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2022年1月13日木曜日

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

精神的・宗教的なもの

中絶のモラル性に関する意見の相違は深い。しかし、生命の神聖さについて我々は共通の理想を持っている。また、意見の相違は、精神的・宗教的なものであり、本人だけが決定できるものなのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)生命の神聖さ
 我々が共有しているもの 、すなわち、我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約は、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。

(b)中絶のモラル性に関する意見の相違
 中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはならないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。

(c)不一致点は精神的・宗教的なもの
 これらの不一致は基本的には精神 的・宗教的なもの(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存することに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 

「◇中絶議論の再構成――人々の不一致点の宗教性(精神性)の確認  我々はどこに立っているのだろうか? 私は、本書の議論を開始する際に、我々は深刻な中 絶論争に関する解釈――そして、その議論が何に関するものなのかということに関する我々の理 解――の再構成(redesign)をしなければならないと提言した。私は、ここでその再構成に関 する提言をしめくくることにする。私は、この新しい解釈は政治的モラルと憲法にとって重要 な意味を提供することになるであろうと述べた。私はこの再構成によって、我々は、アメリカ 合衆国憲法の役割についての法的論争に新しい光をあてて見ることができるようになり、更 に、アメリカと他の諸国のように自由が尊重されている国々の人々が、政治的論争において、 慎重ながらも、全ての立場の人々が尊厳をもって承認できる一つの共通の結論(a collective solution)を見い出す希望を抱くことができるようになるであろうと述べた。 私はこれらの厳粛な約束を、これに続く三つの章で果たすことを試みることになるが、ここで は最も重要な結論を予告しておこう。もちろん、私が述べたような新しい光を中絶論争にあて て見たからといって、中絶のモラル性に関する人々の意見の不一致を解消させることにはなら ないであろう。何故ならば我々の不一致は深いものであり、それは永遠に続くかもしれないか らである。しかしその新しい光の助けを借りて、我々が、これらの不一致は基本的には《精神 的・宗教的なもの》(spritual)であるということを確認するならば、それは我々が共存す ることに役立つであろう。何故ならば既に述べた通り、現実の社会は深い宗教的分裂を超えて 存在することが可能なものであるという考えに、我々はだんだん慣れてきているからである。 我々はより大きなもの――より大きな寛大さだけでなく、より一層積極的に我々の争いに解決を もたらしてくれる認識――を望むことができるかも知れないのである。我々が共有しているもの ――我々が生命の神聖さに対して払う共通の誓約――は、我々自身を数十年に亘った憎悪から救済 することのできる、我々を一つにするそれ自体かけがえのない理想なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第3章 神聖さとは何か, リベラル派の見解とその例外――「成熟した生命」の保護,信山社(1998),p.162,水谷英夫,小 島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)