2022年3月28日月曜日

権力と支配の特定の形態を拒絶し、それに立ち向かいつつ、社会関係を再構築する。自らを構成し、規約あるいは行動原理を集合的につくり、継続的にそれらを再検討するような自律的共同体を創造する。こうした行動の継続的な積み重ねは、ほとんど全てを変革してしまう。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

変革はどのように起こるのか

権力と支配の特定の形態を拒絶し、それに立ち向かいつつ、社会関係を再構築する。自らを構成し、規約あるいは行動原理を集合的につくり、継続的にそれらを再検討するような自律的共同体を創造する。こうした行動の継続的な積み重ねは、ほとんど全てを変革してしまう。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「それでは一体どのように生起するのだろうか? すでに示唆したように、世界規模の革命 は、長期に渡る出来事である。とはいえ、それがすでに始まっていると認識することも可能で ある。それを再考するのにもっとも簡単なやり方は、革命を――「大革命(the revolution)」あるいは「大変動(the great cataclysmic break)」といった具合に ――「物事(a thing)」とみなすことをやめることである。そしてその代わりに「何が革命的 行動か?」と問うことである。そうすればわれわれは、革命的な行動とは、権力と支配の特定 の形態を拒絶し、それに立ち向かいつつ、社会関係を(その集団の内部からさえ)再構築す る、あらゆる集団的な行為である、と言えるだろう。革命的な行動は、必ずしも政府を転覆す ることを目指す必要はない。権力の目前において――ここでコルネリュウス・カストリアディスの定義に従うなら、自らを構成し、規約あるいは行動原理を集合的につくり、継続的にそれら を再検討するような――自律的共同体を創造する試みは、まったく革命的な行動と定義しうるの だ。そして歴史が示しているように、こうした行動の継続的な積み重ねは(ほとんど)すべて を変革してしまうのだ。  このような議論を展開するのは、無論、私が初めてではない。国家とその奪取という思考を 遺棄するやいなや、こういった視点が立ち現われる。ここで私が重視したいのは、われわれの 歴史的視座に対してこれが何を意味するかということである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『アナーキスト人類学のための断章』,壁を破壊する こと,pp.92-93,以文社(2006),高祖岩三郎(訳))

アナーキスト人類学のための断章 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






絶対的に世界から切り離されて自律し、社会、自然、宇宙と交渉し、負債を返済できると空想することは、常軌を逸した精神状態であり、モラルの論理として説かれれば、それは欺瞞的であり犯罪である。恐らく真実は、世界の方こそが、あなたが生きることから、価値あるものを受け取っているのに違いない。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

負債を負っているのは世界の方

絶対的に世界から切り離されて自律し、社会、自然、宇宙と交渉し、負債を返済できると空想することは、常軌を逸した精神状態であり、モラルの論理として説かれれば、それは欺瞞的であり犯罪である。恐らく真実は、世界の方こそが、あなたが生きることから、価値あるものを受け取っているのに違いない。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 「「わたしたちは社会になにを負っているのか?」と問いかけて事象を逆転しようとするこ と、あるいは「自然」やなんらかの宇宙的秩序への「負債」を云々することでさえ、誤った解 決である。それらは、あるモラルの論理からなにごとかを救いだそうとする苦肉の策であるわ けだが、当のモラルの論理こそがそもそもわたしたちを宇宙的秩序から切断した当のものなの だ。そうした発想は要するに、ある過程、すなわち、常軌を逸した精神状態へといたる過程の 頂点でしかない。というのも、それらの発想が前提としているのは次のような事態だからであ る。あまりに絶対的かつ徹底的に世界から切り離されているので、じぶん以外のあらゆる人間 ――あるいはあらゆる生命、宇宙的秩序さえも――ひとまとめに括ることができ、さらに、そう やって括られたもの[社会、自然、宇宙など]と交渉できる、と考えてしまう事態である。歴 史的にみてそのような試みが、わたしたち自身の生を誤った前提の上にあるなにかとみなすこ と、支払い期限をはるかに超過した借金とみなすこと、それゆえ、存在自体を犯罪的なものと みなすことに帰着してしまったのは、なんの不思議もない。しかし、ここに真の犯罪があると したら、それはこの欺瞞である。そもそもこの前提そのものが、欺瞞的なのである。じぶん自 身の存在の基盤と交渉することが可能であると考えること以上に、おこがましく、ばかげた話 しがあるだろうか? むろん、ありえない。〈絶対的なもの〉となんらかの関係をもつこと が、実際に可能であるならば、わたしたちは、完全に時間の外部あるいは人間的時間の外部に 存在する原理と直面していることになる。したがって、中世の神学者たちが正しく認識してい たように、〈絶対的なもの〉に対しては、負債のようなものがそもそもありえないのである。  結論:おそらく世界こそが、あなたから生を借りている[あなたに生を負っている] 」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第12章 いまだ定まらぬなにごとかの はじまり(1971年から今日まで),pp.572-573,以文社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎 (訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






