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2022年5月21日土曜日

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の事例による説明

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)「私はAをする」
 (i)それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。
 (ii)そうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるが、故意に欺いていることにはならない。
(b)「私はAをする意図を固めている」
(c)「私はAをする意図を完全に固めている」

(d)「約束します(I promise)」 
 (i)単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うことによって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになる。
 (ii)私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利がある。
 (iii)私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになる。
 (iv)もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利があり、それに基づいて自分でも別の約束をすることができる。
 (v)あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならない。

(e)「SはPである」
 (i)信じていないのに言うならば、嘘をついていることになる。
 (ii)信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはならない。
(f)「SはPであると信じている」
(g)「SはPであると確信している」
(h)「SはPであると完全に確信している」
 (i)私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできる。

(i)「私は知っているのです(I know)」
 (i)「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。 
 (ii)私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではなく、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味しない。 
 (iii)誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではあるが、自分もまた知っていると言う権利が生ずる。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能である。
 (iv)あなたがあることを知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態を取る。

 


 「もし私が信じてもいないにもかかわらず「SはPである」と言うならば、私は嘘をついていることになります。もし私が信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはなりません。もし私が「私はAをする」と言いつつ、それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。もし私がそうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなりますが、先ほどと同じ仕方で故意に欺いていることにはなりません。  さてしかし、私が「約束します(I promise)」と言う場合には、新たな一歩が踏み出されることになります。私は、単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うこと(この儀式を遂行すること)によって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになるのです。同様に、「私は知っているのです(I know)」と言うこともまた、新たな一歩を踏み出すことであります。しかしそれは、「私は、信じることや確信することと同一の評価次元に属してはいるが、単に完全に確信することにさえも優ると評価される、特にきわだった認知上の偉業を達成した」と言うということでは《ありません》。なぜなら、この評価次元の上には完全に確信することに優るものなど何も《存在し》ないからです。それはちょうど、約束することが、期待することや意図することと同じ評価次元に属してはいるが、単に完全に意図を固めていることにさえも優るような何事かであるのではなく、しかもその理由がこの評価次元の上には完全に意図することに優るものなど何も《存在》しないからであるというのとまったく同様です。「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。  私が「私は確信している」としか言っていない場合には、間違っていることが判明したとしても、「私は知っている」と言った場合と同じ仕方で他人から非難される謂われはありません。私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできます。もし私が鋭敏で注意深い人間であると思うならば、それを受け入れればよいのであって、それはあなたの責任で決める事柄です。しかし、私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではありませんし、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味してはいません(もちろん、あなたは実際には受け入れることも受け入れないでいることも《できはする》のですが)。同様にして、自分が完全にそうする意図を固めていると私が言うとき、私がそういう意図をもつことは私の側の事柄であり、あなたは、あなたが私の決意と運勢をどう評価するかに応じて、自分の行動を私の言葉に基づけるかどうかを決定することでしょう。しかし私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利があります(あなたがそうすることを選ぶかどうかは別の問題です)。私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになります。われわれは皆「知っている」と言うことと「《絶対の》確信がある」と言うこととの間にさえもきわめて大きな相異を《感じとります》。それは、「約束する」と言うことと「堅固かつ決定的な意図を固めている」と言うこととの間にある相異と似ています。もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利がありますし、それに基づいて自分でも別の約束をすることができます。またそれゆえ、誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではありますが自分もまた知っていると言う権利が生じます。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能です。だからこそ、私が軽々しくそう言ったりすれば、《あなたを》トラブルに巻き込んだことの責任を取らなければならなくなることもありうるのです。  あなたが《あること》を知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態をとります。すなわち、あなたは単にあなた自身がそのことを確信しているということのみではなく、そのことがあなたの知識の及ぶ範囲にあるということを示すことを引き受けなければならないのです。同様の形態の疑問提起は約束の場合にもあります。完全に意図を固めているということだけでは十分ではありません。あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならないのです。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,4 他人の心,pp.146-148,勁草書房(1991),山田友幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)











