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2021年12月23日木曜日

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

自然権批判

政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))














(a)もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のであり、いかなる例外も、あるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは危険なほど無政府主義的になる。不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、確立された法を「無効」にし、法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するようなものと理解されることになる。
(b)逆に、一 般的な例外を承認するならばたとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針となる。




 「ベンサムの第二の批判は、政治的論議や確立された法および社会的諸制度の批判の場にお いて非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的であるにちがいないか、もしくは、総じて無意味ないし瑣 末なものであるだろう、というものである。もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のでありいかなる例外もあるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは前者であろ う。ある何らかの確立された法に対して強い反発感情を抱く人びとは、不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、このような感情を何かより以上のものとして、つまり 確立された法を「無効」にし法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するよう な、何か確立された法に優位するものの要求として表わすことができるであろう。そうする代 わりに、自然権が形式上絶対的なものとして表わされず(フランス「人権宣言」のように)一 般的な例外を承認するならば――たとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば――、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針なのである。かくして、新しいアメリカ諸 州のいくつかでは、憲法上、明文によって自然的自由が宣言されたにもかかわらず、それは奴 隷所有者の奴隷を所有する権利に影響を与えないとされたことで、自然権は瑣末なものとなっ たのである。このように、自然権は、政府の権力行使が常に自由や所有に対する何らかの制限 を伴っているがゆえに、整序だった政府と両立しえないか、それとも瑣末で空虚で役立たない かのどちらかである、とベンサムは結論づけたのである。」
 (ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利 主義と自然権,pp.214-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))

【中古】 法学・哲学論集 /H.L.A.ハート(著者),矢崎光圀(訳者),松浦好治(訳者) 【中古】afb


ハーバート・ハート
(1907-1992)




2019年4月25日木曜日

11.人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

人間以外の動物たちへの配慮

【人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

(2.3)追記

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
  人間以外の動物たちも、苦痛を感じることができる。なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対しては、いかなる理由も見いだすことはできない。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムによれば、人間の快苦に配慮することと同じように人間以外の動物の快苦に配慮することも道徳的義務である。

ヒューウェル博士はベンサムから引用し、誰もがそれを逆説的な不合理の極みと見なすだろうというきわめて素朴な考えを示しているが、私たちはその賞賛に値するベンサムの文章を引用せざるをえない。

 『ヒンドゥー教やイスラム教においては、人間以外の動物の利益もある程度配慮されているようである。

なぜ動物たちの利益は、感受性の違いを考慮に入れた上で、人間の利益と同じくらいの配慮を普遍的には受けてこなかったのだろうか。

既存の法律は人間相互の恐怖心の産物であり、理性能力で劣る動物は、人間のように恐怖心という感情を活用する手段を持ち合わせていなかったからである。

なぜ動物たちの利益は、配慮を受けるべきではないのか。これに対してはいかなる理由も見いだすことはできない。

人間以外の動物が、暴君の手による以外には彼らから奪うことのできなかった権利を獲得する日がいつかくるだろう。いつの日か、足の本数、皮膚の毛深さ、あるいは仙骨の先端[尻尾の有無]が、感覚をもっている存在を虐待者の気まぐれに任せる根拠としては不十分であると認められることだろう。

何かほかに越えがたい一線を引くようなものがあるだろうか。

それは理性能力なのか、あるいはひょっとすると会話能力なのか。しかし、成長した馬や犬は、生後1日や生後1週間、さらには生後1ヵ月の乳児よりも比べものにならないほど理性的で意思疎通のできる動物である。

しかし、仮にその正反対のことが事実であったとしても、その事実が何の役に立つのだろうか。

問題は理性を働かせることができるかでも、話すことができるかでもなく、苦痛を感じることができるかということなのである。』

 約50年後に成立した動物虐待を禁止する法律ではじめて現れたより優れた道徳を1780年の時点でみごとに予期していたこの文章は、ヒューウェル博士の目には、幸福に基づく道徳論が不合理であることを決定的に証明するものとして映っているのである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.217-219,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:人間以外の動物たちへの配慮)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年3月30日土曜日

