ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2021年12月11日土曜日

歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、我々は歴史に意味を与えることができる。我々は、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治に向けての我々の闘争という観点から解釈することができる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、国際的犯罪の統治

歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、我々は歴史に意味を与えることができる。我々は、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治に向けての我々の闘争という観点から解釈することができる。(カール・ポパー(1902-1994))


「私は、歴史は如何なる意味をも持っていない、と主張する。しかし、この主張の含意は、 われわれはせいぜいのところ唖然として権力史に見とれるだけか、或いは歴史を残虐なジョー クとして見つめざるをえない、ということではない。なぜなら、われわれの時代に解決すべく 選択された権力政治上の諸問題を視野に収めつつ、われわれは歴史を解釈しうるからである。 われわれは、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯 罪の統治に向けてのわれわれの闘争という観点から解釈することができる。歴史は如何なる目 的も持たないにせよ、われわれは歴史にこのようなわれわれの諸目的を課することができる。 《歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、われわれは歴史に意味を与えることができるの だ》。  われわれがここで再び出会うのは、自然と規約の問題である。自然も歴史もわれわれに、何 を為すべきかを告げることはできない。自然の事実であれ歴史の事実であれ、諸多の事実はわ れわれのために決定を下すことはできない。それらは、われわれが選択しようとしている諸目 的を決定することはできないのである。自然と歴史に目的と意味を導入するのはわれわれであ る。人間は平等ではない。しかし、われわれは、平等の権利に向けて闘おうと決定することは できる。国家のような人間の作った諸制度は合理的ではないが、しかし、われわれは、それら のいっそうの合理化を目ざして闘うべく決定しうるのである。われわれ自身とわれわれの日常 言語は、全体としてみれば、合理的であるというよりも感情的である。だが、われわれはほん の少しでも合理的になるべく努力できるし、われわれの言語を(われわれのロマンチックな教 育者が言うところの)自己表出の道具としてではなく、合理的な意思疎通のための道具として 使用すべく自己を訓練することもできるのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第25章 歴史は意味を持っているか,第4節,pp.257-258,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。自らの実践的な課題の理解と解決のために、歴史解釈がある。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史解釈とは何か

歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。自らの実践的な課題の理解と解決のために、歴史解釈がある。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。
(b)我々の諸困難事が過去とどのように関わっているのか。その問題は、どのようにして生じたのか。
(c)我々の選択した諸問題の解決に向かって、どのような道筋を見つけていけば良いのか。

「要約しておこう。「実際に生じた通りの過去」の歴史は存在しえない。歴史解釈のみが存 在しうるのだが、それらのどれ一つとして最終的なものではなく、各世代は彼ら自身の歴史解 釈を形成する権利を持っているのである。しかしながら、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成 する権利を持っているのみならず、一種のそうする義務も持っている。なぜなら、実際、応答 されるべき緊急の必要が存在するからである。われわれは、われわれの諸困難事が過去とどの ように関わっているのかを知りたいのであり、また、われわれの主要な課題と感じられ、選択 されもした諸問題の解決に向かって、われわれが進歩していけるような道筋を見たいのであ る。このような欲求が、合理的手段と公正な手段とによって答えられない場合に、歴史信仰的 解釈を産み出すのである。この圧力に促されて、歴史信仰者は、「われわれの最も緊迫せる問 題としてわれわれは何を選ぶべきか、それらの問題はどのようにして生じたか、われわれはそ れらの問題をどんな方向に沿って解決するのか」という合理的な問題に替えて、「われわれは どちらの道を進んでいるのか、本質上、歴史がわれわれに演じるように決めた役割は何か」と いう非合理で外見上事実的な問題をたてるのである。  ところで、私は、歴史信仰者の、彼ら自身の方法で歴史を解釈する権利を拒否したが、私は 正当なのだろうか。私は、誰でもそのような権利を持っていると宣言したのではなかったか。 この問題に対する私の回答は、歴史信仰的解釈は奇妙な種類のものだ、というものである。必 要でもあり正当化されてもいる解釈や、われわれが採用せざるをえないあれこれの解釈は、私 が既に述べておいたように、探照燈に比較できる。われわれはそれをわれわれの過去に投げか け、その反射によって現在を照らし出そうと望む。これとは反対に、歴史信仰的解釈はわれわ れ自身に向けられる探照燈に比較されよう。それは、われわれの周囲の何物かを見ることを、 不可能ではないにせよ、困難にし、われわれの行動を麻痺させる。この隠喩を翻訳すれば、歴 史信仰者は、歴史の諸事実を選択し、整序しているのがわれわれであることを承認しないので あり、「歴史そのもの」或いは「人類の歴史」が、その固有の法則によって、われわれ自身、 われわれの諸問題、われわれの未来、あまつさえわれわれの観点までをも規定していると信じ ているのである。歴史解釈は、われわれが直面している実践的諸問題と実践的諸決定とから生 じる必要に答えるべきだ、ということを承認する代わりに、歴史信仰者は、われわれの歴史解 釈への欲求には、歴史の観想を通じてわれわれは人間の運命の秘密、本質を発見できるかもし れないという深遠な直感が表現されている、と信じているのである。歴史信仰は、人類が歩む べく運命づけられている道を見出そうと探索している。すなわち、歴史信仰は、(J・マクマ レイが呼ぶところの)歴史への導きの糸、あるいは歴史の意味を発見すべく探索中である。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第25章 歴史は意味を持っているか,第3節,pp.249-249,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2