(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月18日水曜日

我々の言葉の用法は多様で、ルーズな語り方もあるが、話の背景や状況を理解すれば、誤解は起きにくくなし、異なる概念体系による異なる記述であることも、互いに理解可能となる。このように多様な異なる描写は、むしろ状況を色々な観点から理解するための豊かな源泉とも言える。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

言葉の曖昧さ多様な表現の効用

我々の言葉の用法は多様で、ルーズな語り方もあるが、話の背景や状況を理解すれば、誤解は起きにくくなし、異なる概念体系による異なる記述であることも、互いに理解可能となる。このように多様な異なる描写は、むしろ状況を色々な観点から理解するための豊かな源泉とも言える。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))





 「さて、われわれの用法が多様であるということ、われわれがしばしばルーズな語り方をするということ、そしてまた、われわれが外見上同一の表現を用いて異なったことを述べることがあるということは事実である。しかし、まず第一に注意すべきことは、そのようなことは実際には、一般に考えられているほどには頻繁には起こらないということである。たとえば、われわれが出会うそうした事例のほとんどの場合、《同一の》状況でその《同一の》状況について異なったことを述べたいと考えていると思われたものが、実際にはそうではなかった――すなわち、われわれは単に、状況を《多少》違っていたように想像していたにすぎない――ということが明らかとなるのである。当然のことながら、いかなる状況も「完全に」描写されることはない(しかも、われわれはここでは《想像された》状況を扱っている)ので、そのようなことはいともたやすく起こる。一般に、話の背景とともに状況を詳しく想像すればするほど、われわれが何を言うべきかということに関して意見が分かれることは少なくなる――この場合、貧弱な想像力を刺激し訓練するには、非常に特異な手段や、時には退屈な手段でさえも用いる価値がある。しかしながら、それにもかかわらず、最後まで意見の一致を見ることがないということも《時には》たしかに生ずる。ある用法がぞっとするようなものではあるがしかし現にそのようなものとして存在する、ということを認めざるをえない場合がある。われわれは二つの相異なる描写のうちの一方ないし両方を何としても使用せざるをえないことがあるのである。しかし、このような事実に対してひるまなければならない理由が何かあるであろうか。このような場合に起こっていることは完全に説明可能である。もしわれわれの用法に不一致が見出されるならば、それはたとえば、私が「Y」を使用するときにあなたが「X」を使用する場合があるということにほかならない。あるいは、よりありふれた(そしてまた、より興味をそそる)表現をするならば、あなたの概念体系は私の概念体系と同様に、少なくとも整合的であり有用でもあるように見えるが、私のものとは異なっている、ということにほかならない。要するに、われわれは互いに意見の一致を見ない《理由》を見い出すことができるのである――あなたはある仕方で物事を分類することを好むのに対して、私は別の仕方で物事を分類することを好むというだけのことである。用法がルーズであるとしても、そのようなルーズさが生ずる理由や、そのようなルーズさの故に曖昧にされる区別がいかなるものかということを、われわれは理解することができる。もし「二様の」描写があるとすれば、それは、状況が二様に描写可能であり、あるいは二様に「構造化」可能であるということなのである。あるいは、その状況は、それを描写するためのその二様の描写が当面の目的にとっては結局のところ同じものと見なしうるような種類の状況である、と述べてよいかもしれない。かくして、われわれは何を言うべきかということに関して生ずる不一致に対してしりごみすべきではなく、むしろ積極的に攻めてゆくべきである。そのような不一致に関する説明は必ずや何らかの光を投げかけずにはおかないのである。もし計算に合わない回転をする電子を偶然に見つけたとするならば、それは発見であり、今後追求してゆくべき驚異なのであって、けっして物理学を放棄すべき理由とはならない。まったく同様に、真にルーズな語り方をする人や真に常軌を逸した人がいたとするならば、その人は大切にすべき稀有な標本なのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,8 弁解の弁,pp.292-294,勁草書房(1991),服部裕幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)




(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月11日水曜日

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的動詞の発達

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))



(a)行為遂行的発言と、命令法
「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。

(b)命令、懇願、哀願、切願、扇動、誘導
 我々は命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、我々はあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。

