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2019年8月1日木曜日

一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則の特徴

【一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
 (1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
 (2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
  (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
  (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
   (a)重要性
   (b)意図的な変更を受けないこと
   (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   (d)道徳的圧力の形態
 (3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
 (4)法:実際に在る法

 「正義というのは、個人の行動にではなく、さまざまな《部類》の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。このことによって、正義は法や他の公的ないしは社会的制度を批判するさい、特別な重要性をもつのである。それは徳のうちでもっとも公的なそしてもっとも法的なものである。しかし正義の原則は道徳の観念をすべて含んではいない。だから、道徳的な基礎からなされる法についてのすべての批判が、正義の名においてなされるわけではない。ある法は道徳的には個人がしてはいけないとされる行動を求めているという単にそれだけの理由によって、あるいは、道徳的には義務的である行動を差し控えるよう求めているという理由で、そのような法は道徳的に悪であると非難されるかもしれない。
 それゆえ、道徳に属しそして行為を道徳的に義務づけるような、個人の行為に関する、これらの原則 principles、ルール、基準 standards を、一般的な用語で特徴づけることが必要である。ここで、われわれは二つの関連した困難に直面する。まず第一に、「道徳」という言葉、および「倫理」というようにそれと関連しあるいはほとんど同義の他のすべての用語は、それ自身かなりの曖昧な部分や「開かれた構造」をもつのである。ある人は道徳と分類するだろうが、他の人はそうしないような一定の形態の原則やルールがある。第二に、以上の点に関して合意が存在し、一定のルールや原則が疑いもなく道徳に属するものとして受けいれられているところにおいてさえ、それらの《地位》、つまりそれが人間の他の知識や経験に対してどのような関係にあるのかについて、大きな哲学的な不一致がまだ存在するかもしれない。それらは人間によってつくられたのではなく、人間の知性によって発見されるのを待っている宇宙の構造の一部を形成する不変の原則なのであろうか。それとも、それらは変化する人間の態度、選択、要求、感情の表現なのであろうか。これらは道徳哲学における二つの極端をぞんざいに方式化したものである。それら両極端の間に、多くの複雑で微妙な変形が存在するのであり、哲学者たちはそれらを道徳の性質を解明するため努力するなかで発展させたのである。
 これから後において、われわれはこれらの哲学的な困難さを取り除こうとするのである。われわれは、後に「重要性」、「意図的な変更を受けないこと」、「道徳的犯罪の自発的な性格」、「道徳的圧力の形態」という見出しの下で、4つの基本的な特徴を確認するのであるが、それらの特徴は、もっとも一般的に「道徳」とみなされている行動に関する原則、ルール、基準のなかに常に一緒に見い出されるのである。 これらの4つの特徴は、そのような基準が社会生活や個々人の生活において演じている特徴的で重要な機能のさまざまな側面を反映している。このことによってのみ、これら4つの特徴をもつものをすべて、別々の考慮のために、なかんずく法との対比および比較のために、区分することは正当化されるだろう。さらに道徳がこれらの4つの特徴をもつという主張は、その《地位》や「基本的」性格について対立する哲学理論にはかかわらないのである。たしかに、すべてとは言わないまでもほとんどの哲学者は、これら4つの特徴がすべての道徳的ルールや原則に必要であることに同意するであろう。もっともその場合、彼らは道徳がそれらの特徴をもつという事実については非常に異なった解釈や説明をするだろう。これらの特徴は、道徳と、もっと厳密なテストによれば道徳から除外されるような、行動に関する一定のルールや原則とを区別するのに必要であるだろうけれども、《ただ》必要であるだけであって、十分ではないとして反論されるかもしれない。われわれは、そのような反論が基礎としている事実には言及するだろうが、われわれは広い意味での「道徳」を支持する。そうするのが正しいと考えるのは、多くの慣用法と一致するからであり、またこの広い意味でのこの言葉があらわすものは社会生活および個人生活において重要で明白な機能を演じているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.183-184,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則の特徴,行動規則,正義の原則)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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