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2020年4月24日金曜日

陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言としての陳述

【陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

参考: 真偽値を持つ陳述と、行為遂行的発言が全く異なる現象と考えるのは、誤りである。陳述は、行為遂行的発言の構造から特徴づけできる。また、行為遂行的発言の適切性の諸条件は、真偽値を持つ陳述で記述される。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(3.1)追記。

(3)陳述(事実確認的発言)「猫がマットの上にいる」
 (A・1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在
  (i)「猫」「マット」「上にいる」の意味、ある発言が「真か偽かを判断する」方法についての、慣習が社会に存在する。
  (ii)慣習が存在しない場合、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
 (A・2)発言者、状況の手続的適合性
   真偽値を持つ陳述も、行為遂行的発言と同じように、有効に発動するための諸条件がある。例として、言及対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく「不適切」である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
  (i)陳述は、言及対象の存在を前提にしている。対象が存在しない場合、その陳述は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。例として、「現在のフランス国王は禿である」。
 (B・1)手続きの適正な実行
 (B・2)完全な実行
 (Γ・1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性
  (i)私は、その猫がマットの上にいることを信じている。
  (ii)私が、それを信じていないときは、発言は真でも偽でもなく、「不適切な」ものとなる。
  (iii)私は、この発言によって、主張し、伝達し、表現することもできる。
 (Γ・2)参与者の行為の適合性

 (3.1)発語内行為の3つの効果
  陳述(事実確認的発言)することは、特定の状況において一つの行為を遂行することである。それが適切なとき効力を生じる。了解の獲得。後続の陳述への制限。相手の陳述を反論、反駁等に変ずる効力など。
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (3.2)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.3)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
  (a)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
  (b)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
  (c)発語媒介行為の2つの効果
   (i)目的を達成すること
   (ii)後続事件を惹き起こすこと
  (d)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
 (3.4)発語内行為とは関係のない発語媒介行為


 「われわれの研究すべきものが文では《なく》、むしろ一つの発言状況において一つの発言を行うことであるということをいったん悟るならば、陳述することは一つの行為を遂行することであるということが理解されないということはもはやほとんどあり得ないことであろう。さらに、陳述するということを、すでに発語内行為についてわれわれが述べたことと比較するならば、陳述するということは他の発語内行為の場合とまったく同程度に「了解の確保」ということを不可欠とするような種類の遂行であるということが理解されるだろう。すなわち、もし私が述べたことが了解されなかったり、聞こえなかったりするとき、はたして私は陳述したことになるのか否かという疑問は、私が述べたことを抗議として受け取らない人がいたとするならば、私はそっと(sotto voce)警告したことになるのかそれとも依然として抗議したことになっているのかという疑問とまったく同じものである。さらに、陳述は「命名」とまったく同程度に「効力を生じさせる」のである。たとえば、私が何かを陳述したとき、そのことによって私は別の陳述を行わなければならなくなるというようなことが起こる。しかも、私が行うその別の陳述は先に行なった陳述によって適当なものとなったり不適当なものとなったりすることになる。また、相手の行なう陳述や評言も以降は、私に対する反論となるかならないかのいずれかとなり、あるいはまた私に対する反駁となるか否かのいずれかとなる。また、かりに陳述が反応を惹き起こさないことがあるとしても、そのことはいずれにせよ発語内行為のすべてにとって本質的なことではない。しかも、陳述を行う際に、われわれは実際あらゆる種類の発語媒介行為を遂行しており、またそのことは許されているのである。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第11講 言語行為の一般理論Ⅴ,pp.232-233,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的発言,陳述,事実確認的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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12.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却への罠

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、外部の世界が特に圧制的、残虐かつ不正なとき、誘惑が強くなり、行為の結果は度外視される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考:欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「自分がある「低劣」な衝動にかられ、自分の好まぬ動因に動かされて行為をするのを見、またまさにそれをする瞬間には嫌悪を感じるかもしれないようなことをするのを見、あとになってあのとき自分は「自分でなかった」のだとか、「自分をしっかり統御していなかった」のだとか反省する心理的経験は、こうした考え方・言い方に属しているものである。

