限られた理解力、限られた意志の強さ
【事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】(3.5)追記。
(3)人間に関する自然的事実
(3.1)人間の傷つきやすさ
人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
(b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
(3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間の諸能力の差異
人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
(b)人間の諸能力のおおよその平等性
それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
(c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
(d)相互の自制と妥協の体系
法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
(e)違反者の存在
そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
(f)国際法の特異な性質
強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
(3.3)限られた利他主義
人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間は、天使ではない。
人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与えるほどのものとなることもある。
(b)人間は、悪魔ではない。
人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだというのは、誤った見解である。
(c)相互自制の体系の必要性と可能性
以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示される。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。
(3.4)限られた資源
生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るために、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)限られた資源
人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならない。
(b)財産制度
以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特別な種類のルールが不可欠となる。
(c)分業の必要性
人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
(d)譲渡、交換、売買のルール
以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要となる。
(e)他人の行動の予測可能性の必要性
分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要がある。
(f)約束を守るというルール
以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫により、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束によって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。
(3.5)限られた理解力と意思の強さ
(3.5.1)事実とルールの明白性
以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
(a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
(b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
(c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
(d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性
(3.5.2)多数者による自発的な服従
大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲にすることもできる。
(3.5.3)ルールを守る諸動機
(a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
(b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す者。
(c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。
(3.5.4)限られた理解力と意思の強さ
しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
(a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
(b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。
(3.5.5)制裁の必要性
体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。なぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。
「(v)かぎられた理解力と意思の強さ 社会生活上、人、所有、約束に関するルールを必要としている事実は単純であり、それら相互の利益は明白である。たいていの人は、それらの事実を理解することができるのであり、またそのようなルールに従うため、目前の直接の利益を犠牲にすることもできるのである。まったく彼らはさまざまな動機から従うのである。犠牲から得るところが大きいという慎重な計算から従う者もいれば、他人の幸福を私心なく考慮して従う者もいる。またある者は、ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す。他方、服従に対するこれらのあい異なる動機が実際的な効果をもつかどうかは、長期的な利益の理解あるいは意思の強さないしは善良さによるのであるが、それらがすべての人に同様に分けもたれているわけではない。誰だって、ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろうし、彼らを調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者はその気持ちに負けてしまうだろう。疑いもなく相互自制の利益はたいへん容易に確認できるので、強制的な体系のなかで自発的に協力しようとする人々の数および強さは、悪事で結束しようとする人達よりも、普通は大きいであろう。しかし、もし体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者を強制するための組織がないとすれば、自制の体系に従うことは、ずいぶん小さな緊密な社会を除いて、馬鹿げているであろう。したがって「制裁」は、服従の通常の動機として必要とされるのではなく、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない《保障》として必要とされるのである。これがないと、服従することは不利になる危険をおかすことになろう。このような恒常的な危険があるのを考えれば、《強制的》な体系における《自発的》な協力こそが理性の要求であることがわかるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.215-216,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:限られた理解力,限られた意思の強さ,制裁の制度)
(出典:wikipedia)
「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)
ハーバート・ハート(1907-1992)
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