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2020年4月21日火曜日

9.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。

みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。

わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。

わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。

自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。

他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。

自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。

わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。

いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。

ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールとしての国際法

【国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「国内法と国際法の間には、ここでいくらか吟味する価値のある形態上の類似がある。ケルゼンおよび多くの現代の理論家達は、国内法と同様に国際法も「根本規範」ないしはわれわれが承認のルールと呼ぶものをもつし、また実際もたなければならないと主張した。それを参照することによって体系の他のルールの妥当性が評価されるのであり、それによってルールは一つの体系を形成するというものである。これに反対する見解によれば、この構造の類似は偽りであり、国際法はこのような方法では結合されていない責務に関する別々な第1次的ルールの単なるセットである。国際法学者の通常の用語法においては、国際法は慣習のルールのセットであり、そのなかの一つに条約に拘束力を与えるルールがある。この仕事に関係する人々にとって、国際法の「根本規範」を公式化することはたいへん困難であったことはよく知られている。この位置を占めるもののなかには、《合意は拘束する》pacta sunt servandaという原則も含まれる。しかしながらいかに広くその言葉を解釈したとしても、この原則は、国際法の下におけるすべての責務が「合意」から生じるわけではないという事実と矛盾するように思えるので、ほとんどの理論家はこの原則を捨てさった。そこでこの原則は、「諸国家はそれらが慣習的に行動しているように行動すべきである」というあまり知られていない、いわゆるルールにとって代わられた。
 われわれは、国際法の根本規範についての上の公式化やその他の公式化の長所を議論するのではなくて、国際法はそのような要素をもたなければならないという前提を問題としてみよう。ここにおいて最初の、そしてたぶん最後の疑問は、なぜわれわれはこれを《先験的な》前提とし(なぜならそうされているのが実情だから)、国際法のルールの実際の性質に予断を下すべきであるかということである。なぜなら社会は、その構成員に対し「拘束力をもつ」ものとして責務を課すルールがあれば、たとえそのルールが単に別々なルールのセットとみなされ、何らかのもっと根本的なルールによって統一されず、あるいは根本的ルールからその効力を引き出さないとしても、存在しうるだろうということはたしかに考えうる(そしてしばしばそういう場合があったであろう)からである。ルールの単なる存在は、そのような根本的なルールの存在を含まないことは明らかである。ほとんどの現代社会にはエチケットのルールがあり、われわれはそれが責務を課すとは考えないけれども、それらのルールが存在しているとたしかに言えるだろう。しかしわれわれは個々のルールの効力がそこから引き出されるエチケットの根本的なルールを探そうとはしないし、見い出すこともできないだろう。そのようなルールは体系をなしているのではなく、単なるセットであり、もちろん問題がエチケットよりももっと重要であるところでは、この形態の社会統制の不便さは無視できない。それらについてはすでに第5章でのべた。しかしもしルールが実際に行為の基準として受けいれられ、義務的ルールに特有なしかるべき形態の社会的圧力により支えられているならば、それらが拘束力をもつルールであるということは、たとえこの単純な社会構造の形態においては、国内法におけるように個々のルールの効力を体系のある究極のルールに照らして証明するものを欠いているとしても、そのことで十分なのである。
 体系となっているのではなく単なるセットであるルールについてもちろん多くの質問をすることができる。たとえばそれらの歴史的起源について質問し、あるいはそのルールの成長を助けた原因に関して質問することができる。またそのルールによって生活している人々に対するその価値について質問することができるし、彼ら自身それに従うよう道徳的に拘束されていると考えているのか、あるいは何か別の動機から従うのかをたずねることができる。しかし、国内法のように根本的規範ないし承認の第2次的ルールで強化された体系のルールに関してはたずねることはできるが、より単純な場合にはたずねることのできない一種の質問がある。すなわち、より単純な場合にわれわれは「体系のどの究極的な規定から、別々のルールはその効力もしくは『拘束力』を引き出すのであろうか」とたずねることはできない。なぜならそのような規定はないし、また何も必要としないからである。だから根本的なルールないし承認のルールが、責務のルールないし「拘束力をもつ」ルールの存在のための一般に必要な条件であると仮定することはまちがいである。これは必要物ではなくぜいたく品 a luxuryであり、構成員が別々のルールを一つずつ受けいれるようになるばかりでなく、妥当性の一般的基準により画された一般的クラスのルールをも前もって受けいれることに関与するような進歩した社会体系に見い出されるものである。より単純な形態の社会においては、ルールがルールとして受けいれられたかどうかを知るには待たなければならない。承認の根本的なルールをもつ体系においては、ルールが実際につくられる以前に、《もし》それが承認のルールの要件に適合しているならそれは効力をもつ《だろう》と言うことができる。
 同様の問題点は別の形でも示されるだろう。そのような承認のルールが別々のルールの単純なセットに付け加えられたとき、それは体系の利益および確認の容易さをもたらすばかりでなく、それは新しい形態の陳述をはじめて可能にする。これはルールの効力についての内的陳述である。なぜなら今われわれは、新たに、「体系のどの規定によりこのルールは拘束力をもつものとされるのか」、あるいはケルゼンの言い方で「体系の内部で何がその妥当性の理由なのか」をたずねることができるからである。これらの新しい質問の答は、根本的な承認のルールにより与えられる。しかしより単純な構造においては、ルールの効力は何らかのもっと根本的なルールを参照することによっては示されえないけれども、このことは、ルールやその拘束力あるいは効力について何らかの疑問が説明されないまま残されているということを意味するものではない。そのような単純な社会構造におけるルールが、なぜ拘束力をもつのかは不思議なことであるとし、それはわれわれが根本的なルールを見い出した場合にのみ解決されるものであると言うことは当たらない。単純な構造のルールは、より進歩した体系の根本的なルールと同様に、もしそれらが拘束力をもつものとして受けいれられ機能しているなら、拘束力をもつのである。しかしながらさまざまな形態の社会構造についてのこれらの純然たる真実は、統一性および体系という望ましい諸要素が実際には見られないところで、それらを執拗に探究することにより、曖昧にされやすい。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.251-253,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:第1次的ルール,国際法,根本規範)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.3)追加。


