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2022年1月13日木曜日

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

人々の直感、生命の不可侵性

生命に対する自然的投資と人間的投資の挫折の概念によって、生命の不可侵性に対する中絶の意味を理解できたが、尊厳死についてはどうだろう。それが、患者の最善の利益であると本人が考える場合でも、その利益を犠牲にして自然的生命を守ることが正しいとは思えない。しかし、それでもなお、意図的な死は生命の本質的価値に対する最大の侮辱であるという直感がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の不可侵性と挫折
 中絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。

(b)自然的投資と人間的投資の挫折
 私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。
 
(c)患者の最善の利益とされる場合でも悪なのか
 尊厳死はさまざま な形態、自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益とされる場合であっても、悪とされることがあり得るのだろうか。

(d)意図的な死は生命の本質的価値に対する侮辱する
 意図的な死は、たとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。


「◇人々の直感――生命の不可侵性  既に述べたことであるが、もう一つ別な問題に話を転じることにしよう。尊厳死はさまざま な形態――自殺、自殺幇助、治療中止や生命維持装置の除去――をとるものであるが、仮にそれが 患者の最善の利益と《される》場合であっても、悪とされることがありうるのだろうか? 中 絶の議論をする際に、私は生命の不可侵性という独特の解釈――ある人間の生命が開始された以 上、その生命に対する投資が破壊される場合、それは生命の抹殺・破壊(waste)という本来 的に悪い出来事が起こったのである――を擁護した。私は死の決定が人間の生命に対する投資の 破壊と考えられる場合を、二つの別な次元の問題――私はこれを自然的投資と人間的投資の次元 の問題と名付けた――として区別し、その区別を用いて、中絶に関して明確に保守的な見解につ いての解釈を行なった。この見解(=保守的見解)によると、人間の生命に対する自然的投資 は人間的投資よりも際立って一層重要なものなのであり、従って早死を選択することは、生命 という神聖な価値に対する最大の侮辱となる可能性をもつものなのである。  我々は尊厳死に関して明確な保守的見解についての解釈をする際にも、同じ区別を用いるこ とができる。仮に我々が多くの宗教的伝統に合致したこのような見解――技術的に延命可能で あった人が死ぬ場合はいつでも、人間の生命に対する自然的投資の挫折となる――を受け入れる ならば、人間の手による一切の介入――致死量の薬を末期ガンで苦しんでいる人に注射したり、 永続的植物状態の人から生命維持装置を撤去すること――は自然を欺くこととされよう。した がって、仮に自然の投資がそのような意味に理解されることによって、生命の不可侵性に対す る方向づけがなされるならば、尊厳死というものは常にその価値に対する侮辱とされることに なる。私の考えではこのような主張が、世界中で、あらゆる尊厳死の形態に対する強力な保守 的反対意見の最も強い基礎を形成しているものなのである。もちろんそれが唯一の論拠ではな いのであり、人々は実務的で行政的な問題についても懸念を示しており、(尊厳死を認めるこ とによって)万一生命が蘇生したかもしれない人に対して死の許可をすることになりはしない かと恐れている。しかしながら、意図的な死はたとえそれが患者の利益とされる場合であって も、生命の本質的価値に対する最大の侮辱となるものであるという直感は、尊厳死に対して保 守的な態度の人々が抱く嫌悪感の中でも、最も深く最も重要な部分なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第7章 生と死のはざま ――末期医療と尊厳死,生命の不可侵性と自己の利益,信山社(1998),pp.346-347,水谷英夫, 小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

精神的・宗教的なもの

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の神聖さ
 我々が共有しているもの 、すなわち、我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約は、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。

(b)中絶のモラル性に関する意見の相違
 中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはならないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。

(c)不一致点は精神的・宗教的なもの
 これらの不一致は基本的には精神 的・宗教的なもの(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存することに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 

「◇中絶議論の再構成――人々の不一致点の宗教性(精神性)の確認  我々はどこに立っているのだろうか? 私は、本書の議論を開始する際に、我々は深刻な中 絶論争に関する解釈――そして、その議論が何に関するものなのかということに関する我々の理 解――の再構成(redesign)をしなければならないと提言した。私は、ここでその再構成に関 する提言をしめくくることにする。私は、この新しい解釈は政治的モラルと憲法にとって重要 な意味を提供することになるであろうと述べた。私はこの再構成によって、我々は、アメリカ 合衆国憲法の役割についての法的論争に新しい光をあてて見ることができるようになり、更 に、アメリカと他の諸国のように自由が尊重されている国々の人々が、政治的論争において、 慎重ながらも、全ての立場の人々が尊厳をもって承認できる一つの共通の結論(a collective solution)を見い出す希望を抱くことができるようになるであろうと述べた。 私はこれらの厳粛な約束を、これに続く三つの章で果たすことを試みることになるが、ここで は最も重要な結論を予告しておこう。もちろん、私が述べたような新しい光を中絶論争にあて て見たからといって、中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはなら ないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。しかしその新しい光の助けを借りて、我々が、これらの不一致は基本的には《精神 的・宗教的なもの》(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存す ることに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 我々はより大きなもの――より大きな寛大さだけでなく、より一層積極的に我々の争いに解決を もたらしてくれる認識――を望むことができるかも知れないのである。我々が共有しているもの ――我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約――は、我々自身を数十年に亘った憎悪から救済 することのできる、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, リベラル派の見解とその例外――「成熟した生命」の保護,信山社(1998),p.162,水谷英夫,小 島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生命の挫折による悪