2.義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

 何が正しく何が不正かを教えてくれるという「道徳感覚」と同じように、人々が考えついた様々な表現の仕方がある。
(a)何が正しく何が不正かは、私たちの「共通感覚」が教えてくれる。
 (a.1)共通感覚は、人間が持っている普遍的な感覚であり、すべての人が持っている。
 (a.2)特別の人だけが持てる特殊な感覚ではなく、私たちが共通に持っている。
 (a.3)それにもかかわらず、同じ感覚を持っていない人の感覚は、どのように扱われるのか。それは、考慮する価値のないものとして排除されることになる。
(b)何が正しく何が不正かは、私たちの「悟性」が教えてくれる。
 (b.1)しかし、悟性とは何なのか。
(c)何が正しく何が不正かは、「永久不変の正義の規則」が教えてくれる。
 (c.1)道徳感覚や共通感覚は、永久不変の正義の規則に由来して生じるものである。
 (c.2)しかし、永久不変の正義の規則とは何なのか。
(d)何が正しく何が不正かは、「事物の適性と調和するか、一致しないか」に由来する。
 (d.1)しかし、何が「調和的」であり、何が「一致しない」ことなのか。
(e)何が正しく何が不正かは、「自然法」が教えてくれる。
 (e.1)道徳感覚や共通感覚は、自然法に由来して生じるものである。
 (e.2)しかし、自然法とは何なのか。
(f)何が正しく何が不正かは、「理性の法」、「正しい理性」、「自然的正義」、「自然的公正」、「良い秩序」が教えてくれる。
 (f.1)いずれも、問題になっている事柄が、ある適切な基準に従っていることを表現している。
 (f.2)しかし、適切な基準は具体的には何なのか。
 (f.3)この基準は、多くの場合、功利性である。明確に言えば、快と苦痛による基準である。
(g)何が正しく何が不正かは、「私が知っている」と率直に言う人がいる。その人は、神に選ばれた人である。
 これらの成句は、それが根拠とする基準と、論拠として認められ得る意味と範囲が確定されない限りは、自己の主観的な感覚・感情に基づいた根拠の曖昧な主張を、世間と自己自身に隠し立てておくための表現にしかならない。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「以下の一節は彼の最初の体系的著作である『道徳と立法の原理序説』からのものであるが、彼の哲学体系の長所と短所をこれ以上にはっきりと示しているものを引用することはできないだろう。
 『きわめて一般的で、それゆえにきわめて許容されうる自己充足を世間から、そして可能なら自分自身からも隠し立てておくために、人々が考えついたさまざまな作り事や人々が持ちだしてきたさまざまな成句を調べてみることはなかなか興味深いことである。
 1、ある人が言うには、人が何が正しくて何が不正であるかを自分に教えることを目的として作られているものを持っており、それは「道徳感覚(moral sense)」と呼ばれている。彼は安心して仕事に取りかかり、これこれのことは正しく、これこれのことは不正であると述べ、なぜかと聞かれたならば「私の道徳感覚がそのように教えてくれているから」と答える。
 2、別の人はその成句を修正して、《道徳》という言葉を省いて、そこに《共通》という言葉を挿入する。そうして、その人は、自分の共通感覚(common sense)が、他の人の道徳感覚がそうしているのと同じくらい確実に、何が正しくて何が不正なのかを教えてくれると述べる。共通感覚とはすべての人間が持っている何らかの感情のことを意味していると述べる。そして、論者と同じ感覚をもっていない人の感覚は考慮する価値のないものとして排除される。この工夫は道徳感覚よりも優れている。というのも、道徳感覚は新奇なものなので、人にそれを見出すことがなくてもその人に好感をもつかもしれないが、共通感覚は人の創造と同じくらい古くからあるものなので、同胞と同じような共通感覚をもっていないと思われることを恥ずかしいと思わない人はいない。それはもうひとつ別の利点をもっており、それは権力を共有しているように見せかけることで妬みを小さくするというものである。というのは、ある人がこの根拠に基づいて自分と異なっている人を呪おうとするときには、「我かく欲し、かく命ず」とは言わずに、「汝の欲するごとく命ぜよ」と言うからである。
 3、また別の人は、道徳感覚なるものが実際にあるとは思えないけれども、私は《悟性》(understanding)をもっており、それもきわめて役立つものであると述べる。その人が言うには、この悟性が正・不正の基準であり、いろいろなことを教えてくれる。善良で賢明な人はみな、自分と同じように悟性を働かせている。他の人々の悟性がいずれかの点で自分と違っているとしたら、間違っているのは彼らであり、それは彼らに何かが欠けているか間違っているかの兆候なのである。
 4、また別の人は、永久不変の正義の規則があり、その正義の規則がいろいろなことを命じていると述べる。その上で、その人は真っ先に思い浮かぶものについての自らの感情を認めさせようとする。その感情は永久的な正義の規則から数多く派生したものである(と思うしかなくなるだろう)。
