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2022年2月12日土曜日

計算と予測が、政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって、人々は、自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持った独自の人間という感覚を失い、自分の将来が何かのプログラムにはめ込まれていくような感覚、憂鬱、怒り、絶望に襲われる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

何かの手段であるかのような生き方

計算と予測が、政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって、人々は、自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持った独自の人間という感覚を失い、自分の将来が何かのプログラムにはめ込まれていくような感覚、憂鬱、怒り、絶望に襲われる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)自らの意志、 感情、信念、理想、生き方
 特殊に人間的なものとしての人間、つまり個々に自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持ったものとしての人間という感覚に根ざした人権が、「地球 大」の計算と大規模な未来予測の中で見失われてしまったという感情がある。 
(b)計算と予測による政策
 計算と予測が政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって政策立案者や会社重役たちの計画の指針になっている。量的な計算では、個々人の特殊な願望や希望、不安や目標を無視せざるを得ない。

(c)自分の将来か何かのプログラムにはめ込まれていく感覚
 今日の若者の間には、自分の将来を科学的にうまく作られた何かのプログラムにはめ込まれていく過程と見るものの数が増えつつある。彼らの平均寿命、能力、利用可能性のデータが、 最大多数の最大幸福を生み出す目的に目一杯かなうように分類、計算、分析を受け、そのプロ グラムに一人一人が組み込まれていく。これが国家、知識、世界等の規模での生活組織を決定する。
(d)憂鬱、怒り、絶望
 このような見通しが、彼らを憂鬱や怒りや絶望に追いやる。彼らは何らかの 独立の存在として、何らかのことを自分ですることを願っており、たんなる受身の存在である こと、誰かに代理されることを望んでいない。



「この反乱(それは反乱であるように見える)の効果は、それがまだ始まったばかりである から、予測は難しい。それは、特殊に人間的なものとしての人間、つまり個々に自らの意志、 感情、信念、理想、生き方を持ったものとしての人間という感覚に根ざした人権が、「地球 大」の計算と大規模な未来予測の中で見失われてしまったという感情から発している。そし て、このような計算と予測が政府、企業、種々の互いに組み合わさったエリートが参画してい る巨大な事業の中にあって政策立案者や会社重役たちの計画の指針になっているのである。量 的な計算では、個々人の特殊な願望や希望、不安や目標を無視せざるを得ない。多数の人々の ための政策を立案しなければならない時には常にそうならざるを得ないのであるが、今日では それがあまりにも極端なところまで進んでしまった。  今日の若者の間には、自分の将来を科学的にうまく作られた何かのプログラムにはめ込まれ ていく過程と見るものの数が増えつつある。彼らの平均寿命、能力、利用可能性のデータが、 最大多数の最大幸福を生み出す目的に目一杯かなうように分類、計算、分析を受け、そのプロ グラムに一人一人が組み込まれていくのを見るのである。これが国家、知識、世界等の規模で の生活組織を決定する。しかも彼ら個々の性格、生活様式、願望、気まぐれ、理想に余計な注 意を払わず、またそれに関心を持たずに(課題の達成にはその必要はないからである)決定し ていくのである。このような見通しが、彼らを憂鬱や怒りや絶望に追いやる。彼らは何らかの 独立の存在として、何らかのことを自分ですることを願っており、たんなる受身の存在である こと、誰かに代理されることを望んでいない。人間としての品位を認められることを要求して いる。人的資源に還元され、他人のやっているゲームのコマに還元されることを願っていな い。たとえそのゲームが、少なくとも一部には個々のコマの利益のためのものであったとして も、コマにはなりたくないと思っている。そして反乱は、あらゆるレヴェルで勃発していく。  反抗する若者たちは、大学、知的活動、組織化された教育から抜け出ていく。あるいはそれ を攻撃する。そのような教育機関をあの巨大な、脱人間化の機構そのものと考えるからであ る。彼らが知っているかどうかはともかく、彼らの訴えかけているのは一種の自然法、あるい は人間を目的のための手段(その目的がいかに善意から出たものであっても)として扱っては ならぬとしたカントの絶対命題である。彼らの抗議は時には合理的形態をとり、また時には激 烈なまでに非合理的形態をとる。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『曲げられた小枝』,V,収録書籍名『理想の追求  バーリン選集4』,pp.311-312,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼二(訳)) 

バーリン選集4 理想の追求 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)





