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2022年1月14日金曜日

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

倫理的独立への権利

倫理的独立への権利は、宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈である。それは、宗教的自由の歴史的核心を保護する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)倫理的独立への権利は宗教的自由や宗教的寛容の最善の解釈
 倫理的独立への権利が、歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを、我々は知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならない。そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって、倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。

(2)倫理的独立への権利
 (a)倫理的独立への権利は、宗教的自由の歴史的核心を保護する。
 (b)倫理的独立への権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定する。 
 (c) 倫理的独立への権利の侵害の例
  (i) ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている。
  (ii)政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている。
  (iii)無神論は不道徳を生む。
  (iv)国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。
 (d)暗黙の服従関係による拘束の排除
  倫理的独立は、表面上は中立だが、何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。

(3) 宗教的行為への特別の権利
 もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? 

(4)宗教的行為への平等な配慮の要請
 平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を、何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。
 (a)平等な配慮の要請による免除や改善措置
  政策が禁止あるいは負担させようとしている活動が、自らの神聖な義務にかかわると考えるグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からして、そのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。
 (b)例外が政策に顕著な害を及ぼさない場合
  もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。

 (c)義務免除が深刻な危険を及ぼす場合
  法律の趣旨が回避しようとしているような深刻な危険を、義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。
 (d) 非差別的な集団的統治が優先する
  非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。

 「ここで私はある示唆をすることができる。われわれが宗教の自由を定義する際に出くわし た諸問題は、宗教を神から切り離すとともにその権利を特別の権利として保持しようとしたこ とから来ている。われわれはその代わりに、〈保護のハードルが高くて、それゆえ厳格な制限 のためのやむにやまれぬ必要と注意深い定義がなければならない、宗教的自由への特別の権 利〉という観念を捨てることを考慮すべきだ。それに代えて、その想定された権利の伝統的な 主題に、倫理的独立へのもっと一般的な権利を適用すべきだ。この二つのアプローチ間の違い は重要だ。特別の権利は問題となっている主題に注意を固定させる。宗教的自由の特別の権利 は、並みはずれた緊急時でなければ宗教的活動を制限してはならないと宣言する。その反対に 倫理的独立への権利は、政府と市民との間の関係に注意を向ける。その権利は、政府が市民の 自由をいくらかでも制約するためにもちだすことができる理由を限定するのだ。  われわれは次のように問うべきだ。――われわれが保護しようと望む信念は倫理的独立への一 般的な権利によって十分に保護されるものなので、それだから厄介な特別の権利の必要はないのだろうか? そうだ、と答えるならば、われわれはすべての憲法、条約、人権規約を根本的 に再解釈するための強力な根拠をもつことになる。それらの文書が宣言している宗教的自由へ の道徳的権利を、われわれは倫理的独立への権利として理解しなければならない。われわれは その権利が歴史的に宗教領域に限って表明されていたのはなぜかを知っているが、その権利は 最善の今日的な意味で解さなければならないと主張し、そして宗教的寛容をもっと一般的な権 利の一例として理解することによって倫理的独立への権利の可能な限り最善の正当化を与え る。  たからふたたびこう問うてみよう。――倫理的独立への権利は、よく反省したあとで必要だと 信ずるような保護をわれわれに与えるだろうか? その一般的権利は宗教的自由の歴史的核心 を保護する。その権利はあらゆる明示的な差別を否定する。またいつでもそのような差別は、 〈ある形態の信仰は真理あるいは美徳の点で他の信仰よりもすぐれている〉とか〈政治的多数 派はある信仰を他の信仰より優遇する資格をもっている〉とか〈無神論は不道徳を生む〉とか 想定しているのだが、そのように想定する国教会制度も、倫理的独立への権利は否定する。倫 理的独立は、表面上は中立だが何らかの直接あるいは間接の服従関係を暗黙のうちに想定して 作られたいかなる拘束をも排除するという、もっと繊細な仕方でも宗教的信仰を保護する。そ のような保護で十分だろうか? われわれはいかなる拘束についても、単に中立的であるだけ でなくやむにやまれぬ正当化を要求するような、特別の権利を必要とするのだろうか?」(中 略)  「もしわれわれが宗教的実践の自由な行使への特別の権利を否定して、倫理的独立への一般 的権利だけに頼るならば、諸宗教はそれらへの平等な配慮を示す、非差別的で理性的な法律に 従うように、その実践を制限するように強いられるかもしれない。あなたはそのことをショッ キングだと思うだろうか? これらの要請の最後のものである平等な配慮の要請は、立法府が 禁止しようとしている、あるいは負担を課そうとしている活動を何らかのグループが神聖な義 務とみなしているかどうかに立法府が注意を払うよう要求する。もしそのようなグループがあ れば、立法府はそのグループに対する平等な配慮からしてそのグループへの免除あるいは他の 改善措置をとる必要があるかどうかを考慮しなければならない。もし問題の政策に顕著な害を 加えずに例外を認めることが可能ならば、その例外を認めないことは不合理かもしれない。」 (中略)「しかしもしペヨーテ事件のように、法律の趣旨が回避しようとしているような深刻 な危険を義務免除が人びとに与えるならば、免除を拒むことは平等な配慮を否定するものでは ない。そのようにして非差別的な集団的統治が私的な宗教の実行に優先することは、不可避で あり正しいことであると思われる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第3章 宗教的自由,筑摩書房 (2014),pp.142-146,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人間の生命の価値

人間の生命には、自然的生命という意味でも、生涯という意味でも、内在的価値がある。各個人の生涯には、その人がどう考えるかにかかわらず客観的な意味と重要性が存在し、各個人には、自己の生涯に対する不可避的な倫理的責任が存在する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)各個人の生涯には客観的な意味と重要性が存在する
 他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れて善く生きること。なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。
 (a.1)自己の生涯に対する各個人の不可避的な倫理的責任
  人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。

(b)自然における生命の価値
 自然の中の生命は、全体としても、またあらゆる部分においても、単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。



「ではわれわれは、何を宗教的態度とみなすべきなのか? 私は十分に抽象的で、それゆえ 普遍的と言えそうな説明を与えたい。宗教的態度とは、価値の完全な、独立した実在性を受け 入れる態度だ。それは価値に関する次の二つの主要な判断を受け入れる。第一に、人間の生は 客観的な意味あるいは重要性をもっている。各人は自分の生を成功したものとすべく努める、 内在的な不可避の責任を負っている。それが意味することは、他の人びとに対する道徳的責任 だけでなく自分自身に対する倫理的責任をも受け入れてよく生きることだが、なぜそうなのか というと、単にわれわれがたまたまこれを重要だと考えるからではなくて、われわれがどう考 えるかにかかわらず、それがそれ自体として重要だからだ。第二に、われわれが「自然」と呼 ぶもの――全体として、またあらゆる部分において――は単なる事実の問題ではなくて、それ自体が崇高なもの、つまり内在的な価値と驚異をもつものである。この二つの包括的な価値判断は 一緒になって、〈生命という意味でも生涯という意味でも、人間の生(human life)には内 在的価値がある〉と宣言する。われわれは自然の一部である。なぜならわれわれは物理的な存 在として存続するからだ。自然はわれわれの物理的生の場であり栄養素である。われわれは自 然から離れてもいる。なぜならわれわれは自分自身を生涯を作り出すものとして意識してお り、そして自分が作る生を全体として決める決断を行わなければならないからだ。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『神なき宗教』,第1章 宗教的無神論,筑摩書房 (2014),pp.20-21,森村進(訳))

神なき宗教 「自由」と「平等」をいかに守るか [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

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