生命倫理の一貫性の主張
中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
ジョセフ・カーディナル・ バーナー ディン(1928-1996) |
(a)生命倫理の一貫性(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張する。人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。
(b)人間の生命の尊厳
彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。
(c)個人の諸権利との緊張関係の中に存在し得る社会的善
彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「個人の諸権利(person right)との緊張(tension)関係の中に存在しうる、社会的善(social good)を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。
「◇興味深い宗教上の発展――「生命倫理の一貫性」の主張 おそらくカトリックの教義は、明確でも自覚的でもないとしても、既にこの方向に動いてい るのである。今日最も興味深い宗教上の発展の一つは、一切の中絶に強硬に反対しているカト リック教徒とプロテスタントの中に現われてきた、「生命倫理の一貫性(Consistent Ethic of Life)と彼らの一部の者が呼ぶところの見解である。この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張するのであ る。シカゴのローマ・カトリック協会の大司教である、ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(Joseph Cardinal Bernardin)は、この主張を発展させ擁護してきたパイオニア である。彼は一連の重要な著作や演説の中で、人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。 私が知るかぎりでは、カーディナル・バーナーディンは、胎児は妊娠の瞬間から人であると いう現在のカトリック教会の公式見解に明確な疑問を投げかけたことはなかった。彼は最近の 演説の中で聴衆に対して、「やがて生まれてくる、我々の幾百万の兄弟姉妹の命を救う」ため の支援を訴えている。しかし彼の主張――一方では中絶を非難しながら、他方で死刑や尊厳死・ 安楽死を支持することは矛盾している――は、中絶に対する原理的な反対は、胎児が生きる権利 を持った人であるという推論に基礎をおくのではなく、生命の本来的価値に対する尊重に基礎 をおくべきである、ということを前提にしている。何故ならば、前者――胎児は生きる権利を有 している――を根拠として中絶を非難する場合には、同時に、(バーナーディンが考えたよう に)殺人者は生命を奪われない権利を放棄してしまっているのであると考えるならば、死刑を 是認することとは《矛盾しない》ことになるからである。同様に(この立場に立つならば)、 尊厳死・安楽死が何故間違いであるのかということに関するバーナーディンの見解を支持する としても、尊厳死を是認することとは矛盾しないことになるであろう。 バーナーディンが尊厳死に対する反対の理由を、派生的理由でなく独自的理由に基づいてい ることは明白である。彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「『個人の諸権利(person right)』との『緊張(tension)』関係の中に存在しうる、『社会的善(social good)』を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。(バーナーディン の)中絶に対する反対意見は、不可避的にそれとパラレルな独自的見解を受け入れる場合には じめて、中絶に反対すると同時に尊厳死に賛成することが矛盾しているということになるであ ろう――(バーナーディン達の)この見解によれば、中絶はまた、仮に胎児が生きる権利を有し ているとするならばそれを理由として悪とされるだけでなく、仮に胎児が生きる権利を有して いないとしても、生命の尊重という「社会的善」を侮辱することを理由として悪とされること になるのである。もちろん私は、カーディナル・バーナーディンや彼の見解を支持する人々 が、同時に、胎児が本当のところは権利や利益を持つ人であるとは主張できないと言おうとし ているのではない。しかし彼らの一貫性を要求する興味深い主張は、中絶に反対する場合に は、全くその見解(胎児は生きる権利を有する)には立脚していないということを前提とする ものなのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第2章 中絶のモラリ ティ,宗教,信山社(1998),pp.77-78,水谷英夫,小島妙子(訳))
ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]
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