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2022年1月27日木曜日

形而下的なものも精神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あらゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自由や名声や権力や快楽を求めて有機的に組み合わされ、人類の歴史の諸段階を構成する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

摂理に導かれた諸個人の相互作用

形而下的なものも精神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あらゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自由や名声や権力や快楽を求めて有機的に組み合わされ、人類の歴史の諸段階を構成する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

「ライプニッツ(その発展説とヴィーコの説は符合する場合もあるのだが)とは違って、 ヴィーコは、十分な洞察力を具えた理知なら、所与の人間の魂や「時代精神」の構造を見抜く だけで、それがどんなものであり、どんなことをするに違いないかを、先験的に推断し得る―― ひいては全人類の過去・現在・未来の総体を、経験的証拠の助けを借りずに、原則的には算出 できる、というような意味のことは一切言っていない。また17世紀の法理学者、18世紀の啓蒙 思想家の大多数のように、比較的簡単な一群の心理的法則さえあれば、人間の性格と行動とを 分析するのに十分である、とも言わなかった。ヴィーコが作業の基盤においたのはむしろ正反 対の想定である。即ち、現実に起こったことの経験的知識、時には難解で特異なものもある が、この知識に稀有の想像力をかけ合わせてのみ、人間の性格を形造る「永遠な」パターンの 働きや、時空を隔て人種・見解を異にする社会や個人の間にも見られる心理的・社会的構造の 相似・対応の源となっている法則を、明らかにすることができる――この対応ゆえに、幾多の社 会は、互いに異なるとはいえ、一つにまとまり、それぞれあの昇りまた降る大きな螺旋階段の 一環を成すのである。この螺旋形または円環状の構造の各段階が次の段階に移る変わり方は理 解し得る、というのは各段階いずれも、一つの実体――摂理に導かれた創造的人間精神 (mente)――の発達により要請されたものだからである。この「精神」――ヴィーコは往々にし てこの言葉を、摂理に導かれて各人の要求や効用を追いつつ互いに作用し合っている人びと、 と見ているらしい――は、記憶、想像力、理智、ヴィーコの史学観に基づく新方法、これらの力 を借りて、過去における「精神」の諸状態が、未だ完全には実現されたことのない単一究極の 目標に至る諸段階であることを理解し得る。つまり、「精神」の諸能力は、各段階が、適当な 時期に先行する段階の動きによって生じた要求に応えて、生まれ来て、新しい観点、制度、生 活形態、文化、精神と感情の百般の活動と状態との「有機的な」組合せ――形而下的なものも精 神的なものも、宗教的なまた法的な、経済的また政治的、天真なものも自意識的なものも、あ らゆる活動と状態とが、恐怖、利害、愛、恥、畏れと正義感などに刺戟され、秩序や知識や自 由や名声や権力や快楽を求めて組合されたもの――を発生させるのである。このような活動と状 態との総体が、つまり人類の歴史なのだ。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,10,pp.158-159,みすず書房(1981), 小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月26日水曜日

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの創造物である人間

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ヴィーコの有神論と人文主義的歴史主義との、摂理の巧智という考えと人間の創造的自己 改革的いとなみの力説との、その間の拮抗は『新しき学』の中では融けていない。それを弁証 法的と呼ぶのは、ただ意味深甚な言葉を使って事実を隠しているに過ぎない。カトリック系の 解説者は前者を強調し、ミシュレなど人文主義思想家は後者の筋を取上げているのだ。ただ彼 の最も熱烈な発言を喚起しているのは、確かに人文主義的展望の方だと思われる。「全宇宙を 含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」神のようなと は、われわれが自分たちの創造活動を見ているからである。「物事を創った人が自ら記述する とき以上に、確実な歴史はあり得ない」。そしてまた、奇妙で晦渋だが、読む人を愕然たらし める特徴的な一節で、彼はこう付記する、「人びとは論理によって言語を発明し、道徳によっ て英雄たちを創り、家政によって家族を起こし、政治によって都市を作り、自然学によって、 ある意味で、自分たちを創った。」この「ある意味で」とはどういうことか。ヴィーコは説明 していない。人間の現在の在り方、及び彼らの信ずるところ、それは人間自ら作ったものであ る、個人個人がやったのでなければ、集団として作ったのである。もし全人類が一人の人間の ように語れるなら、おそらくすべてを記憶し、すべてを理解し、語るべきことを一切語りうる であろう。だが人間各人が単独で人類史の全体を創り出したわけではないから、人間は、たと えば数学者が己の案出したものについて知るようには、真理を知り得ない。とはいえ、歴史の 主題は現実のものであり、仮構のものではないから、『新しき学』はたとえ数学より明晰さが 劣るとはいえ、現実世界の真理を告げることができるので、これは幾何学、算術、代数学など のできることではない。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,10,pp.172-173,みすず書房(1981), 小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

