見は、わたしたちがいちいちの結果を生むにあずかった原因のすべてを知り尽くしてはいないことにもとづくだけなのである。

事実、わたしたちが偶然的運に依存すると認めたものが起こらないとき、それによって明らかになるのは次のことだ。

偶然的運によって起こると考えられたものの生起に必要であった原因のどれかが欠けていたこと、したがってそれは絶対に不可能なものであったこと、また、それに似たものも、かつて起こらなかったこと、つまりその生起のためには同様の原因がやはり欠けていたこと。

そこで、もしわたしたちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。」

(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四五、pp.124-125、[谷川多佳子・2008])
(索引:私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、原因)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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