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2021年12月3日金曜日

例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的唯名論と本質主義

例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「自然科学の分野で方法論的唯名論が支配的であることは、ほとんどの人が認めるはずであ る。たとえば、物理学は原子の本質や光の本質を問うことはなく、ただこれらの言葉を物理的 観察を説明し記述するために利用し、重要かつ複雑な物理構造の名称として用いているだけで ある。  生物学でも事情は同じである。哲学者は生物学者に対して、「生命とは何か」「進化とは何 か」といった問いの回答を求めるかもしれないし、生物学者の中にもときにはその要求に応え ようとする者が出てくる。しかし、科学としての生物学は全体としてそのような問題には対応 することなく、物理学にごく近い説明や記述の方法を採用している。  そうすると当然、社会科学の分野でも、方法論的自然主義者は唯名論を支持し、反自然主義 者は本質主義を支持することが予想される。ところが実際には、社会科学ではどうやら本質主 義が支配的なのである。しかも、それに対する積極的な反論は存在しない。本質主義の立場は 以下のように論じる。 
 《自然科学の方法が基本的に唯名論的であるのに対して、社会科学は方法論的に本質主 義を採用せざるをえない》。社会科学の任務は、国家、経済活動、社会集団など社会学的実体 を理解し、説明することであり、それは、それらの実体の本質を見抜くことによってのみ成し 遂げられる。重要な社会学的実体には必ずそれを指示する普遍名辞が前提として存在し、自然 科学で行なわれて成果を上げているように自由に新しい言葉を導入しても、意味がない。社会 科学の任務は、これらの実体を明確かつ適切に、すなわち本質的な部分と偶有的な部分を区別 して記述することだが、そのためには本質の知識が必要とされる。「国家とは何か」や「市民とは何か」(アリストテレスは『政治学』の中でこれらを根本問題と考えている)、あるいは 「信用とは何か」、「英国国教会教徒と分離派教徒(つまり教会とその分派)の本質的な違い は何か」といった問いは、完全に正当な問いであるのみならず、まさにそれに答えるために社 会学理論が構築されるような種類の問いなのである。
 歴史主義者はそれぞれ、形而上学的問題に対する姿勢や、自然科学の方法論に関する考え方 で互いに異なるが、社会科学の方法論に関する限りでは、唯名論より本質主義に傾くことは明 らかである。実際、私の知る歴史主義者はひとり残らず本質主義的態度を取る。しかし、その 理由が歴史主義が持つ一般的な反自然主義的傾向のみによるものか、あるいは本質主義の方法 を支持せざるをえないような特殊の歴史主義的議論が存在するのかという点は、考察に値す る。  第一に、社会科学で定量的方法を用いることに反対する議論は、明らかにこの問題に関連す る。社会的できごとの定性的性格を強調することと、(単なる記述ではない)直感的理解を強 調することは、本質主義にきわめて近い態度である。  しかし、もっと歴史主義に典型的で、すでに読者にはお馴染みになっている考え方の傾向に 沿った議論がある(偶然ではあるが、アリストテレスは、まさにこの議論により、プラトンは 最初の本質論を発展させたと指摘している)。  歴史主義は変化の重要性を強調する。すべての変化には、変化する何かが存在しなければな らないと、歴史主義者は論じるだろう。  
 不変のものが何もないとしても、変化について語るためには、〈変化したもの〉を同定 できなければならない。  物理学においてはこれは比較的容易である。たとえば力学においてあらゆる変化は物体の運 動、すなわち空間-時間的変化である。しかし、主に社会制度を考察対象とする社会学におい ては、変化した後の制度を同定することは容易ではないため、困難は大きい。記述的な意味の みで言うなら、変化《前》の社会制度を変化《後》の制度と同一と見なすことは不可能であ る。記述的な観点では、両者はまったくの別物かもしれない。  たとえば英国における現在の政治制度を自然主義的に記述するとしたら、4世紀前の制度と は完全に異なるものとして提示しなければならないかもしれない。しかし私たちは、《行政 府》がある限り、大きく変わっていようともそれは《本質的に》同じものだと言うことができ る。現代社会でその制度が果たす機能は、かつての制度が果たしていた機能と《本質的に》同 じである。両者の特徴を記述すればほとんど同じところは残っていないにもかかわらず、《本 質的》同一性は保たれており、一つの制度の形が変化したと見ることができる。社会科学にお いては、不変の本質を想定することなしに、つまり方法論的本質主義に沿うことなしに、変化 や発展を語ることはできないのである。  不況、インフレーション、デフレーションといった社会学的な用語のいくつかが、もともと 純粋に唯名論的に導入されたことは、言うまでもなく明らかである。しかしそうだとしても、 これらの用語はすでに唯名論的な性格を持ち合せていない。社会状況が変化すると、遠からず 社会科学者たちの間で、ある現象が本当にインフレーションであるかどうかを巡って意見の食 い違いが生じるのである。こうして、厳密を期すために、インフレーションの本質的な性質 (あるいは本質的な意味)を探究する必要が出てくるであろう。  したがって、いかなる社会的実体についても、「その《本質》に関する限り、ほかの何らか の場所、ほかの何らかの形で存在するかもしれないし、同様に実際には変わらないまま変化す るかもしれないし、実際の変化とは違う仕方で変化するかもしれない」(フッサール)と言う ことができる。起こりうる変化の幅は、アプリオリには限定されない。社会的実体がどのよう な種類の変化を受けて、なお同じでありつづけられるかは、けっしてわからない。ある観点か らは本質的に異なる現象が、別の観点からは本質的に同一であるということもあるかもしれな い。