言語と文化、社会、経済、政治構造

言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


「アガメムノンもヤペテも(彼らは「神々の」時代に属している)、それぞれ娘を犠牲に献 げたのは、誓いの言葉を発すること自体が、自然の因果と等しい力を持ち、言葉は、まさにそ れが口から出たことによって現状を直接に変更した(また変更せずにはおかぬ行為と認められ た)が故である。ヴィーコの考えでは、言葉がこのように機能し得る社会は、言葉がただ叙述 し、説明し、表現し、祈り、命令し、若干の言葉遊びを行うなどの用途にしか使えない社会と は、全く異なった具合に、見、感じ、考え、行動するに違いない。  この説が――その他のヴィーコ独特の仮説のどれにしても――正しいかどうかはさして重要では ない。重要なのは、それらによって彼の成し遂げたところである。彼の発生論による語原説や 言語学は、大部分明らかに誤っていたり、ナイーヴであり、また奇想天外である。しかし、言 語形式が言葉を使う人びとの精神に至る鍵であり、さまざまな社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵であるという、含みの多い革命的真理を把握したのは、わたしの知る限り、 ヴィーコが最初であったことも同様に明らかである。ある特定の言い回し、ある言語の用法と 構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、「有機的」な連関を持っていることを、彼はそれまでの誰よりも、(1世紀 半前の)偉大なヴァルラやその弟子たちよりも、遥かに明らかに看取したのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,5,pp.119-120,みすず書房(1981),小 池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

真なるもの、作られたもの

「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「この時代、ほとんどすべての人が、数学とは自然についての事実の知識の一形態であり、 あらゆる科学の中でも最も深遠・確実で啓示するところの大きいもの、粗野な五感にはとても 望めぬほどの能力を具えた形而上的洞察の対象、事物のしばしば曖昧で常に人を誤る外観を退 けて、その真の属性を明かす力を持った人間理性の誇り、と考えていたが、その時に、なるほ ど数学は甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それはわれわれの精神の自由な所産で あるからのこと、数学の命題が真実なのはわれわれ自身で作ったからである、と宣言するの は、まことに重大な一歩であった。ヴィーコの有名な一句「真なるもの(verum)と作られた もの(factum)とは言い換えられる」はこのような意味なのである。ヴィーコがこの原理を 表明した時に列席していた名士たち、ナポリ総督やグリマーニ枢機卿が、果たしてこの発言の重大性に気づいていたかどうかは、大いに疑ってよいであろう。この点では、彼らも当時の学 者、いやその後の知識人たちとも変わりはなかったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.56-57,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間が自ら創造した世界

人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)創造の媒体と創造の規則
 ある物の創造者には、特にその物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。
(b)媒体の制限の影響を受けつつ自由に創造する場合
 作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない。作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である。
(c)ほとんど媒体の影響を受けないと考えられる場合
 芸術的創造が純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど我々は「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。



