ホメオスタシスの代理
芸術、哲学、宗教的信念、司法制度、政治的ガバナンスと経済制度、テクノロジー、科学は、情動の誘発に大きな影響を与える。逆に情動はホメオスタシスの代理であり、これら文化的構築物の新たな生成、発展、改善において重要な役割を演じている。(アントニオ・ダマシオ(1944-))
「以上の議論を踏まえると、感情と文化の関係に関して、「感情は、ホメオスタシスの代理と して、人類の文化を始動した反応の媒介者の役割を努めてきた」という仮説を提起することが できる。この仮説は妥当であろうか? 感情が動機となって、(1)芸術、(2)哲学的探究、(3) 宗教的信念、(4)司法制度、(5)政治的ガバナンスと経済制度、(7)テクノロジー、(8)科学な どの知的発明がもたらされたのか? 私なら、この問いに心から「イエス」と答えるだろう。 これら8つのいずれの面でも、文化的な実践や道具は、ホメオスタシスの低下(痛み、苦し み、窮乏、脅威、喪失など)や潜在的な恩恵(報酬をともなう結果など)を実際に感じる、も しくは予期することを人々に求めた。また、恩恵として示される豊かさを利用しつつ必要性を 満たしていくための方法を、知識と理性という道具を用いながら探究する動機づけとして、感 情が機能した。私はこれらについて、実例をあげて説明することができる。
しかも、これは序の口にすぎない。文化的な反応が成功すると、感情による動機づけは低下 するか解消する。このプロセスは、ホメオスタシスの変化の《監視》を必要とする。そのよう な単純な反応に代わって、さまざまな社会集団の長期にわたる相互作用に基づく複雑な過程を 経て、知性による反応が採用され、それが文化体系へと取り込まれたり棄却されたりするよう になった。そして、それは規模や歴史から地理的な位置や内的、外的な権力関係に至るまで、 集団の持つ数々の特質に依存し、知性や感情が関与する段階を含む。たとえば文化的な闘争が 起こると、ネガティブな感情やポジティブな感情が動員され、それによって闘争が解決した り、悪化したりする。かくして文化的選択が適用されるのだ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-),『進化の意外な順序』,第1部 生命活動とその調節(ホメ オスタシス),第1章 人間の本性,pp.39-40,白揚社(2019),高橋洋(訳))
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「もし情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織と いった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたか のいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物 を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現 を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な 自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自 己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二 に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもて ない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しか し、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学な どからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必 要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分 野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新し い種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感 情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社 (2005)、田中三彦(訳))