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2019年11月23日土曜日

宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

宗教の自由

【宗教の不寛容性が招いた宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが、良心の自由、宗教の自由、社会に対する個人の権利、少数派を抑圧することの反対論へと導いてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

  (2.1.1)追加。

(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
  (2.1.1)良心の自由、宗教の自由への道のり
   (a)宗教の不寛容性が招いた数々の過ち
    (i)人間は、ほんとうに重要だと思う点については、寛容になれないのが自然なのである。
    (ii)誠実だが頑迷な宗教家は、他の宗教に対して憎悪を抱くことがある。
    (iii)宗教対立や異端迫害など数々の悲惨な過ちが繰り返されてきた。
   (b)良心の自由、宗教の自由
    (i)良心の自由は、不可侵の権利である。
    (ii)人が自分の信仰について、他人に説明し許可を得る責任は、決してない。
    (iii)宗教においては、社会に対する個人の権利が主張された。
    (iv)社会が少数派に力を行使することへの反対論が、公然と主張されてきた。

 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によってコントロールされる必要がある。
 「このように、社会全体、あるいは社会のうちとくに強力な部分の好悪の感情こそが実際上、主要な要因になって、人びとが遵守すべき規則が決められ、遵守しない場合には法律や世論によって制裁がくわえられるようになっているのである。そして、社会のなかでとくに進んだ思想と感情をもつ人も通常、この状況を根本から批判することはなく、細部のいくつかの点で異議を唱えるだけである。こうした人は、社会が好むべきもの、嫌うべきものは何かを探究することに懸命になっており、社会が好む点、嫌う点を法律や慣習として個人に守らせるのが適切かどうかは問題にしてこなかった。自分が少数派になっている個々の点について、人類の感情を変えるために努力することを好み、さまざまな少数派と協力して自由の擁護という共通の目標を掲げようとはしてこなかった。そのなかで唯一、もっと高い立場から自由の原則が一貫して主張され、しかも何人かの孤立した個人によってではなく、幅広い層によって主張されてきたのは、宗教の自由だけである。宗教の事例をみていくとさまざまな点で教訓が得られるが、なかでも重要な点として、いわゆる道徳感情が誤りに陥りやすいことを見事に示す実例がここにある。誠実だが頑迷な宗教家が他の宗教に対して抱く憎悪は、道徳感情のなかでもとくに曖昧なところがないものだからである。カトリック教会は普遍教会を自称し、その束縛を打ち破った宗教改革家も当初、宗教的な意見の違いを許そうとしない点では一般に、カトリック教会とほとんど変わらないほどであった。だが、どの宗派も完全な勝利を収めないまま宗教対立の熱が冷め、どの教会、どの宗派もそれまでに確保した地盤を維持することしか望めない状況になると、少数派は多数派になるとは期待できない現実を認識し、改宗させることができなかった多数派に対して、宗教上の違いを許容するよう求める必要に迫られた。このため、ほぼ唯一、宗教という戦場では、社会に対する個人の権利が原理原則という一般的な根拠に基づいて主張され、社会が少数派に力を行使することへの反対論が公然と主張されてきた。宗教の自由の確立に貢献してきた偉大な思想家のほとんどは、良心の自由を不可侵の権利として主張し、人が自分の信仰について他人に説明し許可を得る責任があるという考えを強く否定している。しかし、人間はほんとうに重要だと思う点については寛容になれないのが自然なので、宗教の自由が実際に確立している国はほとんどない。例外は、宗教に無関心な勢力が宗教対立によって平和が乱されるのを嫌い、宗教の自由を支持する側にまわって力関係が変わった場合だけである。とくに寛容な国ですら、宗教家のほとんどは、宗教に関する寛容の義務を認める際に、内心では留保をつけている。たとえば、教会の政治形態に関しては反対意見に寛容でも、教義に関しては寛容になれない人がいる。教義の違いにも寛容だが、ローマ法王の権威を認めるカトリック教徒に対して、そして三位一体を否定するユニテリアンに対しては寛容になれないという人もいる。啓示宗教であれば寛容になれる人もいる。もう少し範囲を広げている人もいるが、それでも神と来世を信じていない人にはまったく寛容になれない。多数派は、純粋で強い信仰心を維持している地域では、少数派に服従を求める主張をほとんど弱めていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.21-23,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:良心の自由,宗教の自由,宗教の不寛容性,個人の権利,少数派の保護)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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