 5、他の人は、あるいは同じ人かもしれないが(それはどうでもよいことである)、事物の適性と調和する行為もあれば、それと一致しない行為もあると述べる。それから、その人は暇にまかせて、どのような行為が調和的であり、どのようなものが一致しないのか語るだろうが、その人が何となくその行為を好んでいるか嫌っているかに応じてそうするのである。
 6、大多数の人々が、自然法についてつねに語り、その上で彼らは何が正しくて何が不正なのかに関する自分たちの感情を表明しようとしており、人はその感情が自然法の数多くの章節を構成しているものであることを知ることになるだろう。
 7、自然法という成句の代わりに、時には理性の法、正しい理性、自然的正義、自然的公正、良い秩序という成句が用いられる。そのいずれもが同じように用いられる。最後のものは政治学においてもっとも用いられている。最後の3つのものは他のものにくらべたらましである。というのは、成句が意味している以上のものをそれほどはっきりとは主張していないからである。それらはそれ自体で多くの積極的基準とみなされることをごくわずかしか求めておらず、どのような基準であっても、問題になっている事柄が適切な基準に従っていることを表現している成句として時おり受け取られることで満足しているように思われる。しかし、多くの場合、[その基準は]《功利性》であるというのがよいだろう。《功利性》はより明確に快と苦痛に言及しており、より明快なものである。
 8、ある哲学者が言うには、嘘をつくということ以外にこの世界には有害なものはなく、たとえば、もし人が自分自身の父親を殺害しようとしているならば、これは彼がその人の父親ではないということを述べる一つの仕方にすぎないことになるだろう。もちろん、この哲学者は自分が好まないものを見たときには、それは嘘をつく一つの仕方であると述べるだろう。それは、《実際には》行為がなされるべきでないときに、その行為はなされるべきであり、なされてもよいと言っているようなものである。
 9、彼らすべてのなかでもっとも聡明でもっとも率直なひとははっきりと意見を述べるような人であり、自分は選ばれし人の一人であると述べている。今や神自らが選ばれし人に何が正しいかを知らせるように取り計らっており、それはよい効果をもっているので、選ばれし人は非常に努力するようになり、何が正しいかを知るだけでなく実践せずにはいられなくなる。それゆえ、何が正しくて何が不正なのかを知りたいと思うならば、人は選ばれし私のところに来る以外にない。』
 これらの成句やそれに類似したものが、ベンサムが理解していた程度のものにすぎないという見解をもっている人はほとんどいないように思われる。しかし、これらの成句が訴える基準が確かめられ、論拠として認められうる《意味》と《範囲》が的確に明らかにされるまでは、これらの成句の意味は完全に分析されており、より正確な言葉に言い換えられており、これらの成句は根拠として通用しうるということを、今日では思想家として権威ある人は誰もあえて主張しようとしないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.109-113,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳感覚,共通感覚,悟性,永久不変の正義の規則,事物の適性との調和,自然法,理性の法,自然的正義,公正,良い秩序,神の啓示)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2018年10月26日金曜日

7.12.在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

在る法と在るべき法の区別

【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

(3.1)~(3.4)追記

(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。

二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。

ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。

しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。

法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。

一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。

ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。 

これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。

一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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