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2019年4月16日火曜日

ゲーム理論は、制度の諸特性を教える。例として、(a)何らかの規律の役割,(b)全体的視点の役割,(c)より良い均衡の認知,(d)信頼の役割,(e)非協力のリスクの許容度,(f)相対的優位性の観点,(g)結果の平等性。(フランチェスコ・グァラ(1970-))

ゲーム理論と制度

【ゲーム理論は、制度の諸特性を教える。例として、(a)何らかの規律の役割,(b)全体的視点の役割,(c)より良い均衡の認知,(d)信頼の役割,(e)非協力のリスクの許容度,(f)相対的優位性の観点,(g)結果の平等性。(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(a)走行ゲーム
 (a.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (a.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っていない。従って、利害の対立はない。
 (a.3)どの解決方法を選んでも利益は等しい。。

    プレーヤー2
プ   左へ  右へ
レ  ┌───┬───┐
|左へ│1、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|右へ│0,0│1、1│
1  └───┴───┘

(b)両性の闘い
 (b.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (b.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っている。従って、利害の対立がある。
 (b.3)解決方法によって、どちらのプレーヤーの利益が大きいかが異なる。しかし、両者の合計の利益は同じであり、この点が強調されれば協力が促されるかもしれない。
    プレーヤー2
プ   バスケ オペラ
レバス┌───┬───┐
| ケ│2、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|オペ│0,0│1、2│
1 ラ└───┴───┘

(c)ハイ&ロウ
 (c.1)プレーヤーは協力すれば利益を得て、協力しなければ何も得ない。
 (c.2)プレーヤーは解決方法への選好を持っている。
 (c.3)いずれの解決方法によっても、両プレーヤーの利益は等しい。従って、利害の対立はない。
 (c.4)しかし、劣位の安定状態に閉じ込められてしまう場合がある。
  優位の均衡に遷移する条件は、
  (i)両プレーヤーが、より良い均衡があることを知っていること。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、相手も同じ行動を取るという信頼が存在すること。
    プレーヤー2
プ    H   L
レ  ┌───┬───┐
| H│2、2│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
| L│0,0│1、1│
1  └───┴───┘

(d)鹿狩り
 (d.1)各プレーヤーは次の状況におかれ、それぞれ異なる選好を持つ。
  (i)協力と非協力とは、利益の期待値は同じである。(期待値)
  (ii)協力は、相手に依存するリスクを負う必要がありハイリスク・ハイリターンである。(リスク)
  (iii)利益の期待値は、協力では相手に劣位、非協力では優位である。(期待値の相対的優位性)
  (iv)協力と非協力の戦略が混在すると、不平等が生じる。(平等性)
 (d.2)優位の均衡に遷移する条件
  (i)両プレーヤーが、より良い均衡があることを知っていること。
  (ii)両プレーヤーがお互いに、相手も同じ行動を取るという信頼が存在すること。
  (iii)その信頼の程度は、相手の非協力のリスクを負える程度であること。
  (iv)その信頼の程度は、期待値において相対的に劣位であることを許容できる程度であること。
  (v)その信頼の程度は、戦略の混在による不平等を、一時的にせよ許容できる程度であること。
    プレーヤー2
プ    鹿   兎
レ  ┌───┬───┐
| 鹿│2、2│0,1│
ヤ  ├───┼───┤
| 兎│1,0│1、1│
1  └───┴───┘

 「走行ゲーム:二人のドライバーが二車線の道路で互いに接近している。彼らにできることは、左に寄るか右に寄るかである。二人ともが同じ側を選択すれば、彼らはともに利益を得る。そうでないと、彼らは停車して大事な時間を浪費しなければならなかったり、衝突してしまったりするだろう。この行列を使って記述できるのは以下のような状況である。問題解決のためにプレーヤーたちが力を合わせなければならないが、問題解決の仕方が多数ある。さらに、どのような問題解決の仕方についても、プレーヤーたちはどちらの方がいいという選好を持っていない状況である。とりわけ注意するべきは、ここには利害対立がないことである。というのは、どちらの均衡が選択されても、両プレーヤーは等しく便益を享受することになるからである。」
    プレーヤー1
プ   左へ  右へ
レ  ┌───┬───┐
|左へ│1、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|右へ│0,0│1、1│
2  └───┴───┘