(a)人間は目的そのものであり、価値は人間が創造する、(b) 制度は人間のために、人間によって創造される、(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない、(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

ロマン主義ヒューマニズムからの継承

(a)人間は目的そのものであり、価値は人間が創造する、(b) 制度は人間のために、人間によって創造される、(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない、(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)人間は目的そのものであり価値は人間が創造する
 価値を作るのは人間そのものであり、したがって価値を作る人は、何か彼よりも価値の高 いものの名において殺されることない。カントが人間はそれ自体が目的であり、何かの目的のための手段ではないと言っ た時、彼が言わんとしたのがこのことであった。
(b) 制度は人間のために、人間によって創造される
 制度は人間によって作られるだけでなく人間のために作られており、もはや役に立たなくなった時にはその制度は捨てねばならぬ。
(c) いかに高尚な理念でも、一人の人間の価値には及ばない
 進歩や自由や人間性などいかに高尚なものであっても、それら抽象的 理念の名において、あるいは制度の名において人間を殺戮することにはならない。価値が人間 によって与えられている以上、理念や制度はそれ自体で絶対的価値を持たない。
(d) 最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を評価すること
 すべての罪の中で最悪の罪は、何らかの固定された基準によって人間を貶め、人間を辱めることだという点である。この固定されたパターンは、人間の願望とは無関係に何らかの客観的権威を持つものとされ、 人々は自らの意志に反してそのパターンに押し込まれてきたのである。



 「それでも、ロマン主義のヒューマニズム――この同じ奔放なドイツ精神――から、われわれは 重要なことを洞察できるようになっており、そのことは簡単には忘れられないであろう。第一 に、価値を作るのは人間そのものであり、したがって価値を作る人は、何か彼よりも価値の高 いものの名において殺されることはあるまい――彼より価値の高いものはないからである――とい う点である。カントが人間はそれ自体が目的であり、何かの目的のための手段ではないと言っ た時、彼が言わんとしたのがこのことであった。第二に、制度は人間によって作られるだけで なく人間のために作られており、もはや役に立たなくなった時にはその制度は捨てねばならぬ という点である。第三に、進歩や自由や人間性などいかに高尚なものであってもそれら抽象的 理念の名において、あるいは制度の名において人間を殺戮することにはならないという点であ る。人間だけが物を価値あるもの、あるいは神聖なものにできるのであって、価値がその人間 によって与えられている以上、理念や制度はそれ自体で絶対的価値を持たないからである。し たがってそれに抵抗したり変革したりしようとする試みは、神の意志にたいする反抗、死に よって罰せられるべき行為といったことには決してならないからである。第四に――これは自余 のことから出てくる結論であるが――すべての罪の中で最悪の罪は何らかの固定された基準、い わゆるプロクルーステスの寝台のために人間を貶め、人間を辱めることだという点である。こ の固定されたパターンは、人間の願望とは無関係に何らかの客観的権威を持つものとされ、 人々は自らの意志に反してそのパターンに押し込まれてきたのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,V,収録書籍名『理 想の追求 バーリン選集4』,pp.233-234,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼 二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由な創造としての芸術

芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は――俗説はその逆の見方であるが――何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。画家が描く前、あるいは構想 する前に、画はどこにあったのか。作曲家が構想する前に、シムフォニーはどこにあったの か。歌手が歌う前の歌はどこにあったのか。このような問いは無意味である。それは、「私が 散歩する前の散歩道はどこにあったのか」、「私の生きる前の私の生はどこにあったのか」と 問うのと似ている。生とはそれを生きることであり、散歩とはそれを散歩すること、歌は私が 作曲、あるいは歌う時に、私の作曲し歌うものである。私の行動とは別の何ものかではない。 創造とは、何かすでに与えられている固定的で永遠のプラトン的パターンを写そうとする行為 ではない。写すのは職人だけのすること、芸術家は創造するのである。  これが自由な創造としての芸術の理論である。私はそれが真理であるかどうかには関心がな い。関心があるのは、この何か発見するのではなく発明するものとしての目標ないし理想とい う観念が西欧思想の支配的範疇となったという事実である。これは人生の目的についてのある 捉え方を前提にしている。そこでの人生の目的は、独立に客観的に存在するものではない。あ たかも埋められた財宝のように、発見されるかどうかはともかく、それ自体として存在し、人 間が探し求めることのできるようなものではない。それは行動――行動としての形、質、方向、 目的を持った――である。何か作られたものではなく、すること、あるいは作ることそのもので ある。それは、行為をしている行為人、発明者、政治生活に入り込み、それを転換させていっ た。それは、政治行動は既存の公的基準で測定されるという古い理想にとって代わった。公的 基準は宇宙の客観的構成要素の一つであり、具眼の士、賢者や専門家ならはっきりと看取でき るし、むしろ彼らは賢者、専門家と呼ばれていたのである。しかし、今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することである。このようなヴィジョ ンが他人にどのような影響を与えるかは、彼の関心事ではない。彼は自分の内なる光に忠実で なければならない。彼の知っていること、彼の知る必要のあることはそれだけ、それがすべて である。芸術家は自分の職業をもっと強く意識しているというにすぎない。哲学者、教育者、 政治家も強く意識している。しかしその意識は、すべての人にあるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,IV,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.218-220,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