(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 (2.3)国際法の事実にあっていない。
  (a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得る。
  (b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりする。
  (c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域において、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するというのは、事実に反することが分かる。

 「第三に事実の問題がある。われわれは、国家は自己に課した責務にのみ拘束さ《れう》るという今批判した《先験的な》主張と、国家は異なった体系の下では他の方法で拘束されうるのだけれども、実際に今日の国際法のルールの下では国家にとって他の形態の責務は存在しないという主張とを区別しなければならない。もちろんその体系はすべて合意から成りたつ形態であるということも可能である。合意により成りたつという見解に対する賛成と反対は、法学者の論文、裁判官の意見、さらに国際裁判所の裁判官の意見、および国家の宣言のなかに見い出される。諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが、上の見解が正しいかどうかを示しうる。現代国際法は、たしかに大部分は条約法であり、したがって前もっての合意なしに国家に対し拘束力をもつと思われるルールが、実際は合意にもとづいていることを示すため念入りな試みがなされた。もっともその合意は「黙示的に」のみ与えられ、あるいは「推定」されなくてはならないのだけれども。国際的責務の諸形態を一つのものに還元しようとする試みは、すべてが虚構であるわけではないが、少なくともそのいくらかは、「黙示の命令」tacit command の観念と同じ疑惑を呼び起こす。それは、すでに見たように、はるかにもっともらしいものであるが、同様に国内法の単純化を形成するためにもくろまれたものである。
 すべての国際的責務は拘束される当事者の合意から生じるという主張の詳細な検討はここではできないが、この理論に対する二つの明白で重要な例外に注意しなければならない。第一は新国家の場合である。1932年にイラクが、1948年にイスラエルがしたように、新しい独立国家が成立したとき、それがなかんずく条約に拘束力を与えるルールを含んだ国際法の一般的責務に拘束されることは決して疑われたことはない。ここにおいて新国家の国際的な責務を「黙示の」あるいは「推定された」合意におく試みは、まったく古くさいように思える。第二の場合は、領土を得たり他の何らかの変化をなした国が、以前にはそれを順守したり、違反したりする何らの機会をもたず、またそれに対して合意を与えたり指し控えたりする何らの機会をもたなかったルールのもとにおける責務の影響を、そのことによってはじめて受ける場合である。もし以前には海に接していなかった国家が海岸の領土を得たとしたら、そのことによってその国家は、領海および公海に関するすべての国際法のルールに従わなければならないことは明らかである。その他に、主として一般条約あるいは多辺的条約の非当事者に対する効果に関して、もっと議論の余地のある場合がある。しかしすべての国際的責務はみずから課したものであるという一般理論は、あまりにも多くの抽象的な独断と、あまりにも事実をかえりみないことによって想定されたという疑念を、これら二つの重要な例外は、正当化するのに十分である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.243-245,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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9.災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

まだ間に合う

【災厄が迫っている時に、もう手遅れだと考えて、救済策を施すのを躊躇ってはならない。後になって振り返ると、あの時、怠ったばかりに重大な結果を招いたのだということが明確になる事例が多い。まだ間に合う。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】

『戦争においても、多くのほかの重要なことがらにおいても、もう手遅れだというので準備が投げやりにされているという事態を、これまでたびたび目にしてきた。

 ところが後になって、あのとき準備をしていたならまだ間にあったはずだったことがわかってきて、それを怠ったばかりに重大な損害をこうむることがはっきりしてくるものである。

 このようなことになるのも、一般にものごとの進歩や速度は予想されるよりもはるかにのろいからである。したがって、君が一ヶ月でやりおおせると判断していたことを三ヶ月も四ヶ月もたって完成できないでいるということが、しばしばおこるものである。この断章は重要である。君の心すべきことだ。』(C162)

『戦争のばあいにはなおさらのことだが、災厄が迫っているときに、もう手遅れだと考えて、救済策をほどこすのをはねつけたり、おろそかにすることがあってはならない。

 というのは、災厄の進行速度は、われわれが考えているよりはるかにのろいことが多いからだ。それは災厄そのものの本来の性格であるのと、さまざまな障害物につきあたるからである。

 したがって、もうおそすぎると判断したために君がとりあげなかった救済策も、間に合うことがよくあるものである。私は、たびたびこのことを経験したのである。』(B173)
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540),『リコルディ』,日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』,C162,B172,講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



(出典:wikipedia
フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Propositions of great philosophers)  「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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