2022年1月26日水曜日

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの創造物である人間

「全宇宙を含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」もし全人類が一人の人間のように語れるなら、恐らく全てを記憶し、全てを理解し、語るべきこと一切を語り得るであろう。人間の現在の在り方は、人間自らが作ったものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ヴィーコの有神論と人文主義的歴史主義との、摂理の巧智という考えと人間の創造的自己 改革的いとなみの力説との、その間の拮抗は『新しき学』の中では融けていない。それを弁証 法的と呼ぶのは、ただ意味深甚な言葉を使って事実を隠しているに過ぎない。カトリック系の 解説者は前者を強調し、ミシュレなど人文主義思想家は後者の筋を取上げているのだ。ただ彼 の最も熱烈な発言を喚起しているのは、確かに人文主義的展望の方だと思われる。「全宇宙を 含む壮大な理念が展開するのを見るとき(人間は)神のような喜びを覚える。」神のようなと は、われわれが自分たちの創造活動を見ているからである。「物事を創った人が自ら記述する とき以上に、確実な歴史はあり得ない」。そしてまた、奇妙で晦渋だが、読む人を愕然たらし める特徴的な一節で、彼はこう付記する、「人びとは論理によって言語を発明し、道徳によっ て英雄たちを創り、家政によって家族を起こし、政治によって都市を作り、自然学によって、 ある意味で、自分たちを創った。」この「ある意味で」とはどういうことか。ヴィーコは説明 していない。人間の現在の在り方、及び彼らの信ずるところ、それは人間自ら作ったものであ る、個人個人がやったのでなければ、集団として作ったのである。もし全人類が一人の人間の ように語れるなら、おそらくすべてを記憶し、すべてを理解し、語るべきことを一切語りうる であろう。だが人間各人が単独で人類史の全体を創り出したわけではないから、人間は、たと えば数学者が己の案出したものについて知るようには、真理を知り得ない。とはいえ、歴史の 主題は現実のものであり、仮構のものではないから、『新しき学』はたとえ数学より明晰さが 劣るとはいえ、現実世界の真理を告げることができるので、これは幾何学、算術、代数学など のできることではない。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,10,pp.172-173,みすず書房(1981), 小池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

言語と文化、社会、経済、政治構造

言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


「アガメムノンもヤペテも(彼らは「神々の」時代に属している)、それぞれ娘を犠牲に献 げたのは、誓いの言葉を発すること自体が、自然の因果と等しい力を持ち、言葉は、まさにそ れが口から出たことによって現状を直接に変更した(また変更せずにはおかぬ行為と認められ た)が故である。ヴィーコの考えでは、言葉がこのように機能し得る社会は、言葉がただ叙述 し、説明し、表現し、祈り、命令し、若干の言葉遊びを行うなどの用途にしか使えない社会と は、全く異なった具合に、見、感じ、考え、行動するに違いない。  この説が――その他のヴィーコ独特の仮説のどれにしても――正しいかどうかはさして重要では ない。重要なのは、それらによって彼の成し遂げたところである。彼の発生論による語原説や 言語学は、大部分明らかに誤っていたり、ナイーヴであり、また奇想天外である。しかし、言 語形式が言葉を使う人びとの精神に至る鍵であり、さまざまな社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵であるという、含みの多い革命的真理を把握したのは、わたしの知る限り、 ヴィーコが最初であったことも同様に明らかである。ある特定の言い回し、ある言語の用法と 構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、「有機的」な連関を持っていることを、彼はそれまでの誰よりも、(1世紀 半前の)偉大なヴァルラやその弟子たちよりも、遥かに明らかに看取したのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,5,pp.119-120,みすず書房(1981),小 池銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

