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2021年12月31日金曜日

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うということ

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(1)法それ自体に従うということ
 たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信である。疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分に説明できない。

(2)法の発展と検証が目的である
 根本的な諸目的は、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証である。我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。

(3)制度を支える基本的倫理
 (a)何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて、社会の内部に 十分な一致がある。
 (b)したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったりしない。
 (c)自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもない。




「これらの慣行は、疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分表現されていない。このような理論を主張する人々も、現にこれらの慣行があるという 事実を否定することはできない。おそらくこれらの論者が言わんとすることは、そうした慣行 は脆弱な諸仮説に基づいているが故に、またその他何らかの理由により、合理的なものではな いということであろう。しかし、このことは彼らの異論を不可解なものにする。何となれば、 彼らは、自分達がこれらの慣行の根底にある諸目的をいかなるものと考えているのかを決して 明言していないからである。そして、これらの目標が明言されなければ、問題の慣行が合理的 なものかどうかを決定することはできないのである。私は、これらの根本的な諸目的とは、私 が前に記述したようなものであると理解している。すなわち、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証がそれである。  我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。もっとも、そうしたことが市民に許されるといっても、それは裁判所が同意しない 場合の危険負担を伴うものであるが。この戦略が成功するかどうかは、次の点にかかっている のである。すなわち、何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて社会の内部に 十分な一致があり、したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったり、あるいは自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもないかどうか、にかかっているのであ る。私は、論証の当否を判定する規準についてこうした陥穽を避けるのに十分な一致があると 信ずる。もっとも、法哲学の主要な任務の一つは、これらの規準を公然と提示し明確にするこ となのであるが。いずれにせよ、私が記述してきた慣行は未だ誤っていると証明されたことは ないのであり、それ故、他者が法と考えるものを破る人々に寛大であることが正当かつ公正で あるかどうかを決定するにあたっては、これらの慣行が考慮されなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.290-291,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)