「「原因を閲した」知識が他の知識より優れているという見解は古くからあり、スコラ哲学 の中にも再三見られるものである。神もそのように世界を知っておられる、何故ならば、神 は、神のみが知るやり方で、また理由から、世界を創られたのであるから。一方、われわれ人 間は、世界をそれほど十分には知り得ない、何故ならば、われわれがそれを作ったのではない ――いわば、「出来合い」として発見し、「ままならぬ事実」として与えられたのであるから。 ある物の創造者には、特に(神の場合のように)その物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。彼はそれについて残らず答え得る。自分自身の意思に応じて、その存在と機 能のいわれを心得ている材料を使って作ったのだ。その材料にしても自分の意向にかなうよう に作ったのだから、(作者として)自分だけは十分わかっているわけである。これは例えば、 小説家が自作の小説の登場人物を十分理解し得る、画家や作曲家がその絵画や歌曲を十分解し 得るといえるのと同じ意味である。なるほど作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない――作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である――この与えられた媒体を、ある制限内 で、彼は自由に選べるが、いったん選んでしまえば、何故それがこれこれの性質を具えている か、その理由は必ずしも解さないまま――「原因を閲して」知ることなきまま――その媒体に従わ ざるを得ない。それゆえ、われわれが何ものかを文字通り無から作り構想したような理想的な 場合のみ、われわれはわれわれの作ったものを十分に理解しているといえる。というのは、そ ういう場合、創造することと何のために何を創造したかを知ることが単一の行為だからであ る。神が世界を創造されたのはこのような具合なのだ。芸術的創造がこの極限状況に近づけば近づくほど――純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど――われわれは「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。そこで用いられる(耳で聴 き眼で見る)記号の形は、たしかに感覚にかかわる素材ではあるが、それらは全く恣意に選ん だもので、いわば勝手に考案したゲームの数取りとして使っているのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.52-53,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月25日火曜日

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

過去を再構成する想像力による学問

学問には、(a)先験的=演繹的な学問、(b)帰納的=経験的な学問、(c)過去を再構成する想像力による学問がある。象徴体系、表現の手段、表現様式を理解し、その前提である変化する現実、人間の歴史を再構成する。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)













(a)先験的=演繹的な学問
(b)帰納的=経験的な学問
(c)過去を再構成する想像力による学問
 (i)社会の変化成長の過程は、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動とは、並行する。
 (ii)象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化する。
 (iii)表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像を探究する。
 (iv)体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実、人間の歴史を探究する。

目的(文化、時代)、現実
 ↓
象徴体系、表現の手段、表現様式
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価



「(7)それゆえに、伝統的な知識の二つのカテゴリー――先験的=演繹的と帰納的=経験的、五 感の感知によるものと、啓示によって賜ったものと――に加えて、過去を再構成する想像力とい う新種を追加しなければならない。この種の知識は、他の文化の精神生活に、さまざまな物の 見方や生き方に、「参入する」ことによって生まれる。それは想像力 fantasia の始動に よってのみ可能なのである。ヴィーコの云う想像力とは、社会の変化成長の過程と、人びとが その過程を表現しようとする象徴活動の中にも並行しておこる変化発展と、この両者を相関さ せて、むしろ前者は後者によって伝えられると考えることにより、変化過程を看取する方法な のである。というのは、象徴体系は、それ自体が象徴する現実の本質的部分であり、現実と共 に変化するものなのだから。表現の手段を理解することに始まり、それら手段が前提しかつ表現する現実像に達せんことを求めるという発見法は、歴史的真実についての一種の超越的演繹 法(カント流の意味で)である。これは従前の如き、変化する外観を通じて不変の現実に到達 する方法ではない。体系的に変化する表現様式を通じて変化する現実――人間の歴史――に至らん とする方法である。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.17-18,みすず書 房(1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

芸術作品の解釈・評価

芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。あらゆる学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究も同様である。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)












(a)芸術の解釈は時代と文化に依存する
 芸術作品は、その製作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号の目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。
目的(文化、時代)
 ↓
芸術作品の   ⇔ 芸術作品
理解・解釈・評価

(b)異なる文化の理解
 我々の時代の文化と全く異なった文化の持つさまざまな不思議な点も、その神秘を解明し得る。
(c)学術、思想、芸術、文化の歴史的研究と比較研究
 人類学、社会学、 法学、経済思想、政治哲学、言語学、宗教学、文学、あらゆる芸術、理念、あらゆる文化の、発展の歴史的な探究と、異なる人々のあいだの比較研究が、可能となる。



