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2020年6月6日土曜日

「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

権利を調停する制限原理

【「xが必要である」という言明が,xに対する要求権や権原を生み出す社会道徳が存在する. ゆえに,多数者の欲求や「ニーズ」のために,少数者の厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは不正義とされ,制限される.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)「xが必要である」という言明
  「xが必要である」という言明は,もしxが奪われれば,互恵性や協調を支える規範遵守の再検討が公言可能で,しかも道徳的なことであると感受されるような社会道徳の存在を前提に,xに対する要求権や権原を生み出す。(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))
 (1.1)要求権、権原
  xに対する抽象的な要求権や権原を生み出す。
 (1.2)社会道徳Sの存在
  (1.1.1)社会道徳Sの目的
   (a)人々は、自ら身を立てることができる。
  (1.1.2)社会道徳S
   (a)Sによって維持されている互恵性や協調という規範が存在する。
   (b)Sが社会道徳であるとは、コンセンサスの取り消しが、Sの内部ですら理解可能で自然なことであるということが判明するような、何らかの条件が確かに存在するということである。
   (c)規範遵守の再検討を公言可能にする理由
    (i)規範に対するその当該人物の遵守を再検討するために、Sの内部で公言可能かつ公的に持続可能であるような理由が存在する。
    (ii)規範遵守の再検討の公言は、協調への期待に依拠する共有された感受性の内側で、道徳的に理解され得るものとみなされる。

(2)権利を調停する制限原理
 権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下の通りである。
 (2.1)多数者の欲求と少数者の死活的ニーズ
  いかに多数の者の利益のためであろうとも、多数者の単なる「欲求」のために、誰かの厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にすることは、不正義である。
 (2.2)多数者の「ニーズ」と少数者の厳密な意味での死活的ニーズ
  いかに多数の者の「ニーズ」の名においても、より大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、不正義である。
 (2.3)最も幸薄い状態であり続けている人々の存在
  苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体はない。

「おそらく、権利/対抗権利の調停を統制し、かつ、公共財の追求のために実施される総計的推論を統制すべき制限原理は、以下のようなものである。(物品面であろうが金銭面であろうが)ある者を現状より貧しくさせないようにしようとして他の者をより貧しくさせるような国やその機関の活動に何ら不正義がないとしても――また、それによって苦しんでいる人々のなかに、関係するすべての集団において前々から最も幸薄い状態であり続けている者たちがいてもなお、不正義それ自体は(それによって思考にもたらされるいかなる中断も)まったく存在する必要がないのだとしても――、国や国の機関が、いかに多数であろうとも、多数の者の単なる欲求のために誰かの厳密な意味での死活的利益を犠牲にして、偶然性に介入し、その政策を変更し、市民の思慮ある期待を裏切るならば、《それは、その程度には不正義(pro tanto unjust)である》。また、(より思弁的にはなるが)そうした介入の影響を実際に受ける死活的利益のなかで、いかに多数であろうとも、多数の者のより小さなニーズの名の下に誰かのより大きな厳密な意味での死活的ニーズを犠牲にするならば、《それは、その程度には不正義である》。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第1章 ニーズの要求、18、p.55、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(訳))
(索引:権利を調停する制限原理,ニーズ)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

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