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2020年5月28日木曜日

言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

現実的な現象としての全体的言語行為

【言語の唯一現実的な現象は,全体的言語行為である. この視点は以下の正しい理解へと導く. (a)陳述とそれ以外の行為遂行的発言とは何か,(b)真偽値とは何か,(c)事実的な言明と規範的な言明とは何か,(d)言語の意味とは何か.(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(a)現実的な現象としての全体的言語行為
 全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき唯一の現実的な現象である。
(b)陳述、記述は特別な言語現象ではない
 陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の単なる二つのものであるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(c)真偽値も全体的言語現象として理解される(ただし人工的な言語で定義された場合を除く)
 ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(d)事実的なものと規範的、評価的なものの正しい理解
 まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的ないし評価的なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(e)言語の「意味」についての正しい理解
 「意味と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、これらの概念が健全なものであればである。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)
 「私はそのなかでとくに以下の教訓を指摘、提示したいと思う。
(A)全体的な言語的な状況における全体的言語行為というものが、究極的にわれわれがその解明に専念すべき《唯一の現実的な》(the only actual)現象である。
(B)陳述、記述などというものは、数多くの他の発語内行為に対して与えられた名称の中の《単なる二つのもの》であるにすぎない。これらは、唯一独特な位置を持つものではまったくない。
(C)ことに、これらは、真であるとか偽であるとか呼ばれる唯一独特な仕方で事実と関係しているという種類の事柄に関しても、なんら唯一独特な位置をもつものではない。なぜならば、真とか偽とかいうことは(一定の目的に限定すれば常に可能でしかも合法的なある種の人工的な抽象化による以外は)関係や性質等の名称ではなく、むしろ、言葉がそれの言及している事実、事件、状況等に関していかに満足すべきものであるかということに対する評価の一つの観点の名称だからである。
(D)まったく同じ理由によって、事実的なものに対立するものとして「規範的(normative)ないし評価的(evaluative)なるもの」を対照させるというよく見られる方法は、他の多くの二分法と同様に、消去する必要がある。
(E)「意味(sense)と言及対象」に等しいものと考えられる「意味」(meaning)の理論は、発語行為と発語内行為との区別という手段によるある種の淘汰と再構成とを確実に必要としているのではないかと考えられる。(もちろん、《これらの概念が健全なものであれば》である。もっとも、この点に関しては、単に予告がなされたに過ぎない。)」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第12講 言語行為の一般理論Ⅵ,pp.248-250,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:全体的言語行為,陳述,記述,真偽値,行為遂行的発言,事実と規範,事実と評価,言語の意味)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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