諸価値は個人によって創造される

かつて、従うべき真なる価値があると信じられていたが、1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になった。目的と諸価値を創造するのは個人であり、そもそも命令、要求、義務、目標に真偽値はない。各個人は、自分自身の内的な理想に仕えることが真実の生き方であるとする思想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)目的を創造するのは諸個人
 自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思うものを作れ、自分の窮極の目的であるものに従って暮らせ、自分の生活の中の窮極の目的以外のものは全て手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ、まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。
(b) 命令、要求、義務、目標に真偽はない
 課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明したものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。
(c)その人個人の絶対性
 この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他の全ての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。


「およそ1820年頃には、非常に異なった見方が支配的になっている。詩人や哲学者、特にド イツの詩人や哲学者が、今では人になし得るもっとも高貴なことは、いかなる代価を払っても 自分自身の内的な理想に仕えることだと言っている。この理想は、孤独な個人にだけ啓示され たもので、他のすべての人には偽り、あるいは馬鹿げたものと思われるかもしれない。その個 人の属している社会の生活や世界観と対立しているかもしれない。しかし彼はそのために戦わ ねばならぬ。他に道がなければそのためには死なねばならぬというのである。しかし、もしそ の理想が偽りであればどうであろうか。まさにこの点で、範疇の根本的な移動、人間精神にお ける大きな革命となるような変化が生じている。理想が真か偽りかという問題はもはや重要で はなく、むしろ全体としては理解不可能なことと考えられている。理想は至上の命令という形 式で提出されている。それはあなたの中で燃えており、ただそれだけの理由で、あなたの内な る内面の光に奉仕せよというのである。自分の正しいと考えることをなせ、自分の美しいと思 うものを作れ、自分の窮極の目的であるものにしたがって暮らせ――自分の生活の中の窮極の目 的以外のものはすべて手段であり、目的には一切のものを従属させねばならなぬ――まさしくそ れが、あなたに要求されていることなのである。その課題を果せという命令、要求、義務は、 真でもなく偽りでもない。それは命題ではない。何かを述べたものではなく、事実を説明した ものでもない。真か偽かを立証できるものではない。誰かが発見して、誰かがその真偽を点検 するようなものではない。それは目標なのである。論理学、政治学のモデルが自然科学、神学 あるいはその他事実についての知識ないしその記述という形式から、生物的な衝動と目標とい う概念、芸術的創造という概念から成る何ものかに向かって突如として移行したのである。こ の点について、もっと具体的に説明したい。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,III,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.217-218,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)





2022年2月11日金曜日

道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に生じた激烈な対立の歴史である。自らの主張を真理であると信じ、また、たとえそれに到達するのは困難であっても、真理はあるはずだ。人間と社会に関する事実が、答えを示すと信じられていた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

価値の問題

道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に生じた激烈な対立の歴史である。自らの主張を真理であると信じ、また、たとえそれに到達するのは困難であっても、真理はあるはずだ。人間と社会に関する事実が、答えを示すと信じられていた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)価値の問題
「人は何をなすべきか、あれこれのことが正しいのは何故か、これは善か悪 か、正か偽りか、許されているか禁止されているか」という形式の問題である。

(b)価値に関する諸説
 道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に 生じた激烈な対立の歴史である。
 (i)神の聖典に記されている神の言葉
 (ii)啓示や信仰や聖なる神秘
 (iii)公認の神の解釈者、教会と聖職者の発言
 (iv)合理的形而上学
 (v)個人の良心の判断
 (vi)経験的観察、科学の実験室、経験素材への数学的方法の応用

