ページ

2021年11月20日土曜日

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

自由意志

もし、意識を伴う拒否が、先行する無意識な過程の結果であるなら、拒否は意識的な選択とは言えない。それは、先行する無意識プロセスを必要とせず、起動されつつある行為の単なる意識化とは異なる制御機能であり、能動的な意志の発動なのではないか。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))


「意識ある拒否には、先行する無意識の発生源があるのだろうか? ここで私たちは、意識を伴った意志の発達と出現の場合と同様、意識的な拒否そのものにつ いても先行する無意識プロセスに発生源があるかという可能性について考えなければならない でしょう。もし拒否そのものが無意識に起動し、発展するものであるのならば、拒否という選 択は、意識的な原因事象というよりも、《やがて自覚化される》無意識の選択ということにな ります。適切なニューロンの活性化のわずか約0.5秒後に、脳はある対象へのアウェアネスを 「生み出す」ことを、私たちのこれまでの証拠は示しています(第2章、およびリベット (1993年、1996年)参照)。 拒否を選択した無意識の起動でさえも、無意識とはいえ本人による正真正銘の選択であり、 依然として自由意志のプロセスであるとみなすことができる、と提案した人もいます(たとえ ばベルマンス(1991年))。自由意志についてのこのような意見が容認できるものでないこと に私は気づきました。このような意見によれば、人は意識的に自分の行為をコントロールする ことができないことになります。この場合、人は無意識に始動した選択にのみ、気づくことに なります。先行するどのような無意識プロセスの本質に対しても、直接的な意識を伴ったコン トロールをすることがまったくできないということになります。しかし、自由意志プロセスと いうときには、行動すべきか否かの選択について、人は意識的に責任を負うことができるとい うことが含意されています。私たちは、意識的なコントロールの可能性がなければ、無意識に実行する行為についてその人への責任を問いません。 たとえば、精神運動性のてんかんの発作やトゥレット症候群(社会的に眉をひそめられるよ うな言葉での罵り叫ぶ)の患者の行為は、自由意志に基づくものとはみなされません。それな らばなぜ、健常な人物に無意識にある事象が発生し、それがその人自身の意識的なコントロー ルも及ばないプロセスである場合にも、それはその人自身が責任を負わなければならない自由 意志に基づく行為だとみなされなくてはならないのでしょうか? このような考えに代わって、意識を伴う拒否は、先行する無意識プロセスを必要としなけれ ば、その直接的な結果でもないという考えを私は提案します。意識を伴う拒否は制御機能であ り、行為への願望に単に《気づく》こととは異なります。どのような心脳理論においても、ま た心脳同一説においてさえも、意識を伴う制御機能の性質に先行し、これを決定する特定の神 経活動が必要とされるような論理的な必然性はありません。また、先行する無意識プロセスが 特定の発達をすることなしに、制御プロセスが現れる可能性を否定する、実験的な証拠もあり ません。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図――私 たちに自由意志はあるのか?――,岩波書店(2005),pp.170-172,下條信輔(訳))
(索引:)





マインド・タイム 脳と意識の時間 (岩波現代文庫 学術429) [ ベンジャミン・リベット ]