自己存在は、両親や祖先、社会や国家のおかげであり負債を負っていると説かれるが、事実は、全ての文化的遺産、人類全体、自然、全宇宙が必要だったのであり、負債を返済し自律を構想すること自体が、とんでもない思いあがりである。仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

無限の負債と個人の自由

自己存在は、両親や祖先、社会や国家のおかげであり負債を負っていると説かれるが、事実は、全ての文化的遺産、人類全体、自然、全宇宙が必要だったのであり、負債を返済し自律を構想すること自体が、とんでもない思いあがりである。仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




(a)存在する全てに対して負債を構想すること自体が、とんでもない思いあがり
 私たちの罪責性(guilt)は、宇宙に対する負債を 返済できないことによるものではない。私たちの罪責性とは、〈存在する全て、または これまで存在してきた全て〉と、いかなる意味であれ同等のものと考えるほど思い上がっているため、そもそもそのような負債を構想できてしまうことにあるのだ。  
(b)仮に無限の負債を仮想しても返済方法は各個人の選択に任されている
 人はみな人類、社会、自然または宇宙に対して無限 の負債を負っているが、自分以外の別の誰かが支払い方法を指示できるわけではない。人間の自由とは、返済方法をどうしたいかを自分自身 で決定する私たちの能力ということになる。
(c) 宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制の欺瞞
 確立された権威の システムのほとんどすべて、宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制は、それぞれ異なる欺瞞の方法である。それらは計算不可能なものを計算できるとうそぶき、制約なき負債のうちのあれこれの部分をかくかくしかじかのように返済せよと指令する権限を詐称するにすぎないのだ。


「このように整理してみると、議論が前提そのものをむしばみはじめる。これらは商業的負 債とはなんの関係もない。つまり、子どもをつくれば両親への返済になるかもしれないが、無 関係のだれかに現金を貸すことで債権者に返済したとみなされることはふつうない。  わたし自身疑問におもう。ほんとうにこれが的を射た答えなのか? ブラーフマナの作者た ちが本当に示そうとしていたのは、究極的には、宇宙に対する人間の関係は根本からして商取 引とはほど遠く、そうなる可能性もないということであろう。商取引は平等と分離の双方をふ くむからである。先にあげた事例はどれも分離の克服にかかわっている。じぶん自身が祖先と なることによって祖先への負債から解放される[自由になる]。じぶん自身が賢者になること によって賢者への負債から解放される。人道的にふるまうことによって人類への負債から解放 される。宇宙となるといわずもがなである。すでに万物を有しているゆえに神々との取引が不 可能であるとすれば、宇宙との取引もまちがいなく不可能なのだ。宇宙はすべて《であり》、 そのすべてには必然的にあなた自身も包摂されるのだから。実のところこのリストは以下のよ うなふくみを巧みなやりかたで表現していると解釈することさえできる。負債から「自己を解 放する(freeing oneself)」ただひとつの方法は、文字通りに負債を返済することではな く、負債など存在しないことを示すことである、と。負債が存在しないのは、ひとは実際には 分離などしていないので、負債を帳消にして分離し自律した存在に到達するという考えそのも のが、はなから馬鹿げたものであるからである。あるいは、人類または宇宙から分離した存在 としておのれをみたて、こうして一対一の取引を可能であるとする想定自体が、死によっての み返答の与えられる犯罪なのである。わたしたちの罪責性(guilt)は、宇宙に対する負債を 返済できないことによるものではない。わたしたちの罪責性とは、〈存在するすべて、または これまで存在してきたすべて〉と、いかなる意味であれ同等のものと考えるほどおもいあがっ ているため、そもそもそのような負債を構想できてしまうことにあるのだ。  あるいはこの等式のもうひとつの側面に目をむけてみよう。かりにわたしたち自身が、宇宙 あるいは人類への絶対的負債の立場にあると想像することができたとしても、次の問いがあら われる。いったいだれが、宇宙または人類を代弁してこの負債がいかに返済されるべきかその 方法を告げる権利をもっているのか? 宇宙全体から独立しているから宇宙との交渉ができる という主張よりも不合理なものがあるとしたら、それは彼岸(the other side)を代弁して いるという主張である。  今日の個人主義的な社会にふさわしいエートスを求めるとするならば、次のようにいえるだ ろうか。ひとはみな人類、社会、自然または宇宙(いかようにもお好みでよい)に対して無限 の負債を負っているが、[じぶん以外の]べつのだれかが支払い方法を指示できるわけではな い、と。これは少なくとも知的には筋が通っている。もしそうだとすれば、確立された権威の システムのほとんどすべて――宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制――を、それぞれ異なる欺 瞞の方法とみなすことができる。それらは計算不可能なものを計算できるとうそぶき、制約な き負債のうちのあれこれの部分をかくかくしかじかのように返済せよと指令する権限を詐称す るにすぎないのだ、と。だとすれば、人間の自由とは、返済方法をどうしたいかをじぶん自身 で決定するわたしたちの能力ということになる。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第3章 原初的負債,pp.102-103,以文 社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