真なるもの、作られたもの

「真なるもの(verum)と作られたもの(factum)とは言い換えられる」。数学は、甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それは我々の精神の自由な所産だからである。数学の命題が真実なのは、我々自身がそれを作ったからである。(ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「この時代、ほとんどすべての人が、数学とは自然についての事実の知識の一形態であり、 あらゆる科学の中でも最も深遠・確実で啓示するところの大きいもの、粗野な五感にはとても 望めぬほどの能力を具えた形而上的洞察の対象、事物のしばしば曖昧で常に人を誤る外観を退 けて、その真の属性を明かす力を持った人間理性の誇り、と考えていたが、その時に、なるほ ど数学は甚だ明晰、厳密で、反駁の余地はないものの、それはわれわれの精神の自由な所産で あるからのこと、数学の命題が真実なのはわれわれ自身で作ったからである、と宣言するの は、まことに重大な一歩であった。ヴィーコの有名な一句「真なるもの(verum)と作られた もの(factum)とは言い換えられる」はこのような意味なのである。ヴィーコがこの原理を 表明した時に列席していた名士たち、ナポリ総督やグリマーニ枢機卿が、果たしてこの発言の重大性に気づいていたかどうかは、大いに疑ってよいであろう。この点では、彼らも当時の学 者、いやその後の知識人たちとも変わりはなかったのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.56-57,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間が自ら創造した世界

人間の創造物には、創造の媒体自体が従う規則性の制限を受けつつ創造する場合から、ほとんど媒体の制限を受けずに、自由に創造する場合まで、いろいろなバリエーションがある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(a)創造の媒体と創造の規則
 ある物の創造者には、特にその物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。
(b)媒体の制限の影響を受けつつ自由に創造する場合
 作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない。作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である。
(c)ほとんど媒体の影響を受けないと考えられる場合
 芸術的創造が純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど我々は「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。



「「原因を閲した」知識が他の知識より優れているという見解は古くからあり、スコラ哲学 の中にも再三見られるものである。神もそのように世界を知っておられる、何故ならば、神 は、神のみが知るやり方で、また理由から、世界を創られたのであるから。一方、われわれ人 間は、世界をそれほど十分には知り得ない、何故ならば、われわれがそれを作ったのではない ――いわば、「出来合い」として発見し、「ままならぬ事実」として与えられたのであるから。 ある物の創造者には、特に(神の場合のように)その物を組立てている素材までも自分で創 り、更にそれを作る際の規則までも自分で案出しているとすれば、原則として不明瞭なものが あるはずはない。彼はそれについて残らず答え得る。自分自身の意思に応じて、その存在と機 能のいわれを心得ている材料を使って作ったのだ。その材料にしても自分の意向にかなうよう に作ったのだから、(作者として)自分だけは十分わかっているわけである。これは例えば、 小説家が自作の小説の登場人物を十分理解し得る、画家や作曲家がその絵画や歌曲を十分解し 得るといえるのと同じ意味である。なるほど作家や作曲家の場合は、すべて自分が作ったもの ではない――作家の使う単語、作曲家の用いる音は、大抵の場合、自分で作り出したものではな く、その点で、作者にとって「ままならぬ事実」である――この与えられた媒体を、ある制限内 で、彼は自由に選べるが、いったん選んでしまえば、何故それがこれこれの性質を具えている か、その理由は必ずしも解さないまま――「原因を閲して」知ることなきまま――その媒体に従わ ざるを得ない。それゆえ、われわれが何ものかを文字通り無から作り構想したような理想的な 場合のみ、われわれはわれわれの作ったものを十分に理解しているといえる。というのは、そ ういう場合、創造することと何のために何を創造したかを知ることが単一の行為だからであ る。神が世界を創造されたのはこのような具合なのだ。芸術的創造がこの極限状況に近づけば近づくほど――純粋な創造の要素が大きくなり、それ自体の「外的」法則に従う「ままならぬ」 素材が少なければ少ないほど――われわれは「原因を閲して」理解していると言えるし、本当に 知っていると言える。代数学や算術の場合は、実質上これなのだ。そこで用いられる(耳で聴 き眼で見る)記号の形は、たしかに感覚にかかわる素材ではあるが、それらは全く恣意に選ん だもので、いわば勝手に考案したゲームの数取りとして使っているのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,2,pp.52-53,みすず書房(1981),小池 銈(訳))
アイザイア・バーリン
(1909-1997)





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