2022年5月11日水曜日

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的動詞の発達

例えば、命令法を用いることによって命令することができるが、それは命令であるだけでなく、懇願、哀願、切願、扇動、誘導でもあり得る。我々は、口調、抑揚、身振り、あるいは状況や脈絡から、どれであるかを判断するが、曖昧さが避けられない。これを解決するために、行為遂行的動詞が発達してきた。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))



(a)行為遂行的発言と、命令法
「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。

(b)命令、懇願、哀願、切願、扇動、誘導
 我々は命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、我々はあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。

(c)口調、抑揚、身振り、状況や脈絡
 我々が何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、はっきりさせるためには、口調、抑揚、身振りを用いることができる。また、発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することもできる。例えば、「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。
(d)行為遂行的動詞の発達
 これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ、明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである。


 「この課題がやり遂げられたとしよう。その場合は一覧表に含まれるこれらの動詞は明らさまな行為遂行的動詞(explicit performative verbs)と呼ぶことができるであろうし、標準的な形式のうちのいずれか一方に還元されるどんな発言も明らさまなくい遂行的発言(explicit performative utterance)と呼ぶことができるであろう。「私はあなたにその戸を閉めるように命令する」は明らさまな行為遂行的発言となるであろう。これに対して「その戸を閉めなさい」はそうはならないであろう――これは単に「原初的な」(primary)行為遂行的発言とかどのように呼んでもよいが、何かそういったものである。われわれは命令法を用いてあなたにその戸を閉めるように命令してもよいが、しかし次のことがまったくはっきりしない。すなわち、われわれはあなたに命令しているのか懇願しているのか、あるいは哀願しているのか切願しているのか、それとも煽動しているのか誘発しているのか、あるいはその他多くの微妙に異なる行為のうちの何かをしているのかがまったくはっきりしない。これらの行為は素朴な原始言語ではおそらくは未だ識別されてはいないだろう。しかし原始言語の素朴さを過大評価する必要はない。われわれが何か或ることを言う場合に遂行しているのはどのような行為であるかを、原始的なレヴェルにおいてでさえ、はっきりさせるために用いることのできるひじょうに多くの工夫――口調、抑揚、身振り――があるし、なかんずくわれわれは発言がどのような状況や脈絡において発せられるかに依拠することができる。このことによって、与えられているのが命令であるかどうか、あるいはたとえば私はあなたを単にせき立てているのかそれともあなたに切望しているのかどうかがまったく間違えようのないものになる場合がきわめて多い。たとえばわれわれは次のようなことを言うことがあろう。すなわち「彼が言うのだから私はそれを命令と解さざるをえなかった」と。それでも、これらいっさいの工夫にもかかわらず、明らさまな行為遂行的動詞がない場合には、遺憾ながらかなりの曖昧さと識別の欠如とが存在する。私が「私はそこに行くでしょう(I shall be there)」というような言い方をする場合、それが約束であるのかあるいは意志の表明であるのかそれともひょっとして私の将来の行動、私の身に起ころうとしていることの予想であるのかどうか、定かではないだろう。そして、少なくとも文明社会では、それが精確にはこれらのうちのどの事柄なのかがきわめて重大である場合がある。そうであるからこそ明らさまな行為遂行的動詞が発達しているのである――私の言っているのが厳密にはどれであるのか、それはどの程度まで私を拘束するのか、そしてどのような仕方でか、等々をはっきりさせるために。  これは、言語がその言語をもつ社会と歩調を合わせて発達している一例にほかならない。社会の持つ社会的慣習は、どの行為遂行的動詞が発達しているか、そしてどの行為遂行的動詞が、しばしばかなり無関連な理由からであるが、発達していないのかという問いに著しい影響を与えることがある。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,10 行為遂行的発言,pp.396-398,勁草書房(1991),中才敏郎,坂本百大(監訳))
(索引:)



(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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