 「両性の闘い:この物語の登場人物は二人の婚約者だ。彼らは一緒に夜を過ごすことを選好する。しかし、可能な選択肢に関しては、彼らは異なる選好を持っている。プレーヤー1はバスケットボールの試合観戦を選好しているのに対して、プレーヤー2はオペラに行くことを選好している。これは交渉ゲームである。というのは、コーディネーションの便益の配分の仕方には違いがあり、ある配分はプレーヤーたちの一方にとってより好ましいものになっているからだ。両性の闘いは、コーディネーションの利益だけでなく、利害対立も存在する状況を表現するのに役立つ。軍事作戦の文脈で解釈すれば、私がリードしてあなたが従う、あるいは、あなたがリードして私が従うのが望ましいが、私たちが両方ともリードするとか従うとかしたら、惨憺たる結末を迎えるという状況である。」(中略)「私たちは、均衡に収束することが望ましいということについては合意しているものの、どちらの均衡が実現してほしいかについては無関心ではいられない。」
    プレーヤー1
プ   バスケ オペラ
レバス┌───┬───┐
| ケ│2、1│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
|オペ│0,0│1、2│
2 ラ└───┴───┘

 「ハイ&ロウ:二つの選択肢の一方がプレーヤー双方にとって明らかに良いことを除けば、戦略設定は同じである。ハイ&ロウは自明なゲームに見えるかもしれないが、実際には制度研究にとって極めて重要なものだ。制度は、コーディネーションが欠落した結果よりも良い結果へと収束することを促すものである。しかし、制度は時として、人々を劣位の安定的状態(LL)に閉じ込めてしまい、負の影響を持ちうる。読者は、(LL)が愚かな結果だということを、どうしてプレーヤーたちが理解できないのかを不思議に思われるかもしれない。ありうる回答の一つは単純なもので、彼らがより良い均衡があることを知っていないだけだというものである。他の場合では、プレーヤーたちは皆、より良い均衡の存在は知っているけれども、そこに収束していく際に、プレーヤーたちが他のプレーヤーたちがしかるべき自分の行為を選択しないだろうと信じないせいで、収束するのに失敗してしまう。こうしたことが起こるかもしれないのは、たとえば「鷹狩り」ゲーム(図2・2(d))のように、劣位の均衡戦略が安全で、かつ優位の戦略がリスクを伴うときである。」
    プレーヤー1
プ    H   L
レ  ┌───┬───┐
| H│2、2│0,0│
ヤ  ├───┼───┤
| L│0,0│1、1│
2  └───┴───┘

 「鹿狩り:『人間不平等起源論』(Rousseau 1755)でジャン=ジャック・ルソーは、森林でシカを待ち伏せする狩人の集団について語っている。狩りにはコーディネーション、規律、信頼が求められる。森のなかでは、プレーヤーたちはお互いの姿を確認できず、注意を逸らすものが沢山あるからだ。ルソーの見解は悲観的だ。「鹿を捕えようという場合、各人は確かにそのためには忠実にその持ち場を守らなければならないと感じた。しかし、もし一匹の兎が彼らのなかのだれかの手の届くところをたまたま通りすぎるようなことでもあれば、彼は必ずなんのためらいもなく、それを追いかけ、そしてその獲物を捕らえてしまうと、そのために自分の仲間が獲物を取り逃すことになろうとも、いささかも気にかけなかった」[邦訳89頁]。ウサギを追跡することは魅力的だ。他のプレーヤーが何をしようとも、そうすることが夕食を保証することになるからだ。もちろんシカを狩る方がより多くの食事にありつけるかもしれないが、それはより大きな危険を伴う。他の狩人がウサギを追いかけたら、シカを狙う狩人は飢えたままでいることになる。形式的には、鹿狩りゲームは、均衡外の利得がウサギを追跡する(H)プレーヤーにとってより大きいことを除けば、ハイ&ロウと同一である。他のプレーヤーが協働するときに限り、シカを追跡することが価値あるものとなる。
    プレーヤー1
プ    鹿   兎
レ  ┌───┬───┐
| 鹿│2、2│0,1│
ヤ  ├───┼───┤
| 兎│1,0│1、1│
2  └───┴───┘


(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第2章 ゲーム,pp.51-53,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:ゲーム理論,走行ゲーム,両性の闘い,ハイ&ロウ,鹿狩り)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
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