(c)啓蒙主義、功利主義の綱領
 人間にとって必要なことは分析、分類することができ、自然と歴史の知識に照らして互 いに調整、調和させることができ、できるだけ多くの人々のできるだけ多くの必要に対して社会的、政治的措置によって最大の可能な充足を与えられるような社会が創造されるであろう。それが啓蒙思想、とりわけ功利主義の綱領であった。必要の相対性という枠組の中にあって も、人はいかに生きるべきか、何をなすべきか、正義や平等や幸福とは何かの問題は、まだ事実 の問題であると前提されていた。



「価値の問題――「人は何をなすべきか、あれこれのことが正しいのは何故か、これは善か悪 か、正か偽りか、許されているか禁止されているか」という形式の問題についても、同じこと が想定されていた。道徳や政治や神学の思想史は、敵対する専門家たちの敵対する主張の間に 生じた激烈な対立の歴史である。あるものは神の聖典に記されている神の言葉の中に、あるも のは啓示や信仰や聖なる神秘など、理解できないとしても信じることのできるものの中に、答 えを求めた。またあるものは、公認の神の解釈者――教会と聖職者――の発言の中に答えを求め た。それぞれの教会が同じ答えを出さなかったとしても、あれこれどれかの答えが正しいに違 いないことを疑う人はいなかった。この宗派の答えが間違っていても、別の宗派の答えが正し いと考えられていたのである。あるものは合理的形而上学の中に、あるいは個人の良心の判断 のようなある種の無謬の直感の中に答えを見つけた。さらにあるものは経験的観察、科学の実験室、経験素材への数学的方法の応用の中にそれを発見した。これら困難な問題の真の答えは これであるというさまざまな敵対する主張の間で、絶滅戦争が戦われた。何といっても、誰も が問うているもっとも深遠かつ重要な問題――真の生き方という問題についての答えがかかって いたのである。人々は救済を得るためには死ぬ覚悟でいた。魂は不死で、肉体の死の後で公正 な報いを受けられると信じていたから、なおさらそうであった。しかし、不死や神を信じてい なかったものも、それが真理であると確信できるならば、真理のために苦しみ死ぬ用意があっ た。真理を求めそれに従って生きること、たしかにそれは真理を求めることができる人誰もの 窮極の目標だったからである。これがプラトン派とストア派、キリスト教徒とユダヤ教徒とイ スラム教徒、有神論者と無神論的合理主義者の信じていたことであった。原理と大義――宗教的 なもの、世俗的なものの両方を含めて――のための戦争、さらには人間の生そのものが、この もっとも深い想定がなければ無意味に思われたであろう。  現代の世界観は、この礎石を砕くことによって作り出された。この点をできるだけ単純に言 えばこうである。道徳や政治における客観的真理という観念が懐疑主義や主観主義や相対主義 の登場によって揺るがされたというにとどまらない。万人にとって常にどこでも真である普遍 的な道徳的心理という観念がひっくり返されただけならば、もっと古い体系の中に縫い込める 形で事態を修復できたであろう。人間の必要、人間の性質は風土や土壌や遺伝やさまざまの人 間の制度によって異なっているというふうに言うことができたし、実際にそう言われてきた。 そこでは、各人、各グループ、各人種にそれぞれもっとも必要としているものを与えるような 方程式を作り出すことができた。そして方程式はそれ自体、やはり万人に共通な単一の普遍的 原理から抽出されたのである。必要はさまざまに異なってはいても、すべて人間の必要であ り、環境や事情の差異と変化に対応して同じ人間性が合理的な反応をしているだけであった。 人間と人間にとって必要なことは分析、分類することができ、自然と歴史の知識に照らして互 いに調整、調和させることができ、できるだけ多くの人々のできるだけ多くの必要にたいして 社会的、政治的措置によって最大の可能な充足を与えられるような社会が創造されるであろ う。それが啓蒙思想、とりわけ功利主義の綱領であった。必要の相対性とう枠組の中にあって も、人はいかに生きるべきか、何をなすべきか、正義や平等や幸福とは何かの問題はまだ事実 の問題であると前提されていた。つまり全宇宙の神の御業の観察ではないとしても、人間の本 性の観察によって、心理学、人類学、生理学などの新しい学問によって解決できるものと考え られていたのである。聖職者や形而上学的な賢者に代わって、今では道徳の専門家は科学者、 技術の専門家ということになった。しかし何が正しいかのテストは、やはり合理的人間が自分 で発見できる客観的真理という基準にあった。私が語ろうとしている変化は、これよりはるか に根本的で、すべてを根底からひっくり返すような性質のものであった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,II,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.210-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