自分というものを自分のなかの批判的・理性的な要素と同一視するのである。

自分の行為の生みだすさまざまな結果は問題とはなりえない。なぜなら、それは自分の統制下にはないものだから。ただ自分の動機だけが統御できるものなのだ。これは世間を無視し、人間や事物をつなぐ鎖から離脱した孤立的な思想家の信条である。

このような形態においては、この学説はまず第一義的に倫理的信条であって、政治的信条ではぜんぜんないと見られるかもしれない。

ところが、それの政治との関連は明々白々なのであって、自由主義的個人主義の伝統のなかには、少なくとも自由の「消極的」概念と同じくらいに、深く浸透しているのである。


 真の自我と
いう内なる砦に逃げ込んだ理性的賢者の概念がその個人主義的形態において現れてくるのは、ただ外部の世界がとくに圧制的で残虐かつ不正であることが明らかになったときのみであるかにみえるということは、おそらく一言ふれておくだけの価値はあるであろう。 

「自分のなしうることを欲し、自分の欲することを行うひとは、真に自由である」と、ルソーは言った。

幸福なり正義なり自由(いかなる意味のものであれ)なりを求めているひとが、やりたいことをする道があまりに塞がれてしまっているために、ほとんどなにひとつできないという世界にあっては、自分自身へと引き籠ってしまう誘惑は抗しがたいものとなってくるであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.38-39,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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11.欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

催眠術、洗脳、識閾下の暗示

【欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする内なる砦への退却は、催眠術、洗脳、識閾下の暗示等の事実によって、信憑性の乏しい仮説となった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】
参考:自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 「カントの心理学、さらにストア派やキリスト教徒の心理学も、人間におけるある要素――「心のうちなる要塞」――は〔いかなる外的〕規制・調整からも守られうるものだ、と想定していた。

催眠術、「洗脳」、識閾下の暗示、等々の技術の発展によって、このア・プリオリな想定は、少なくとも経験的仮説としては、信憑性に乏しいものとなってしまった。」


(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,p.37,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:催眠術,洗脳,識閾下の暗示,内なる砦への退却)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法と仮説-演繹法推理

【正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(再掲)

(1)先例からルールを発見する帰納的方法
  先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルールの選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
 (b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。
(2)一般的ルールは、一意には決まらない
 (a)しかし一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在するはずである。
 (b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
  (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、そのような諸基準だと考える。
  (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなかから通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。
(3)別の理論は、一般的ルールを経由せずに、先例を利用する。
 (2.1)今回の事例と重要な点で十分に類似している先例を推論する。
 (2.2)その先例を典型例として、今回の事例も同じように決定する。

《説明図》
(1)
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール
 │┌──────┘
 ↓↓
先例の決定a

(2)
どの事実が 通常の道徳的、社会的
重要か   諸要因を比較考量
 ↓       ↓
先例が関わる  ある一般的
ある事実の言明 ルール1
 │┌──────┘
 ││
 ↓↓
先例の決定a

 「過去の判例を一般的ルールの適用例であると考えるとしても、そこに含まれている演繹法の適用の反対を指示するために「帰納法」という言葉を用いることは、誤解を招く恐れがあるだろう。というのは、その言葉は、諸科学において、すでに観察された個々の事実から一般的な事実命題とか観察されていない個々の事実についての言明が推理されたり、確証されたりする時に用いられている蓋然的推理の様式との実際以上の類似性を示唆しているからである。「帰納法」という言葉はまた、完全な帰納法として知られている演繹的推理の形式あるいは直感的帰納法として言及されることのある一般命題発見の方法――本当の、あるいはそのようにいわれている方法――との混同を招くことにもなるであろう。
 けれども、先例の使用に含まれている演繹法の適用の反対もまた科学的手続の重要な一部であることは事実であり、それは仮説的推理ないし仮説――演繹法推理として知られている。したがって、反対事例による反証を回避するために行なわれる科学的仮説の漸進的精密化の作業のなかに見られる観察と理論の相互作用と、裁判所が、一般的ルールを、それが広範囲のさまざまな判例と矛盾しないようにするために、また正義に反した、あるいは望ましくない結果を生むその定式化を避けるために精密化していく仕方との間には、一定の興味深い類似性がある。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.118,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説-演繹法推理,法,仮説的推理,判例,一般的ルール)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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