絶対的価値と相対的価値
【事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】下記(1.3)の補足説明である。
(1.3.1)『「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります』。
(1.3.1.1)目的(最短時間で着きたい)を与えて、その手段を展開することは、事実の表明である。
(1.3.1.2)ある手段(この道が正しい)は、特定の目的を前提した限りで、他の手段と比較して「正しい」のであり、「相対的価値の判断」である。すなわち、「事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ない」。
(1.3.1.3)目的自体は、事実の世界の外から与えられている。
(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
(1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
(1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
(1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
(2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
(2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
(3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
(3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
(3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
(3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
(3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」
「この相違の本質は明らかにつぎの点にあると思われます―――すなわち、相対的価値の判断はいずれも単なる事実の叙述に過ぎず、したがって、価値判断としての外見を完全になくしてしまうような形にすることができる、という点であります。
「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります
―――「この男はよい走者だ」は、彼は何マイルかを何分間で走る、ということをいっているに過ぎず、他の場合も同様であります。
さて、私が強く主張したいのは、相対的価値の判断はすべて単なる事実の叙述に過ぎない、ということを示すことができるとしても、事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ないか、あるいはそれを含むことはできない、ということであります。
この点を説明しましょう―――皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きを御存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態を御存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう
―――そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが《倫理的》判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。
それはむろん、すべての相対的価値判断とすべての科学的に真である命題と、そして事実、主張し得る真なる命題のすべてを含んでおりましょう。
しかし、記述された事実はすべて、いわば同じ次元にあることになりましょうし、また同様にして、全命題も同次元上にあるわけであります。なんらかの絶対的な意味で、崇高な、あるいは重要な、あるいは瑣末な命題は一切存在しません。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.385-386、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,絶対的価値,相対的価値)
(出典:wikipedia)
「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)
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