将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を亡き者にする行為が、いま問題である。懐妊、胎児の成長から始まる自然と人間の創造的な努力の投資が、死やその他の方法で挫折させられるのが、悪の本質であるとの仮説は、この問題解明のヒントを与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)誕生から死までの過程
 人々は既に述べたように、成功する人生にはある種の自然の道筋があると考えてい る。それは単なる生物学的成長――懐妊、胎児の成長、そして幼児――に始まるが、その後、生物学的形成だけでなく、社会的・個人的訓練と選択により決定される過程を通って、少年時代、 青年時代、更に成年時代の人生へと成長発達を遂げ、さまざまな種類の人間関係と才能を満足 させることで頂点に達し、通常の生存期間を経過した後、自然死によって終了するというもの なのである。 

(b)挫折が悪であるという仮説
 この通常の人生の過程が、早死やその他の方法により挫折させられる時、通常の人生の物語を 作りあげている自然と人間の創造的な努力の投資が破壊されるのである。

(c)人間が多く生まれなくても挫折には影響がない
 人間が多く生まれず 少なく生まれたからといって、そのことは生命の挫折には何らの影響も与えないのである。何故ならば、未だ存在しない生命に対する創造的な投資努力というものは存在しないからである。

「◇生命の「挫折」――より複雑な考え  生命の破壊に対するこのより複雑な判断基準の特徴を述べるために、私は「挫折 (frustration)」(その言葉には他の意味もあるが)という言葉を使うことにしよう。何 故ならば私は、悲劇的な死に対する人々の判断基準を検討する際に考慮されるべき過去と未来 の事柄の結びつきを想起させる、これ以上の言葉を他に思いうかべることができないからであ る。大多数の人々は死と悲劇に関して、直感的には次に述べるようなものを前提として考える のである。人々は既に述べたように、成功する人生にはある種の自然の道筋があると考えてい る。それは単なる生物学的成長――懐妊、胎児の成長、そして幼児――に始まるが、その後、生物 学的形成だけでなく、社会的・個人的訓練と選択により決定される過程を通って、少年時代、 青年時代、更に成年時代の人生へと成長発達を遂げ、さまざまな種類の人間関係と才能を満足 させることで頂点に達し、通常の生存期間を経過した後、自然死によって終了するというもの なのである。  この通常の人生の過程が早死やその他の方法により挫折させられる時、通常の人生の物語を 作りあげている自然と人間の創造的な努力の投資が破壊されるのである。しかし、このことが どれほど悪なのか――挫折がどれほど深刻なことなのか――ということは、それが人生のどの時期 (stage of life)に起こるかということによるのである。何故ならば、人が自分自身の人 生に対して重要な個人的な投資努力をした後に起こる挫折の方が、その前に起こる挫折よりも 深刻なものであり、他方、その投入した投資努力が実質的に満足された後や、あるいはほぼ満 足された後に起こる挫折の方がより深刻さが少ないものだからである。  このより複雑な構成の方が、単純な生命喪失の尺度よりも、悲劇に関する人々の確信により よく合致するものなのである。この複雑な構成によると、大部分の場合、人々にとって何故青 春期の死が幼児の死よりもいっそう悪いことと思われるか、ということが説明されるのであ る。同時にそれによると、我々が新しい人間の生命を生み出すことはしばしば望ましくないこ とであると矛盾なく主張できるのか、ということが説明されるのである。人間が多く生まれず 少なく生まれたからといって、そのことは生命の挫折には何らの影響も与えないのである。何 故ならば、未だ存在しない生命に対する創造的な投資努力というものは存在しないからであ る。しかし、人間の生命が一旦開始されると成長過程が始まるのであり、その過程を妨害する ことは既に進行中の冒険を挫折させることなのである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, 「悲劇」の判断基準,信山社(1998),pp.143-144,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道具的価値、主観的価値、本来的価値

