在る法と在るべき法の区別
【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】
在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3.1)~(3.4)追記
(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
(3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
(3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
(3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
(3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
(3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
(3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
(出典:
wikipedia)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)
「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。
二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。
ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。
しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。
法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。
一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。
ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。
これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。
一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)
(出典:
wikipedia)
「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)
ハーバート・ハート(1907-1992)
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