私たちの責任を、商取引における負債のようなもので基礎づけようとする様々な試みが多くなされてきた。しかし、これは真実であろうか。自分の実在を、私たちは誰に負っているのか。存在の基盤である自然、宇宙、文化、祖先、人類全体。(デヴ

私は誰のおかげで存在しているのか

私たちの責任を、商取引における負債のようなもので基礎づけようとする様々な試みが多くなされてきた。しかし、これは真実であろうか。自分の実在を、私たちは誰に負っているのか。存在の基盤である自然、宇宙、文化、祖先、人類全体。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)存在の基盤である自然、宇宙
 宇宙、宇宙の力、現代的に言い換えると〈自然〉に対して、私たちの存在の基盤に対 して、である。
(b)文化
 私たちにとって最も価値ある知識と文化的成果をなしえた人びとに対して。人間の存 在は、それらの知識と文化的成果によって、枠組みと意味、そしてまた形態をも受けとる。
(c)祖先
 わたしたちの両親、およびその両親、つまり祖先に対して。
(d)人類全体
 人類全体に対して。


「わたしたちは自分の存在を可能にするすべての人びとに対して無限の負債を負って生まれ てきた、しかるに「社会」と呼ばれる自然な単位は存在しない。とはいえ、もしそうだとすれ ば、わたしたちは本当のところだれに対してなにを負っているのか? 万人? 万物? それ とも、人や物によって程度に強弱があるのか? それに、かくも拡散しているなにものかに、 どうやって負債を支払うのだろう? あるいは、より端的にいって、いったいだれが、どんな 根拠をもって、返済方法を指示する権威を発動できるのか?  このように問いを提起してみたとき、ブラーフマナの作者たちは空前絶後の洗練をきわめた モラルについての省察を与えてくれている。先述したように、これらのテキストがどのような条件で作成されたのか、はっきりしない。しかしこれまでに知られた証拠資料は、いくつかの 重要な文書が前500年から前400年のあいだのどこか――おおよそソクラテスの生きた時代――に 作成されたことを示している。その頃のインドでは商業経済や硬貨、利子付貸出といった制度 が日々の生活に根づきはじめていた。その時代のインドの知識階級も、ギリシャや中国の知識 階級とおなじように、それらの事象のふくむ意味と格闘していたのである。インドの場合、そ れは次のような問いに集約される。わたしたちの責任を負債として想像することはなにを意味 するのか? じぶんの実在をわたしたちはだれに負っているのか?  彼らによる答えに(古代インドにも王や政府が確実に存在していたにもかかわらず)「社 会」にも国家にも言及がみられないのは意義深い。そのかわり負債は、神に、賢者に、父に、 「人間たち(men)」に[個別的に]定められている。彼らの定式をより現代的な言語に翻訳 することはさほどむずかしくはなさそうだ。そこで次のようにまとめてみた。結局、わたした ちが自己の存在をなによりもまず負っているのは、  ・宇宙、宇宙の力、現代的にいいかえると〈自然〉に対して、わたしたちの存在の基盤に対 して、である。それに対する負債は儀式によって返済される。儀式は小さきわれらを凌駕する 存在すべてへの敬意と承認の行為である。  ・わたしたちにとって最も価値ある知識と文化的成果をなしえた人びとに対して。人間の存 在は、それらの知識と文化的成果によって、枠組みと意味、そしてまた形態をも受けとる。こ こにはわたしたちの知的伝統を創造した哲学者や科学者だけでなく、ウィリアム・シェイクス ピアから中東のどこかでイースト菌入りのパンを発明したが忘れ去られたままの女性までふく まれる。それらの人びとに対する負債は、わたしたち自身が学習し人間の知識と文化に貢献す ることで支払われる。  ・わたしたちの両親、およびその両親――つまり祖先に対して。じぶん自身が祖先となること で返済される。  ・人類全体に対して。異邦人に対する寛容によって、人間的諸関係つまり生を可能なものに する、社会性にかかわる基本的なコミュニズム的土台を維持することによって返済する。」 
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『負債論』,第3章 原初的負債,pp.100-102,以文 社(2016),酒井隆史(訳),高祖岩三郎(訳),佐々木夏子(訳))

負債論 貨幣と暴力5000年 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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