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2019年4月24日水曜日

10.ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの道徳的強制力

【ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.4.1)追記。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    (i.1)快と苦が生み出す諸感情
     (i.1.1)自然な満足感、嫌悪感
     《観点》ある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.2)自己是認、自己非難
     《観点》自分のある行為が幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
     (i.1.3)好意と反感
     《観点》他者のある行為が、自分たちの幸福(快)、または不幸(苦)を生み出す傾向性があると、認識される。
    (i.2)民衆的強制力は、同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
     (i.2.1)行為者Aの行為a
     (i.2.2)行為者B:行為者Aの行為aに対する、好意と反感。
     (i.2.3)行為者Aは、行為者Bの好意に快を感じ、反感に苦痛を感じることができる度合いに応じて、行為者Bの幸福(快)を生み出し、不幸(苦)を減らす方向に促す。

   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。

 「道徳的観念を前提としている同胞による是認は道徳の基礎にはなりえないというヒューウェル博士の見解は、ベンサムにも功利性の原理にも当てはまらない。

ただし、こうした是認が前提にしている道徳的観念は功利性の観念や有害性の観念にほかならないということは的を射ているかもしれない。

人類は幸福あるいは不幸を生み出す行為の傾向性を認識する程度に応じて、前者を好み推奨したり後者を忌避し非難したりすると想定することは、仮説を過度に拡大解釈しているわけではない。

行為に向けられたこれらの自然な満足感と自然な不安感や嫌悪感が、どのようにして《道徳》感情と呼ばれているものに見られる特殊な性質を帯びるようになったのかは、倫理学の問題ではなく形而上学の問題であり、それにふさわしい場所で論じられるべき問題である。

ベンサムはこの問題には関心を持たなかった。彼はそれを他の思想家の手に委ねた。ベンサムにとっては、行為が人間の幸福に与える知覚可能な影響が、理由としても事実としても、ある行為を好んだり別の行為を嫌ったりする強い感情の十分な原因であるということで十分だった。

行為者の想像力や自己意識のなかでこれらの感情が共鳴反応することから、自己是認や自己非難のようなより複雑な感情が自然に生じてくる。

あるいは、争点となっている問題すべてを避けるために、そのような私たち自身への満足感と不満感が生じてくるとだけ述べておこう。それ以外のすべてのことが否定されるとしても、この点だけは認められるに違いない。

最大幸福が道徳の原理であってもそうでなくても、現に人々は自分自身の幸福を望んでおり、したがって自分たちの幸福を増進してくれる他者の行為を好み、自分たちの幸福を明らかに脅かすような行為を嫌悪する。ベンサムが置いたのはこのことだけである。

これが認められれば、次はベンサムの言う民衆的強制力と、それに対する行為者の精神の側での反応についてであり、これら二つの作用は、人類が啓発されている度合いに応じて、各人の行為を全体の幸福を増進するような方向に沿わせていく傾向にある。

ベンサムは、これ以外には真の道徳はないし、いわゆる道徳感情はその起源や構成要素がどのようなものであったとしても、このような方向のみに作用するように訓練されるべきだと考えていた。

よって、ヒューウェル博士はこの理論のなかに非論理的あるいは非整合的な箇所を見出そうとしたが、彼がこの理論を未だ理解していないことを明らかにしただけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ヒューウェルの道徳哲学』,集録本:『功利主義論集』,pp.215-217,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳的強制力,自己是認,自己非難,好意,反感)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会