(c)口調、抑揚、身振り、状況や脈絡
 我々が何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、はっきりさせるためには、口調、抑揚、身振りを用いることができる。また、発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することもできる。例えば、「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。
(d)行為遂行的動詞の発達
 これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ、明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである。


 「この課題がやり遂げられたとしよう。その場合は一覧表に含まれるこれらの動詞は明らさまな行為遂行的動詞(explicit performative verbs)と呼ぶことができるであろうし、標準的な形式のうちのいずれか一方に還元されるどんな発言も明らさまなくい遂行的発言(explicit performative utterance)と呼ぶことができるであろう。「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。われわれは命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、われわれはあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。これらの行為は素朴な原始言語ではおそらくは未だ識別されてはいないだろう。しかし原始言語の素朴さを過大評価する必要はない。われわれが何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、原始的なレヴェルにおいてでさえ、はっきりさせるために用いることのできるひじょうに多くの工夫――口調、抑揚、身振り――があるし、なかんずくわれわれは発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することができる。このことによって、与えられているのが命令であるかどうか、あるいはたとえば私はあなたを単にせき立てているのかそれともあなたに切望しているのかどうかがまったく間違えようのないものになる場合がきわめて多い。たとえばわれわれは次のようなことを言うことがあろう。すなわち「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。それでも、これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。私が「私はそこに行くでしょう(I shall be there)」というような言い方をする場合、それが約束であるのかあるいは意志の表明であるのかそれともひょっとして私の将来の行動、私の身に起ころうとしていることの予想であるのかどうか、定かではないだろう。そして、少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである――私の言っているのが厳密にはどれであるのか、それはどの程度まで私を拘束するのか、そしてどのような仕方でか、等々をはっきりさせるために。  これは、言語がその言語をもつ社会と歩調を合わせて発達している一例にほかならない。社会の持つ社会的慣習は、どの行為遂行的動詞が発達しているか、そしてどの行為遂行的動詞が、しばしばかなり無関連な理由からであるが、発達していないのかという問いに著しい影響を与えることがある。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.396-398,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)



(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

2022年5月9日月曜日

真偽値は、言明と諸事実との間にどんな関係があるかについての評価であり、言明を効力あるものとしている慣習的な手続きにどの程度に適合しているかを表すものである。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

事実的言明の真偽値とは何か

真偽値は、言明と諸事実との間にどんな関係があるかについての評価であり、言明を効力あるものとしている慣習的な手続きにどの程度に適合しているかを表すものである。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)真なのか偽なのか
 実際には、真偽について考えれば考えるほど、我々が発している言明で端的に真または端的に偽であるようなものはほとんどないことが分かる。「真」と「偽」は、我々が言っていることと諸事実との間の関係に何らかの仕方で関わっているさまざまな評価という全般的な次元に対する全般的なラベルにすぎないのである。
(b)適正か、十全か、正確か
 普通よくある問いは次のようなものである。それらの言明は適正であるのかそれとも適正ではないのか。それらは十全であるかそれとも十全ではないのか。それらは大袈裟かそれとも大袈裟でないのか。それらは大ざっぱすぎるであろうか、それともそれらはまったく精確で精密であろうか、等々と。



 「言明を一つの独立した部類として分類することは多少なりとも、物事を黒か白かに分けて考える特殊技術である、と。しかし実際には――これについて話を続けるとあまりにも長くなるであろうが――真偽について考えれば考えるほど、われわれが発している言明で端的に真または端的に偽であるようなものはほとんどないことが分かる。ふつうよくある問いは次のようなものである。それらの言明は適正であるのかそれとも適正ではないのか。それらは十全であるかそれとも十全ではないのか。それらは大袈裟かそれとも大袈裟でないのか。それらは大ざっぱすぎるであろうか、それともそれらはまったく精確で精密であろうか、等々と。「真」と「偽」は、われわれが言っていることと諸事実との間の関係に何らかの仕方で関わっているさまざまな評価という全般的な次元に対する全般的なラベルにすぎないのである。したがって、もしわれわれが真および偽についてもっている考え方をゆるめるならば、言明とは、諸事実に関連して評価される場合、さまざまな勧告、警告、評決等々と結局そんなに変わらないものであることが分かるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.406-408,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)




(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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