「(6)右の趣旨から次のこと(事実上、一つの新しい美学)が生まれる。即ち、芸術作品 は、あらゆる場所のすべての人に有効な久遠の原理ないし基準を尺度にしてではなく、その製 作者たちの時代や場所、彼らの社会の成長段階にのみ限られるような象徴記号(特に言語)の 目的、つまりは記号の固有な用法を正確に把握することにより、理解・解釈・評価されるべきである。われわれの時代の文化と全く異なっているために、あるいは野蛮な混乱として、ある いはあまりにかけ離れた異国的なものゆえ真面目に注目するに値しないと、それまで退けられ てきた文化の持つさまざまな不思議な点も、右のような尺度によれば始めてその神秘を解明し 得る。これは比較文化史の端緒であり、一群の新しい歴史の学問――比較人類学、比較社会学、 比較法学・言語学・人種学・宗教学、比較文学、芸術史学、理念史、法制史、文明史――即ち、 歴史的、つまり発生的に考えられた、最広義の社会科学と後に呼ばれるようになった知識の全 分野の緒を開くものである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.17,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月24日月曜日

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

文化の理解

人間の創造したもの、法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な どを理解するには、彼らの精神に入ってゆき、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法の規則と意義とを知ることが必要である。それは自然なものであって、人びとを操り支配するために故意に作り上げられたようなものではない。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(5)人間の創造したもの――法律・制度・宗教・祭儀・芸術作品・言語・歌謡・礼儀作法な ど――は、人を喜ばせたり、昂揚したり、智慧を教えるための人工的産物でもなければ、人びと を操り支配し、社会の安寧を促すために故意に作り上げた武器でもなくて、自己表現、他の人びとと、あるいは神と、意志を通ずるための自然な形式である。古代人の神話や寓話、儀式や 記念碑は、ヴィーコの時代に横行していた見解によれば、手のつけようのない原始人の荒唐な 幻想ないしは大衆を瞞着して彼らを狡猾苛烈な支配者に服従させるための意図からデッチ上げ たもの、ということであった。この解釈を彼は全くの虚妄と見なす。すべてを人間になぞらえ る原始言語の比喩と同じく、神話・寓話・祭儀も、ヴィーコにとっては、それぞれ原始の人び とが世界を見、それを解釈した、それなりに一貫した見方を伝えるための自然な方策である。 このように考えると、太古の人びとや彼らの世界を理解する道は、彼らの精神に入ってゆくこ と、彼らの目指したものを見つけ、彼らの表現方法――その神話・歌謡・舞踏・言語形式や慣用 句・結婚や葬礼の祭儀――の規則と意義とを知ること、これに頼るほかないということになる。 彼らの歴史を理解するには、彼らが生きる《よすが》としたものを理解することが必要であ る。ひとり彼らの言語・芸術・祭儀の真意を明かす鍵を持つ者のみが、よくそれを発見し得る であろう――ヴィーコの『新しき学』が提供しようとしたのは、まさにこの鍵であった。」 
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.16-17,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