目的や目標に関して合意がある場合、その目的の役に立つかどうかで、あるものの価値(道具的価値)が判断できる。では、その目的や目標についてはどうだろう。単なる好き嫌いの違いである(主観的価値)と考えられる場合と、そのもの独自の本来的な価値(本来的価値)があると主張される場合とがある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a)道具的価値
 ある物の価値が、人々の欲する何か他の物を得ることに役立つという、その物の有益 性・能力に依存している場合、その物は道具的な(instrumentally)価値を有しているので ある。

(b)主観的価値
 またある物は、たまたまそれを望む人々にとってのみの主観的な(subjectively)価値を 有していることがある。私は、それらが嫌いな人々が何か誤りをしているとか、真に価値ある物に対し て当然払うべき敬意を払っていないとは考えない。彼らはたまたま私がすることを好きでない か、欲しないだけなのである。

(c)本来的価値
 反対にある物の価値が、人々がたまたま楽しんだり、欲したり、必要としたり、あるいは彼 らにとって良いものとされることとは独立した(independent)存在であるならば、そ の物は本来的な(intrinsically)価値を有しているということになる。たいていの人々は 少なくともある物や出来事を、そのような方法で本来的な価値があるものとして扱うのであ る。
(d)文化は本来的価値をもつ
 人々は、個々の絵画やその他の芸術作品だけでなく、より一般的に人類の文化(全体)を もそのような方法で扱うのであり、何らかの独特の文化形態――特に複雑で興味深いもの――が死 滅したり衰えたりする場合、それを恥ずべきことと考えるのである。


「◇価値の三つの種類――道具的価値、主観的価値と本来的価値  人間の生命には本来的な価値があると言う、のは、どういうことを意味しているのだろう か? ある物の価値が、人々の欲する何か他の物を得ることに役立つという、その物の有益 性・能力に依存している場合、その物は道具的な(instrumentally)価値を有しているので ある。例えばお金や薬は道具的にのみ価値がある。お金には人々が欲したり必要とする物を購 買する力以上の価値があるとか、薬には人々を治療する能力以上の価値があるとは誰も考えて いない。  またある物は、たまたまそれを望む人々にとってのみの主観的な(subjectively)価値を 有していることがある。スコッチ・ウィスキーを飲んだり、アメリカン・フットボールの試合 を観戦したり、日光浴をすることは、私のようにたまたまそれを楽しみとする人々にとっての み価値がある。私は、それれが嫌いな人々が何か誤りをしているとか、真に価値ある物に対し て当然払うべき敬意を払っていないとは考えない。彼らはたまたま私がすることを好きでない か、欲しないだけなのである。  反対にある物の価値が、人々がたまたま楽しんだり、欲したり、必要としたり、あるいは彼 らにとって良いものとされることとは《独立した》(independent)存在であるならば、そ の物は本来的な(intrinsically)価値を有しているということになる。たいていの人々は 少なくともある物や出来事を、そのような方法で本来的な価値があるものとして扱うのであ る。我々がそれらの物を尊重し保護すべきものと考えるのは、それらがもともと価値があるか らなのであり、我々や他の人々がそれらを欲するとか楽しむ場合やそれを理由とするからだけ ではないのである。  多くの人々は、例えば偉大な絵画には本来的な価値があると考えている。それらのものが価 値をもっており尊重され保護されるべきであるというのは、それらの芸術固有の属性 (inherent quality)によるのであり、人々がたまたまそれを見て楽しんだり、それらの 前で立ちどまって、何らかの知識や楽しい美的経験を見いだしたりするということによるので はない。一般に(このような場合)人々がレンブラント作の自画像の一つを見たいと思うの は、その絵がすばらしいからなのであり、人々がそれを見たいと思うからすばらしいのではな い、と言われている。」(中略)  「人々は、個々の絵画やその他の芸術作品だけでなく、より一般的に人類の文化(全体)を もそのような方法で扱うのであり、何らかの独特の文化形態――特に複雑で興味深いもの――が死 滅したり衰えたりする場合、それを恥ずべきことと考えるのである。くり返しになるが、文化 的な多様性が人々の人生を刺激あるものとすることに貢献しているという観点のみでは、この ことは十分には説明することができないのである。例えば人々が、美術館を創ってある種の原 始的な芸術形態を保護すると共にそれに対する関心を維持するのは、その作品がすばらしいと か美しいと思っているという理由や場合だけではなく、人類が作り出してきた芸術形態があた かも存在しなかったように失われてしまうならば、それは恐るべき破壊であると考えているか らでもある。  人々は、伝承文化や発達した工業文化の一部に対しても概ね同様の態度をとっている。例えば人々が、伝統工芸が消滅することに困惑するのは、その生産物を必要としている場合――おそ らく我々は必要とはしていないが――だけではなく、伝統工芸のもの想像力の全体像が消滅して しまうならば、それは深刻な破壊と思われるからでもある。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, 神聖さという思想,信山社(1998),pp.118-120,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)