科学的方法とは?
政策への科学的な方法が、つねに事象の原因の研究から始まるというのは、錯覚である。原因はわかないかもしれないし、制御できないかもしれない。犯罪の抑止であれば、法律と警察力の導入の研究が先だろう。(カール・ポパー(1902-1994))
「以上のすべてが示すことは、一見公平で科学的に見える態度、すなわち「戦争の原因」の 研究が、実は偏見をもっているばかりでなく、合理的解決への道を閉ざしがちだということで ある。それは、実際には疑似科学的なものである。 もし法律と警察力の導入をする代わりに、犯罪の問題に対して「科学的に」、すなわちまさ に犯罪の原因であるものを発見しようとすることによって取り組むとしたら、われわれは一体 どこまで進めるであろうか。われわれは犯罪ないし戦争に寄与する重要な要因をそこここで発 見することができないとも、またわれわれはこの方法では多くの害を避けることができないとも、私は言うつもりはない。だがこのことは、われわれが犯罪を統制下に置いた後に、すなわ ち警察力を導入した後にはじめてできることである。他方、犯罪の経済的、心理的、遺伝的、 道徳的等の「原因」の研究とこれらの原因を除去しようとする試みでは、とても警察力(これ は原因を取り除くものではない)が犯罪を統制下に置くことの発見へとわれわれを導くことは なかったであろう。「戦争の原因」というような語句のあいまいさは別としても、その態度全 体がとても科学的とは言えない。それはあたかも、寒いときに外套を着ることは非科学的であ り、むしろ寒い天候の原因を研究してそれを取り除くべきだと主張するようなものである。あ るいはおそらく、注油することは非科学的である、というのもわれわれはむしろまさつの原因 を発見してそれを取り除くべきなのだから、と主張するようなものである。後者の例は、私の 考えでは、一見科学的な批判の不合理さを示すものである。というのは、注油が確かにまさつ の「原因」を減少するのと同様に、国際警察力(ないしこの種の別の武装体)は戦争の重要な 「原因」、すなわち「罰を受けずに戦争をやり遂げる」という希望を減少するかもしれないか らである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(7),p.328,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))
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