開かれた社会を守る
【寛容な人が、寛容ではない人に寛容である義務はない。とは言え、開かれた社会は、可能な限り狂気的な周辺部に対しても寛容であるべきだろう。しかし、それは無制限ではない。寛容を守る何らかの制度が必要だろう。(カール・ポパー(1902-1994))】
「開かれた社会における自由と寛容は、無制限なものと考えられるべきではない。われわれは、それに報いる用意のあるすべての人々に意見の自由を保障すべきだろうが、不寛容や暴力を真剣に喧伝する人々を、この保障に含めてはならない。ここで再び、われわれは過去の誤りから学ぶことができる。寛容という考えにあまりにも深く傾倒しすぎているため、非寛容と、暴力を使用することに対する、《あらゆる》種類のプロパガンダに寛容でなければならないと感じてしまう人々は、自らと寛容という考えを破壊するのに手を貸すかもしれないのである。
インドのジャングルに住んでいて、トラの生命の神聖さを含めた生命の神聖さの信仰のために消滅したあるコミュニティの、心の痛む話を、私はかつて読んだことがある。不幸にもトラはそのコミュニティに報いることはなかったのである。
同じように、1933年以前のドイツ共和国――いわゆるワイマール共和国――は、ヒトラーに寛容だった。しかし、ヒトラーはそれに報いることはなかった。
これは、われわれが今学ばなければならない誤りの一つだ。確かに、寛容な人が、寛容ではない人――恩に報いることのない人――に寛容である義務などありえない。しかし、そのような義務はないとは言え、開かれた社会は、平和と強さの時代の中でなら、可能な限り狂気的な周辺部に対して、つまり、非寛容を、そして暴力さえを説いて回る人々に対して寛容であるべきだろう。そしてそのような狂気の周辺部には、同時に、不寛容の形態の《あらゆる》攻撃的形態に寛容であるつもりがないならば、寛容は偽善だと非難する人々もいる。社会生活は、やりとりの応酬の生活である。自由な社会は、暴力を用いるごろつきが暴力を用いて隣人をいじめるのを抑えるであろうし、また、自由な社会は、その国家の中に、あらゆる人々の権利を保証する制度を見て取るだろう。それは人々が、たまたま権力をもった人々によってであれ、専制政治を確立するために権力をつかもうとする人々によってであれ、いじめられたり、強制服従させられることのないよう守られるように取り計らうための制度である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と民主国家――1963年,pp.198-199,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
(索引:開かれた社会を守る,寛容,非寛容,暴力,開かれた社会)
(出典:
wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《
いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、
自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、
異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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