歴史の理解

人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならない。要求・欲望・野心を持つ人間が、特定のパターンの文化の中でつくっていく歴史にはある順序があり、時代錯誤という考えも、有効な意味を持っている。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(4)ある所与の社会での活動には、そのすべてを特徴づける普遍的なパターンが存在す る。一つの社会全体の思想・芸術・制度・言語・生き方・動き方には、一つの共通した様式の 反映が見られる。この考えは文化という概念と等しい。必ずしも単一の文化とは限らない、多 数の文化が存在するのだ。その系として、人間の歴史を正しく理解するには、ある社会なり民 族なりの変転する文化の諸相に一つの連続があることを認識しなければならぬということにな る。この系は更に延びて、この連続は、単に因果によるものではなく、人間の理解し得るもの であることを含む。というのは、ある文化の相と次の相との関係、あるいは歴史的発展は、機 械的な原因結果の関係ではなく、人間の活動は目的をもつものゆえに、その時点での要求・欲 望・野心を満足させるべく意図された関係であり(その意図が実現されれば更に新しい要素や 目標を生む)、それゆえ十分な自意識を具えた人なら誰でも理解し得るはずである。またこの 連続の起こる順序も、出鱈目なものでも機械的に決定されたものでもなく、生活の要素、生活 の形式から、人間の目標志向的活動の白土に照らしてのみ説明可能な具合に、流れ出てくるも のであるからなのである。この社会的過程およびその順序は他の人びと、後世の社会の成員た ちにも理解できるはずである。というのはこの人びとも同様の企てに参加しているのであり、そのことが段階の違いこそあれ精神的・物質的発展の他段階における先人たちの生活を解釈す る手段を与えてくれるのだから。時代錯誤という考え自体が、この種の史的理解や順序立ての 可能であることを意味している。つまり時代錯誤と云うからには、文明や生き方のある特定の 発展段階に属しうるものと属し得ないものとを識別する能力を前提としているわけだ。そして それはまた、これらの社会における物の見方や信ずるところ(露わになったものも裡に潜んで いるものも)に、想像力を働かせて入ってゆく能力に依存している――このような探究は人間外 の世界にあてはめては全く意味をなさないであろう。一つの社会・文化・時代が、その因子や 要素においてはあるいは他の文明や他の時代と共通のものを持つとしても、それを組立てるパ ターンはおのおのの特定の他と識別しうる型を持っているがゆえに、それぞれ独自な性格を具 えるという考え、更にその系として、時代錯誤とは、右のような諸文明が従う理解可能で必然 的な連続の順序についての意識の欠如であえるという考え、わたくしはヴィーコ以前に、この ような意味での文化や歴史的変化について明確な概念を持っていた人がいたかどうかを疑 う。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,pp.14-16,みすず書 房(1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月23日日曜日

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自然科学と人文学

外部世界についての自然科学と、人間が自ら創造した世界についての知識である人文学は、その目標・方法・可知度が異なる。数学、言語、人間の歴史も「内部から」理解できる。人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然りである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)















(1)外部世界についての知識
 人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識である。
(2)人間が自ら創造した世界についての知識
 人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界についての知識である。
 (a)例えば、数学は人間の案出したものの知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。
 (b)人間が形成した言語の知識もそうである。
 (c)人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。
 (d)歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った「内側か らの」形で知りうる。


「(3)それゆえに、われわれ人間が観察し、叙述し、分類し、考察し得て、時間的・空間的 規則性を記録し得る外部世界についての人間の知識は、人間自身が創造した世界、人間自身が 自らの創造物に課した規則に従う世界、この世界についての知識とは、原理的に異なる。後者 の知識は、例えば、数学――人間の案出したもの――の知識であり、これについて人間は「内部か らの」観点をもっている。また、言語、自然の諸力が作ったのではなく、人間が形成した言語 の知識もそうである。ひいては、人間が作者・演者・観察者を一身に兼ねているような人間の 諸活動すべての知識もまた然り。さて歴史は人間の行動に関するものであり、人間の努力・闘 争・目標・動機・希望・危惧・態度姿勢の物語であるがゆえに、この一段と勝った――「内側か らの」――形で知りうる。これについては外部世界の知識はおそらく範例となり得ないであろう ――それゆえ、この点については、自然に関する知識をモデルとしているデカルト一派は必然的 に誤っていることになる。これを土台としてヴィーコは、自然科学と人文学との間に、自己理 解と外的世界の観察との間に、またそれぞれの目標・方法・可知度について、明確な一線を画したのである。この二元論は爾来、絶えず熾烈な議論の主題となっている。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.14,みすず書房 (1981),小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

人間本性の可変性

人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)





















 「では、その時間の浸蝕を退けた考えとは何か、と問われるであろう。ヴィーコの場合につ いては、わたくしの眼に最も刮目すべきところと思われるものを、7つの命題の形で要約させ て頂こう。  (1)人間の本性は、永らくそう思われてきたように、静止的、不可変なものではない、いや 外力によって変えられたことがなかったとさえいえない。さまざまな変化を通じても同一不変 たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ云えない。自分をとりまく世界を理解 し、それを自らの物理的・精神的要求に適合させようとする人間自身の努力は、不断に人間の 世界と人間自身とを変化させてゆく。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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