 右に展開してきた歴史主義者の議論からは、以下の結論が導ける。 

 社会の発展をそのまま記述することは不可能である。あるいは、社会学的記述は単なる 唯名論的意味での記述ではありえない、と言った方がいいかもしれない。社会学的記述が本質 抜きではありえないとしたら、社会の発展の理論はなおさら本質を無視しては成り立たない。 社会的なある時代の特徴を、その時代の緊張状態やそこに内在する傾向やトレンドとともに確 認し、説明するという課題に対しては、唯名論的手法により一切の対処の努力が許されないと いうことは、誰も否定できないからである。

 したがって、方法論的本質主義の基には、プラトンを実際に形而上学的本質主義に導いた議 論と同じ歴史主義的議論があると言うことができる。つまり、変化する事物だけでは合理的記 述は不可能だというヘラクレイトス的議論である。 

 科学や知識は、前提として、変化せずにそれ自体と同一であり続ける何ものか、すなわち本質を必要とする。  こうして見ると、《歴史》、すなわち変化の記述と、《本質》、すなわち変化の中で不変を 保つものとは、相関的な概念であると思われる。しかしこの相関には別の面もある。ある意味 で本質は変化を前提とし、それにより歴史を前提としているということである。なぜなら、事 物が変化するときに同一のまま変化しない原理が本質(あるいはイデア、形相、本質、実体) であるとするなら、その事物が被る変化こそが、事物の異なる側面、あるいは可能性を、した がってその本質を明るみに出すからである。つまり、本質とは事物に内在する可能性の総和、 または源泉と解釈することができ、変化(あるいは運動)とは、事物の本質の潜在的可能性の 現実化、具現化と解釈できる(この説はアリストテレスに由来する)。したがって、事物、す なわちその不変の本質は、《変化を通して》のみ知ることができると言える。  たとえば、あるものが金でできているかどうかを知りたければ、叩いたり、化学的に検査し たりして、つまりそれを変化させて潜在的可能性を引き出さなければならない。同様に、人間 の本質――性格――は、その本質が人生の展開の中で現われてくるときにのみ知ることができる。 この原理を社会学に適用すると、以下のような結論が導かれる。ある社会集団の本質、すなわ ち本当の性格は、その歴史を通じてのみ自ら現われ、知られることができる。  しかし、社会集団がその歴史を通じてのみ知られうるとしたら、その集団を記述する概念は 歴史的概念でなければならない。実際、日本《国家》であるとかイタリア《国民》、アーリア 《民族》といった社会学的概念は、歴史研究に基づいた概念であるとしか考えられない。社会 《階級》についても同じことが言える。たとえば《ブルジョワ》というのは、歴史によっての み――産業革命により権力を得て、地主を押しのけ、プロレタリアートと闘っている階級として ――定義される概念である。  

 本質主義は、変化する事物の中で同一性を見出せるのは本質あってのことであるという根拠 に基づいて考えられたものかもしれないが、結局は、社会科学は歴史的方法を採用しなければ ならないとする見解、言い換えれば歴史主義を支える最も強力な議論の一部を用意するものと なったのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,10 本質主義と唯名論,pp.61-65,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)