共通の人間性もまた選択された価値

あらゆる人間主義が立脚してきた前提である共通の人間性も、動かし難い客観的な事実のようなものではなく、我々の選択した価値の一つに過ぎないということを、何百万人もの同胞の殺戮という歴史的事実が示した。劣った人々、人種、 文化、民族、階級としての殺戮。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。
「私はいかに生きるべきか」
「私は何をなすべきか」
「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」
「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」
「私は幸福、知恵、善良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」
「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」
「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」
「権利とは何か、法とは何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」
「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」



「人類を二つの集団――一方では本来の人間、他方では何か別のより低い人々、劣等の人種、 劣等の文化、人間以下の存在、歴史によって死刑を宣告された民族や階級――に分けることは、 人類史では新しいことである。それは共通の人間性、それ以前の宗教的なものか世俗的なもの かは問わず一切の人間主義が立脚してきた前提を否定することである。この新しい態度から、 人々は自分の同胞の何百万もの人々を完全な人間ではないと見るようになり、彼らを救おうと したり、彼らに警告を与えようとしたりする必要はないと考え、良心の痛みを感じることなく 殺戮できるようになった。そのような行為は通常、野蛮人、未開人――文明の揺籃期によくある 前合理的な精神的態度の人々の行為とされてきた。そのような説明はもはや役に立たない。高 度の知識と技能、さらには一般的教養を身に付けながら、しかも民族、階級、あるいは歴史そ のものの名において他者を容赦なく破滅させることは、明らかに可能なのである。もしこれが 幼児期であるとすれば、いわば高齢化してからの二度目の幼児期、しかもそのもっとも嫌悪す べき形態のものと言わねばならない。人間はいかにしてこのような破目に陥ったのか。   II  現代のこの恐るべき特徴の少なくとも一つの根は、考察に値するであろう。各世代の人々が 問うてきた問題の中には、人間はいかに生きるべきかという根本的な問題があった。この種の 問題は、道徳、政治、社会の問題と呼ばれるが、それは各時代の人々を悩ませ、変わりゆく環 境と思想によって異なった形態を帯び異なった回答を受けてきたが、それでもいくつかはいわ ば一家族の成員たちのように似かよったところがあった。いくつかの問題は他の問題よりも根 強く残った。人間の永遠の特徴から発生する問題は、各世代で基本的ないし恒久の問題と呼ば れた。「私はいかに生きるべきか」、「私は何をなすべきか」、「私は何故、そしてどの程度 まで他人に服従すべきか」、「自由、義務、権威とはそれぞれ何か」、「私は幸福、知恵、善 良さをそれぞれ求めるべきなのか、それはまた何故か」、「私は私自身の能力を発揮すべきな のか、それとも自分を他者の犠牲にすべきなのか」、「私は自ら統治する権利を持つのか、そ れともうまく統治されることを要求する権利しか持っていないのか」、「権利とは何か、法と は何か、個人、社会、あるいは全宇宙が実現を求めざるを得ない目的といったものがあるのか、そんなものはなくて、食べている食物、育ってきた環境で規定された人間の意志しかない のか」、「集団や社会や民族の意志といったものはあるのか、そこでは個人の世界は一つの断 片にすぎず、その枠組みの中で個人の意志ははじめて何らかの効果や意義を持つのか」。国家 (あるいは教会)に対するに個々人と少数者集団、権力や効率や秩序を求める国家の意志に対 するに幸福や身体の自由や道徳原理を求める個人の要求、これらすべては一つには価値の問題 であり、また一つには事実の問題――「すべし」と「である」の問題であった。そして人間は歴 史の記録に残っているかぎり、それらの問題に取りつかれてきたのである。  私は次のように言ってよいと考えている。これら基本問題にたいしてどのような答えが出さ れたにせよ、ともかく18世紀中葉以前にはそれは原理的に答えを出せるものと思われていた。 (たとえあなた自身答えが何かを知らなかったとしても、どのような答えが正しい答えなのか ということまで判らないような問題ならば、それは問題があなたには理解できないということ であり、つまりはそれはもともと問題ではないことを意味した。)価値の問題も事実の問題と 同じような意味で回答できるものと考えられていた。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,I,II,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.208-209,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




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